第4章 そして廻る
第34話
神に抗いし者たちの末路について
(『天界誌』第三巻「死後の記録」より)
ある時代、神を憎み、神に抗う者がいた。
彼らは神の名を騙り、あるいは神に成り代わろうとした。
しかし、その末路はひとつに定まる。
神は沈黙し、彼らは己の声に呑まれ、
やがて虚へと堕ちていった。
それでもなお、
その声は世を越えて響き、
いまも人の耳を惑わせるという。
夜、リオは一人机に向かい、テキストやノートの文字を眺めていた。
ろうそくの柔らかな光が、彼の記憶を這うようにゆらめいている。
「おとぎ話じゃあるまいし…。
どうしてこんな話、信じようと…。」
ここ数日の珍妙な出来事、いや、自身が孤児院に拾われた頃から全てが夢で、自分はまだ、寒空の下で震えながら春を待っているのかもしれない。
そうであったら、どれほど楽だろうか。
文字をなぞる指はあんなに貧相だったのに。
いつの間にか、視線も高くなってしまった。
誰かと話す時だって、第一声は掠れていたはずだ。
ああ、これは現実だ。
どうしようもなく目を背けたくなる現実だ。
神の目だなどと囃し立てられ、何の力もないのにと俯いて、突拍子もなく突きつけられたのは、抗うことのできない無理解。
リオは小さく息をついた。
知らなければならないことが、あまりにも多い。
「願いが叶えば、…僕は僕でなくなるのか?
死んでやっと叶うかもしれないなんて、皮肉が効きすぎてる…。」
どれだけテキストや古い宗教関連の書物を読み漁っても、見えてくるのは抽象的な神の話ばかり。
セラフやディナの話を噛み砕いた方が、まだ納得できることも、またリオにとっては皮肉だった。
現代でも何者かが、神に、アーセルに背いている。
彼らの話では、それは十中八九、神の耳とやららしい。
「闇に潜む同胞か…。ロマンス雑誌もびっくりだな。
…最近、独り言が増えた。」
口を尖らせ、時期に明るくなる窓の外へと目を向けた。
もう、神に祈りを捧げる時間になる。
たった数日前、ここでヴァリアンが泣き止むのを三人で待っていた。
あの日も気付けば明け方で、いつもの癖で祈りの姿勢をとったリオ。
いつも表情を読み取れないアーセルの顔が、驚いていたのを覚えている。
ああ確かに。
神が目の前にいて、そのうえ神の一部である自分が祈りを捧げるだなんて、見せかけにしても滑稽だ。
孤児院にいたのは、おそらく三日ほどのことだったように思う。
それでも、そのたった三日間で教わった朝の慣習は、今でもリオの生活に根を張っている。
リオは目をこすりながら、学園へ向かう準備を始めた。
セラフに小言を言われるのにも、もう慣れてしまっていた。
第35話
人の魂が至る場所について
(『天界誌』第三巻「死後の記録」より)
人の魂は、死んだのちに天と地のあわいを渡る。
正しい者は天の楽土に迎え入れられ、
罪深い者は業火の底で踊る。
そして、神の御声に背いた者は虚無へと堕ち、
二度と名を呼ばれることはない。
ゆえに、人は生きている間に祈りを欠かしてはならない。
祈りこそが魂を導く灯であり、
それを失えば、帰る場所もまた失われるであろう。
「ねえディナ。人って死んだらどうなるんだろうね。」
「…神であるあなたが、それを言いますか。」
アーセルはベッドに寝転んだまま、天井を見つめている。
人間の死後の世界など、アーセルは知らない。
テキストを初めて読んだ時、やれ天国だやれ地獄だなどと、よく膨らむ夢物語だと感心したものだ。
「あなたは、昔からそうだ。
生きているもの以外に、興味がない。」
ボソリと呟いたディナの声は、アーセルには届かない。
「僕、ヴァリアンが苦しんでるって知らなかった。
ずっと忘れてて、でも大事じゃなかったわけじゃないんだよ。…リオだけを、見すぎてたかなあ。」
神の愛は、分け隔てがないことをディナは知っている。
人間も、ヴァリアンやリオも、天使であるディナも、彼にとっては等しく愛すべき存在なのだ。
「ノクターは、どうしてるかな。
僕は耐えきれなくて捨ててしまったけど、…あの子も、耐えられなくなったのかな。」
そしてそれは、自らの手で切り落とした神の耳にさえ与えられるもので。
だがアーセル自身は気付いていない。
その愛は今、リオだけに注がれていることに。
「…ご存じだったはずでしょう。
ノクター様の行いも、放置し続ければどうなるかも。」
アーセルは答えない。
その目が己に向けられていないことに、ディナは少なからず安堵していた。
はるか昔に捨てたはずの神の一部が、今になって神に歯向かおうとしている。
背く者など幾度と見てきた。
だが今は、神の耳が明確な悪意を持って世に蔓延ろうとしているのだ。
「…リオの邪魔、してるのかな。」
その言葉にディナは目を伏せ、わずかに肩を揺らした。
己の立場を、ただ顧みるしかできなかった。
「ノクターのところに行かなきゃ。」
「…そうですね。
ノクター様も、待っておられるはずです。
それはそうと。」
ツカツカと小気味良い音を立て、ディナはアーセルに近寄った。
アーセルの手から掠め取ったのは、小さな菓子の包み紙だ。
「ベッドの上での飲食は禁止したはずです。
子供のような真似はおやめなさい。」
次の日、アーセルが足を引き摺りながら歩く姿を、もはやいつものことだと生徒も教師も、誰も気に留める者はいなかった。
第36話
夢を見た。
神はそこで、よく人間の願いを聞いていた。
とても穏やかな表情で、その目は愛に満ちていた。
神は嘆いていた。
共に茶を囲める相手が欲しいと。
私には叶えられない。
神は嬉しそうに笑っていた。
あれは人間でいう家族なのだろう。
私にはわからない。
神が、泣いていた。
もう耐えられないと。苦しいのだと。
そう言って自らの耳を切り落とすのを、私は黙って見守るしかできなかった。
ああ、何が夢か。
これは現実だ。
天使に睡眠も夢も、必要ない。
だけれど目を閉じれば見えてくる光景は、あまりにも無慈悲で、己の無力さだけがいつまでも胸を突いてくるのだ。
ようやく朝日が昇り、ディナは身支度に取り掛かる。
もう何度、同じ朝を迎えたか、数えることもなくなってしまった。
どうか、神の思うままに。
届きもしない願いを、そっと口から吐き出した。
「ねえ、ディナ。」
先程まで静かに紅茶を味わっていたアーセルが、目を伏せたままふと口を開く。
「リオは、今日も祈ってくれてるのかな。」
その声があまりにもか細く、まるで人のようで。
以前見たリオのあの姿は足がすくむほどに美しかったけれど、おそらく中身など、初めからなかったかもしれない。
ディナの目に映ったリオの姿と、アーセルが感じたリオの祈りとの間にある、底知れぬ溝。それを埋める術を、ディナは持ち合わせていなかった。
「…きっと。」
彼らしからぬ歯切れの悪さが一層溝を深めているなどと、誰が気付くことができただろうか。
アーセルは音もなく席を立ち、ある教会へと向かった。
同じ頃、朝の日課を終えたリオはそのポーズのまま、顎に手を添え動かない時間を数分過ごしていた。
なぜ、今の今まで考え付かなかったのか。
リオに身内はいないし、いたとしても神について教えてほしいなど、この国の人間には戯言にしか聞こえないだろう。
だがリオの人生でたった一人、神について、講義のように四角四面ではない、彼の求める答えを持ち得る人物が、いる。
あまりにも生活に馴染んでしまったせいで、目の前から霞んでいたのだろう。
毎朝の祈り。
それはわずか三日間の孤児院での生活で、司教から教わったものだ。
ああ、どんな人だっただろう。
思い起こせるほどの手がかりもない。
だけれど、会いに行く価値はある。
リオはすぐさま身支度を始めた。
知らねばならない、ただその一心だけが彼の背を押し続けた。
第37話
懐かしいと言えるほどの思い出もない景色は、もう随分とくたびれてしまった。
建物の塗装がところどころ剥がれ、奥に見える教会が一層侘しさを浮き彫りにしている。
かつては、たくさんの子どもたちが暮らしていた。
あの日リオも、小さなロゼリアに手を引かれ、ここに辿り着いた。
かすかな笑い声が聞こえる。
きっと今も、この場所は子どもたちを見守り続けているのだろう。
庭に足を踏み入れると、そこは可愛らしい草花に囲まれ、使い古された遊具で楽しそうに遊ぶ子どもたちの姿があった。
あの日と同じ空気が、ここにはまだ流れている。
「…こんにちは。
ダルヴァン司教はいらっしゃいますか。」
無遠慮にリオのことを見つめる、たくさんの目。
だがその目に宿る好奇は、今までさらされてきた不愉快とはまた別物で。
リオはなんとなく落ち着かず、誤魔化すようにそう声をかけた。
すると遊具の影から、少し気の強そうな、淡いミルクティー色の髪をした女の子が顔を出した。
「教えてあげてもいいよ。
その代わり…遊んでよ!」
「………は?」
リオの戸惑いなど気にも留めず、女の子はリオの手を取り駆け出した。
…こんな子どもの手なんて、簡単に振り解けるのに。
「あたしマーガレット!
今からお兄ちゃんが鬼ね、みんな逃げてー!」
有無を言わさず始まった鬼ごっこ。
あの頃のそれとは違う。
子どもたちは皆すばしっこくて、手加減なんていらなくて。
「……なんで、こんな…。」
ものの数分で、リオは膝に手をつき肩で息をしていた。
体力の無さは、折り紙付きだ。
そもそも、この服がいけない。
こんな動きにくい服でなければ、もう少しまともに動けたはずだ。…多分。
子どもたちはリオを指差し、笑い合った。
あまりに楽しそうに、笑っていた。
だから、無意識だった。
「あー!お兄ちゃん、やっと笑った!」
「ほんとだ!お兄ちゃん笑った!」
声をあげて笑ったのは、いつぶりか。
いやもしかすると、初めてかもしれない。
そうか。遊ぶって、楽しいことだったんだ。
そんな当たり前のことを、リオは今まで知らなかった。
「その目、キラキラ光ってとってもきれい。
笑ったらほら、もっとキラキラしてる!」
ああ、以前にもそんなことを言われたんだ。
たった一つだけ、ずっと信じていた言葉。
「…知ってるよ。」
リオが微笑むと、マーガレットはほんの少しだけ頬を染めたが、すぐにくるりと背を向けた。
「疲れちゃったなら、絵本読んでよ!
お兄ちゃんでもできるでしょ?」
そう言って持ってきた絵本は、『かみさまのたからもの』だった。
リオも幼い頃に何度も読んだ、おとぎ話だと信じて疑わなかったお話。
読み書きを覚えるために、必死だったっけ。
子どもたちに囲まれ、あの日のように読み聞かせた。
「ねえ、お兄ちゃんの目の色って、かみさまの色なんでしょ?きっとお兄ちゃんも宝物なんだね!」
読み終えると、ある男の子が無邪気にそう言った。
絵本をそっと閉じながら、リオは目を瞬かせる。
自分が、誰かの宝物かどうかなんて、どうでも良かった。
あの時は、なんと答えたのだったか。
口任せに「そうならいい」なんて、言ったかもしれない。
顔を伏せたその時、建物から出てくる人影があった。
子どもたちはそちらに気を取られ、リオの目頭に熱がこもったことなんて、誰も気付きはしない。
「おかえりなさい、ダルヴァン様!」
リオがここを訪れた目的である司教。
灰色のローブを纏ったその男が、目の前で微笑みを浮かべている。
第38話
教会の扉を押し開けると、そこには決して広くはないけれど、洗練された空間があった。
高い天井から差し込む光がステンドグラスを透過し、大理石の床を優しく彩っている。
「静かだね。
ねえディナ、なんだかここ、落ち着くね。」(アーセル、神様のセリフ、男設定)
「ええ。…天界と、よく似ています。」(ディナ、天使のセリフ、男設定)
少し寒々しい空気が漂い、一歩足を進めるごとに音の響くこの場所は、二人を歓迎しているのか、それとも拒絶しているのか。
そうして祭壇に近づくと、薄暗がりに一人、灰色のローブを見に纏った男が佇んでいる。
「久しぶりだな…。
相変わらず、人のような顔をしている。
こちらでの生活はどうだ?
…いや、答えなくて結構。貴様の動向には毛ほども興味はない。」
低く湿った声が床を這うように二人の元へと届く。
現れたノクターは眉ひとつ動かすことなく、アーセルを見下ろしていた。
それでもアーセルは久々の再開を喜ぶように、ノクターの元へと向かった。
だが、ノクターは片手を上げアーセルの歩みを制した。
「そのような茶番はよしてくれ。
大方、神の目の話だろう。」
「…さすが、耳が早いね。
だけど君に会えたことは確かに嬉しいんだよ。
最後に会ったのは……。」
ノクターは鼻を鳴らし、不愉快だと言わんばかりに己の耳を数回、指先で叩いた。
「よせと言ったはずだ。
何が知りたい。神の目の祈りについてか?
貴様とて気付かんわけではないだろう、あれは無意味だ。祈りの声など何も届いてはいない。
それとも……神の左腕の所業か?脳の意向か、膵臓の行方か…どれもこれも、貴様の怠惰が招いたことだが。」
「君こそ、相変わらずお喋りだね。
…どうして、リオ(目、男設定)を傷つけるようなことをするの?」
アーセルの問いに、ノクターは身じろぎもせずせせら笑った。
ああ、神と称される者がたった一人の人間のために、たったそれだけの理由で、天界を堕とされた者にのこのこ会いに来るとは。
「…見下げたものだ。あれは私が唆したのではない。
ああ、そうだ。神に誓おうとも。」
「神は僕だ。」
「いいや、貴様は神などではない。」
「…セラフ(神の脳)を遣わせたのも、ノクターでしょ。」
「……いつまで、この茶番を続ければいい。」
結局のところ、アーセルは何もわかっていないのだ。
何も理解しようとしない姿に、ノクターは大きく息を吐いた。
いや彼にはもう、理解させようという気すらないかもしれない。
「あれを遣わせたのも貴様自身だ。
何度繰り返す、何度同じ過ちを犯し続ける。
貴様の持つ違和感すら、もうあの子どもでさえ超越しようとしている。だのになぜ、貴様が気付かない。」
「ノクター様。…お言葉が過ぎれば、たとえ神の耳とて容認致しかねます。」
不意に聞こえた声は、畏怖を押し殺しているのか、はたまた建物による反響かは定かではないが、微かに震えていた。
「…ああ、貴様も相変わらずだ。
いつまで腰巾着を気取っているやら。
しかし…これよりは幾分マシだろうな。」
アーセルを見下ろすその表情は何よりも冷たく、ステンドグラスを通した光でさえ、弱々しく瞬くしかなかった。
第39話
子どもたちの笑い声が遠く聞こえる、小さな部屋。
窓から差し込む光がテーブルを照らし、隅にある使い古された聖書を優しく包んだ。
「ハーブティーはお好きかな?
ここで育てたミントを使っていまして…、ほら、庭に花壇があったでしょう。
実のところ、どうも私は紅茶が舌に合わず…。いやはやお恥ずかしい。」(ダルヴァン司教のセリフ)
よく口の回る男だ。
記憶にある男の顔が朧なのは、差し出されたカップから立ち込める湯気のせいだろうか。
やけに、鼻奥が痛む。
「ああ、そうだ、リオ。
随分と背が伸びましたね。しっかり食事を摂れている証拠です……、安心しました。
ギルドラ家での生活はいかがですか?
…ああ、ここでこんな話をしては、子どもたちが羨ましがってしまいますね。」
「ギルドラ家は没落しました。
ダルヴァン司教、あなたがご存知ないはずがない。」
刺しに行ったはずの刃はひらりとかわされてしまった。
ダルヴァンは変わらず、穏やかに微笑んでいる。
「…ああ、そうでした。
あなたにとってはここと同じ、ただの古巣だ。
しかし、祈りは……、続けられているようですね。
だけれどまあ…リオ、君の祈りはあまりにも貧相で……。そう、空虚だ。神には何も届きはしないでしょう。」
リオは幼心に、この男が苦手だったことを思い出した。
何もかも、知ったような口を利く。
「…全て見てきたような口ぶりですね。」
「いいえ。私にそのような力はありません。」
「あなたは、神は存在するとお思いですか。」
「もちろんです。リオは信じていないのですか?」
ダルヴァンはカップに口をつけ、その笑みを貼り付けたまま悠然とリオを眺めている。
その目には悪意も、見透かすような鋭敏さもない。
だけれどどうにも居心地の悪さが、リオの肩を掴んで離さない。
「僕は…、先日、神の加護を目の当たりにした。
…とある人に怪我をさせられたが、気付けば傷痕ひとつ残っていませんでした。」
リオは喉元をさすった。
確かにあの時、鉄の指先で息ができないほどに締め付けられたはずだった。
「それは加護ではありません。そやつの甘さです。」
「…神の淹れる紅茶を飲みました。
その効果で文字通り、死ぬほど眠ってしまった。」
「ええ確かに、神の紅茶には特別な力があると言われています。
だけれど…あなたが飲んだ紅茶は神の紅茶ではありません。」
あまりにも淡々と、見てきたものが否定されていく。
足元のタイルを一枚一枚、丁寧に剥がされていくような。リオの目が映した事実が、ラベルごとすり替えられていくような、感覚。
なぜ、リオはここに座っているのだろう。
神は本当にいるのだと訴えるためか。
自身の体験を誰かに共有するためか。
今まで歩んできた人生を、証明するためか。
…いや、この違和感の正体を、知りたいだけのはずだった。
「……。
僕は、神を知っています。この目で、見ていた。」
瞬間、リオの首筋に悪寒が走った。
ダルヴァンは組んだ指先で口元を覆う。たったその仕草に、リオは目を逸らせなかった。
第40話
アーセルがここに来た目的は、何だったろう。
リオに危害を加える理由。
ただそれを知りたいだけだったのに。
「君は、何がしたいの。」
「何がしたい。何がしたい?
わからんか。そうだろうとも。」
初めて、息を呑んだ。
ノクターの芝居がかった仕草が、アーセルの足を半歩、祭壇から遠ざける。
「貴様には…ああ、考えも及ばんだろう。
私が何を知りどれほど苦しみ、愛する神の元から追放され、足りぬ脳で奔走する貴様の姿に何を思ったか。
……ああ、そうだ。あれに祈りを教えたのは私だ。
まさか今まで何も願わず生きているとは驚きだが、…何も想定の外の話ではない。」
何も願わず生きてきた。
その言葉は、何よりもアーセルの脳裏に焼き付いた。
そんなはずはない。
この目で見たのだ。リオは確かに祈っていた。
何も感じ取れなかったが、それでも彼は祈っていた。
「リオは、祈ってた。」
ノクターは大袈裟に息を吸った。
まるでアーセルの返事を待っていたかのように。
「ああああ、そうだろう、祈っていた。祈っていた!
だが何が聞こえた?何も聞こえなかったはずだ。私でさえ、神の耳である私でさえ、あれの声を聞いていないのに。貴様に聞こえるはずがない。
あれは祈りの姿勢を取るだけの、ただのハリボテだ。
貴様が神を騙る以上、あれが願うことなどない。」
ノクターが何を伝えたいのか、わからない。
少しずつ、目の前の壁が迫ってくる。
神は自分で、リオやノクターは自分の一部だ。
何も間違えてはいない。何も。
「アーセル様…!」
遠くに、ディナの声が聞こえる。
己を形作っていたものが、崩れていく。
「アーセル、アーセル、アーセル!
おかしいとは思わんか。
本来、神に心などない。慈愛そのものの存在だった。
それがどうして、貴様という存在が生まれた。
あの時貴様が願ったあの瞬間!
……神は神でなくなった。
私が愛した神は貴様などではない。
今の貴様の姿を見てみろ。たった一人の人間に心乱され、嘆き悲しみ、己が欲望のために試練を与え続け、罪のない人間すらも陥れ。……禁忌という大罪に幾度となく触れ続けている。
ああ、嘆かわしい……。」
「…違う。僕は、リオの願いを、叶えなきゃ…。」
やっとの思いで言葉を紡ぐも、アーセルはそのまま床に膝をついた。
…気持ち悪い、知らない、こんな感覚。
口元を押さえ、青くなるアーセルに、ディナは一瞬駆け寄るのを躊躇した。
あまりにも、神とは程遠い姿ではないか。
「その願いとやらも、貴様が作り出した幻想だ。
……こんな戯言に付き合わされた者たちに心からの労いを。
神の目……あれも、私と同じだ。
願いなど持ちはしない。そう仕向けたのは貴様自身だろう。
ああ、貴様が、誰かと茶を飲みたいなどと願ったせいだ。そこから全てが狂っていった。
……それが、貴様の正体だ。
神の名を騙るだけの、矮小な【感情】だ。」
アーセルは首を振った。
そんなはずがない。自分自身が神であると。
だが、その足元にはもう、縋るほどの足場は残ってはいない。
「ノクター…、僕は…。」
「ああ、その名を呼ぶのはよしてくれ。
神から見捨てられたあの日、私はその名を捨てた。
……ダルヴァン、それが今の私の名だ。」
第41話
「あれは神などではありません。」
いつの間にか、カップは冷めてしまったようで。
小さな窓から差し込む光はオレンジ色に染まっている。
「…どういう…、あれは、確かに、」
「ええ、あなたは見てきたのでしょう。
だがそれは神ではない。神の名を騙る、下賎な者の成れの果てです。」
押し黙ることしか、できない。
探せども探せども、目の前の男に簡単に覆されてしまう言葉ばかりが浮かんでは消えていく。
口をつけずにいたハーブティーは、もう体温よりも冷たくなっていた。
「…だけれど、僕は…。」
ダルヴァンは指先で耳を叩きながら、席を立ち大きく息を吐いた。
「ああ、リオ。
君の知る神とやらが本物かどうかなど、取るに足る話でしょうか?
何度問われようとも私は否定し続ける。そんなことが本当に重要ですか?
君は何が知りたい、何が知りたくてここにいるのです。」
知りたいことは、たくさんあったはずだ。
言葉がうまく出てこないのは、己の未熟さゆえか、はたまたダルヴァンの言葉の波に呑まれたせいか。
長い沈黙ののち、リオは声を絞り出した。
「…僕は、地を這って生きてきた。それがいきなり、神の目などともてはやされ、挙句神を名乗る者が本物の神の一部だと宣った。
僕は…神の目とは、何なのですか。」
リオが言い終わらぬうちに、軽やかな足取りでダルヴァンは振り返った。
穏やかに微笑んでいるはずなのに、眉ひとつ動かない。
「ああ、そうだ、そうでしょうとも。
君は孤児として生まれ毎日を必死に生きてきた。死にかけたこともあったでしょう。寒い夜を過ごした。空腹で動けぬこともあった。ようやく知った人の温もりも、わずか三日で終わり、次は神の目だと称えられ、見せ物にされ……。
屈辱だったことでしょう。ええ。
そうして、……再開した少女もまた、引き裂かれる運命となった。
君が、神の目であるがゆえの、逆らえぬ運命。
……おかしいとは思いませんか。
他の神の一部たちは皆、神の元へと還ったのです。
なぜ、神の目が、君だけが、こんなにも苦しまなければならないのか。
考えなさい。君は聡い。……私と同じだ。」
息を呑むしか、できなかった。
理解が、追いつかない。
「君は今まで、どれほど人間の弱さを、醜さをその目に映してきた?君を惑わせる偽物の神は、君に願えと言ったはずだ。だが君は願わない、願えない。
……君は、人間の欲望の渦に溺れ、願うことを諦めてしまった。私と同じように。
だからこそ、君はこの世界で苦しみ続ける。
切り捨てられることもなく、ただ君は踊り続ける。
……その偽物が作る世界で。君が願うまで、永遠に。」
「何を、言っているのか…。
偽物が、作った世界…?だって、なんで…。」
リオは首を降り、椅子ごとダルヴァンから身を引いた。体すらも、ダルヴァンの言葉を拒むように。
まさか、アーセルが?
そんなはずがない。
確かに奴は突拍子もない変人だ。
それでも。
『愛され続けたあんたに、何がわかる』
あの時のヴァリアンは、本気でそう訴えていた。
ルドルフやセラフを遣わせてでも、ずっと見守っていて。
「……ずっとって、いつから。」
リオの疑問に、初めてダルヴァンは笑った。
「さあ、まもなく答え合わせの時間だ。」
顔を上げた時には、その姿は霞のように散った後だった。
第42話
ステンドグラスの赤が濃くなってきた頃。
ダルヴァンはえずくアーセルを見下ろしていたが、やがて自身の耳朶に触れながら、視線を奥の扉へと投げた。
「……ふむ。向こうの私は霧散したらしい。
舞台は整ったというところか。」
途端に、アーセルは扉の方へ駆け出した。
リオ。リオがいる。
なんで、今まで気付かなかったんだ。
やみくもに向かった先には、椅子に腰掛け天を仰ぐリオの姿があった。
大きな音を立てたはずなのに、少しの反応もない。
「リオ…大丈夫?ノクターに何かされた…?」
「……誰。」
アーセルの方を見ようともせず、リオはただ声だけで返事をした。
それでも、リオの無事を喜んだ。
彼の返事がそっけないことなど、今に始まった事ではない。
アーセルの表情に、少しずつ笑みが戻る。
「ノクター…ああ、ダルヴァンだよ。
ここの司教で、僕の——」
「結局、全部お前か。」
「……えっ?」
リオはゆらりと、立ち上がった。
その美しかった金の目はどす黒く、虚に覆われていくようで、映る全てを睨みつけている。
「お前は、なんなんだ。
あの男も、ルドルフも、僕も…、神の一部なんて大層な呼び名をつけて、……なにが、したい。」
するとアーセルはポカンと口を開けた。
何を困惑する必要があるのか。
およそこの場に似つかわしくない表情に、リオは奥歯を噛み締めた。
「何って、天界誌、読んだじゃない。
君たちが願って、僕がそれを叶える。僕が招いたら、僕のところへ帰るんだ。
君だけが願わないから、僕が手助けをしにきた。
それだけだよ、何も難しいことじゃないでしょう?」
いつもの、他人の感情などまるで見えていない、ただ自らの思うように動くアーセルだ。
あまりに真っ直ぐな視線が、今はあまりに不愉快で。
リオの鼓動が、速まった。
「リオは、リオだけ、何も願ってくれないんだよ。
何千年も何万年も、もうずーっと待ってたんだ。
でも、だめだったから…。
ねえリオ、君はどんな世界なら願ってくれる?
なんでも良いんだよ。
何を祈ってたか、聞かせて。
叶えてあげる。」
アーセルの笑顔に、今までにないほど嫌悪した。
怒りを覚えたことは、これまで幾度もあった。
だけれど、怒ったところで何が変わるわけでもないと、諦めていた。
それでも、今は。
「……ああ、そうか。
お前が作った世界…本当だったんだな。」
目に見えるほどの手の震えが、止まらない。
頭の中で何かが弾けた気がした。
「……ふざけるなよ。
今まで僕が…どんな思いで…ッ!
泥水まですすって生きてきたんだ、やっと平穏が手に入ったと思ったら、次は散々晒し上げられて、それが!全部、お前の掌の上だった…!
願うわけないだろう、何を願えって言うんだ!
何もなかった、何もなかったんだ…!!」
こんなにも声を張り上げたのは、きっとヴァリアンと対面した時以来だろう。
あの時こいつを庇ったなんて、バカみたいだ。
何が愛されているだ。
ただ縛り付けて、おもちゃにして、思い通りにならないからと癇癪を起こす子供のそれと同じだ。
そんなものより、もっと綺麗で、純粋な愛を、リオは知っている。
幼い頃から、知っていた。
ギィ…と控えめな音が鳴った。
二人が振り返ると、淡いミルクティー色の髪が覗いている。
「…ロゼ……?」
思わず、口を押さえた。
そんなはずはない。
彼女はここにはいない。
わかってはいたが、気付けばその人の名を、口にしていた。
おずおずと顔を見せたのは、小さな鏡を手にしたマーガレットだった。
「ご、ごめんなさい…。
あの、お兄ちゃんの目、きっと夕日に当たったらもっときれいだから、見せてあげようと思って…。」
アーセルが口を開くよりも前に、リオはマーガレットの元へと歩み寄り、跪いた。
「ありがとう。
まだ少し、ここで話すことがあるんだ。
ダルヴァン司教や、みんなのところで待ってて。」
鏡を受け取りながら、リオは微笑んだ。
マーガレットも笑みを咲かせた。
「うん!
…やっぱり、お兄ちゃんの目、きれいだよ!」
マーガレットの足音が遠のいていく。
扉を閉め、再びアーセルと向き直ったリオの表情には、何色も浮かんではいない。
「もう、放っておいてくれ。
僕が願うことは変わらない。平穏に死ぬことだけだ。」
アーセルの顔が、歪んでいく。
ああ、ダルヴァンの言葉に嘘はないかもしれない。
これを神と呼ぶには、あまりにも感情で溢れているのだから。
第43話
今にも泣き出しそうなアーセルを、リオはただ黙って見ていた。
もうじき、日が暮れる。
アーセルの金色の髪が赤く染まっていく。
同じ金色でも変人王子には近づけないと聞いて、納得した日もあった気がする。
「リオ、だめだよ、死ぬのはだめなんだよ。
死んじゃったら、帰ってこられないんだよ。
他にもっと、あるでしょう?
君は祈ってたんだから、僕は見たんだ…!」
髪が乱れるのも構わず、アーセルは頭を掻きむしった。
アーセルが焦るほどに、リオの目に赤色がちらつく。
「ねえリオ、嫌なものたくさん見てきたんでしょ?
なんで何も望まないの?おかしいでしょ?
もっとあるはずでしょ人間なら、幸せになりたいとか、お腹いっぱい温かいご飯が食べたいとか、ふかふかのベッドで寝たいとか、恋人が欲しいとか…ねえ、なんで君は何も望んでくれないの!?」
ああ、そうか。
その必死な姿は、ただ縋っているだけだ。
自らを神だと言い聞かせて、その自負に縋り付いているのだ。
リオはそれに気付くと同時に、この状況で冷静でいられる自分はまだ、人間なのだと安堵した。
「…人間と変わらないな。」
あんなにも喚いていたのに、リオの小さな呟きは漏らすことなく受け取ったらしい。
声がこわばり、口先だけが空を切る。
また、あの感覚だ。
嫌だ。
気持ち悪いのは、嫌だ。
足元に転がるアーセルの目は、それでもリオを捉えようともがいている。
荒い呼吸音だけが、やけに耳につく。
そうしてしばらくすると、自然と蝋燭に明かりが灯った。
「……だって、…だから、一人にして……。
バラ(ロゼリアのこと)……だって、要らないって……言ったのに…。」
扉の方へと歩みを進めたリオだったが、ふとアーセルの不可解な言葉が聞こえ、つい足が止まった。
「…何の話だ。」
振り返ったリオを迎えたのは、不気味なほどに無垢で、空虚なアーセルの笑顔だった。
咄嗟に、体を引いた。
その影が揺らめくのは、蝋燭の明かりのせいだろうか。
風も、ないのに。
「だって…だって、ずっと、願わないから…!
君を、一人にしたんだ……だって寂しいのは嫌でしょう…?
あの子も、そうだよ、あの子なら…!リオが恋人にって、望むと……でも、要らないって、だから切り離したのに……!」
こんな姿の人間を、リオは見たことがある。
家も何もなかったあの頃、同じような境遇の人間が、死に物狂いで生に手を伸ばし、齧り付いていた姿。
人としての尊厳を、忘れてしまったような。
今のアーセルは、それと何ら変わらない。
神としても、人としても、尊厳を失っている。
「わからないんだ……。
君が望まないから、わからないから、地位も、お金も、あの子も、全部用意したんだよ……!
お願いだよリオ、何か願って…!
そうじゃなきゃ、僕が、僕でなくなっちゃう…!」
パリン……——
リオの手からすり抜けた鏡が、鋭い音を立て床へと砕け落ちた。
頭が、割れるように痛い。
作られた世界。
リオにまつわるもの、リオの周囲にあるものすべてが、アーセルによって作られた世界だったのかと。
唯一リオを人間たらしめてきた、ロゼリアさえも。
リオは立ち尽くし、やがてゆっくりと割れた鏡の破片を拾った。
今でも、神の目は彼をまっすぐに見つめている。
「……そうか。
世界の浄化のためなんて言って、結局全部、自分のためだったんだな。
……やっぱり、こんな目、要らなかった。」
アーセルが声を上げる暇もなかった。
目の前が赤く染まり、少年の体が崩れていく。
その姿ひとつひとつが、鮮明に脳裏に焼き付いていった。
「——リオ!!」
リオが駆け寄ったアーセルの姿を見ることは、もうないだろう。
金色の目の代わりに、床に広がった水面が二人を映している。
「ああ、待ってよ、だめだよ…!
願って!願ってさえくれれば、助けられるから…!」
アーセルはリオの体を揺さぶった。
顔に血が飛び散ろうとも、構わなかった。
するとリオの口元がわずかに動き、息遣いだけがこだました。
「……願ったんだ。
ひとりだった頃、一度だけ…、でも叶わなかった……。
誰かと、ご飯、食べれたらって……。」
第44話
「……互いに、苦労が絶えんな。」
ステンドグラスから落ちた光は、徐々に赤が薄れていく。
眩しそうに目を細め、ダルヴァンは呟いた。
「何度、繰り返すつもりか……。
あれはまた、リオという存在は覚えてはおれん。
そうして何千年、何万年と……同じ願い持ったことも忘れて、神の目の願いだけを求め、禁忌に手を伸ばし続ける。
……貴様も、口を割れば良いものを。」
「……私は、神に仕える身です。
神の決定には…、それが、たとえ神の感情という一部であろうとも、逆らうつもりはありません。」
ダルヴァンの大袈裟なため息を合図に、壁中の蝋燭が一斉に明かりを灯した。
もう、夜が顔を見せ始めている。
「あれは己こそが神だと信じて疑わん。
疑うことすら頭にない。
……神でないからこそ、ここに目があったことも気付けなかったと言うのに…それすら……。」
何度目かのため息の後、彼はディナへと声を向けた。
「ああ、貴様はあれ(ヴァリアンのこと、騎士団員)とも接触していたな。
あれはまた、天界へは帰らなかったのか。」
「ええ。
…あの方は何度生まれ変わっても、職務を遂行してから戻る、と。今回も、また。」
「難儀な奴だ。
……昔からそうだ。心酔するにも限度がある。
あれは世界の欠陥だ。
……忘れられ、見つけてほしいと叫び、また繰り返す。
奴がそれに気付くことはない。」
どこかで、何かが割れる音が響いた。
二人は目を伏せたが、それに何の価値もないことは、とうの昔に知っている。
一瞬の沈黙を経て、ディナが重い口を開いた。
「……リオ様は次も、何も願わないのでしょうか。」
「奇跡でも起きない限りは、願わんだろう。
願ったとて、あれは願いと呼ぶには小さすぎる。
あんな幼子の望みなど……どこかで歯車が狂えば…、誰かが、そばに……。」
いつものように耳朶を指先で叩きながら、ダルヴァンは言葉を飲んだ。
これ以上何をぼやこうとも、今更歯車が食い違うことはないのだろう。
彼は首を振り、窓の方へと足を進めた。
「どうだ、お前が崇拝するあの神とやらに掛け合ってみては。
そうすれば、もう少しましな世界になるだろう。」
「…ご冗談を。」
すっかりと日は落ち、その場を照らす明かりは蝋燭の火だけとなった。
ステンドグラスには、二人の姿が朧げに映り込んでいる。
「……この世界が狂っていると知っているのは、私と貴様だけだ。
正常なのは……我々だけだ。」
「……何を正常と判断すれば良いか、私には分かりかねます。
ですが繰り返し続けるこの世界を、黙って見守るだけの私はすでに、……いえ、これは神への冒涜になりかねない。お忘れください。」
「私は、諦めてはいない。
また神が慈愛の存在となるまで……私は。」
ふっと静かな風が吹き、蝋燭の火が消え二人の姿は闇に包まれた。
神様は、今日も宝物を探してる。
自分の手で、世界中にばら撒いた宝物を——。
いつか見つかると、信じて。
【リメイク用】神様の茶会 えのぐ @mmm_ratrat
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