レンタル死刑囚、始めました――シンガー検事と特殊清掃員ラッパーが挑む、前代未聞の『償い』のリリック

冬海 凛

第一章・肉の孵化

第1話 大量殺人の朝に

 殺人罪に見合う刑罰など、この世に存在するのだろうか――。


 奪った命は、命でしか償えない。

 差し出せる命は、誰しも一つだ。


 大人が子供を殺したら、一人の人間が二人以上の命を奪ったら。命の天秤は、絶対に釣り合わない。


 笹嶋優花ささしまゆうかは、判例六法を静かに閉じた。


 ――名古屋地方検察庁刑事部。


 少し開けた窓から、年度替わりの春風が遠慮がちに吹き込んだ。


 優花が視線をデスクに戻すと、待ち構えていたようにビジネス・フォンの外線ランプが赤く点滅した。現場に急行する警察車両を思わせる。


 ワンテンポ遅れて、『ジムノペディ』がゆったりと流れ始めた。特別に設定したピアノ独奏曲は、そのまま凶悪事件の発生を意味する。


 優花は、萌葱もえぎ色のミモレ丈ワンピースをつまんで、膝上のシワを伸ばした。


 細く長い息を吐きながら、精神を集中させていく。息を吐き切ったところで、受話器をそっと持ち上げた。


「――笹嶋検事。事件です」


 愛知県警本部捜査一課の不動猛ふどうたけし管理官が、低い声で唸った。声音に多分の焦りを含んでいる。


 不動にしては珍しい。名字を体現するように、動揺とは無縁の男だと思っていたのに。


 県警から検察に直接連絡が入るケースは、犯人不明の殺人や強盗殺人だ。これを受ける検事を、凶悪重大事件を扱う〝貧乏クジ検事〟と呼ぶ。


 だが、優花にとって本部係検事こそやりがいがあった。


 気が付けば、もう二十九歳。


 筑波大学付属小学校に入学した頃から、殺人のニュースを見ては、判決に疑問を覚えた。性欲に負けて、被害者を殺害した上で屍姦。物欲に負けて独居の高齢者を強殺。


 理解できないし、何より許せない。


〝目には目を、歯には歯を〟の報復律で対処したとしても、割に合わない犯罪。犯人の更生以前に、殺された人間はやり直せないのだから。


「すぐに向かう。現場の状況は?」


 優花は脳内で手帳を開いてスケジュールを確認した。他の殺人事件の資料は、すでに一度、目を通して記憶してある。


 これ以上、調査資料を読み込む必要はない。公判準備も現場から戻った後で十分だ。


「かつてないほど凄惨です。間違えて食肉処理場に迷い込んだかと錯覚するほどに。お見せするには、かなりの抵抗がありますが……」


「遠慮するのは、なぜ? 私はグロさなんか気にしない。知ってるでしょ。事件の詳細を早く話して」


 優花はフックにぶら下がる解体された豚や牛の姿を想像した。


 猟奇殺人、快楽殺人。罪の意識が欠落した犯罪者と戦うには、現場の異常さから目をそむけている暇はない。


 不動の息遣いが速くなった。


「少なくとも十二人が殺害されました。いずれも、パーソナル・ジム『肉の孵化ふか』の女性会員です。フリーランスでトレーナーをしている柏木道成かしわぎみちなりは、体重八十㎏以上の会員に特典として、五日間の無料合宿の初回特典をプレゼントしていたようです。合宿で提供する食事やプロテインに睡眠薬を混入させ、眠った会員を拘束して、肉を剥離する凶行を……」


 犯人に対する怒りで、眩暈めまいがした。記憶の底に閉じ込めた深い闇の沈殿が、事件の発生でふわりと浮き上がる。


 パーソナル・ジムで起きた大量殺人。


 想像するだけで胸の内が熱くなっていく。肉を削がれた十二人の女性の死体は、犯人にどんな償いを望むのか。


 やはり報復か。


 国家社会の治安維持という検察の建前を侵食するように、渦巻く黒い感情が優花の身体を支配していく。


「絶対に許さない。現場は?」


「申し上げます。メモの準備は、よろしいでしょうか?」


「メモなんて必要ない。一度、聴けば忘れないから。というか、そもそも忘れるとは、どういう状態を指すのか、感覚すら分からないし」


 不動が咳払いをしてから住所と方書を慌てて口にして、電話を切った。


 名古屋市中区栄四丁目『エンジェルハイツ栄』三〇二・三〇三号室。


 パソコン上の地図サイトで、目的地を検索する。ここから約二㎞。八分もあれば到着できる。


 隣のデスクで、今のやり取りを聞いて苦笑いしている立会事務官の瀬戸口晋平せとぐちしんぺいに、優花はレクサスのキーを手渡した。


 三十五歳。独身。


 立会事務官を続けながら、特任検事を目指している真面目な好青年――いや、もう立派な中年か。


「大量殺人ですか……死体、やっぱり酷い状態ですよね?」


 優花は、大粒の汗を浮かべている瀬戸口に今治タオルのハンカチを手渡した。


「大丈夫。豚も牛も人間も、解体すれば単なる肉塊だから。むしろ、柏木の心の闇に目を覆いたくなる。だから、現場で吐くなら、柏木の面を見て吐いて」


 瀬戸口が遠慮もなく、受け取ったハンカチで額の汗を拭いている。こういう図々しいところを事務官の職務の中でも見たい。


「仰る意味は分かりますよ。それでも常人にとっては、人間の食肉処理場なんて恐怖以外の何ものでもないんです。これは映画のロケ現場なんだって、自分に言い聞かせないと足がすくんで……」


 瀬戸口が特任検事になるまでには時間が掛かりそうだ。


 優花は呆れて立ち上がった。


 死体が怖いなら、検事など目指さないほうが良い。それでも検事になりたいと思うなら、自分の信念を貫くしか道はない。


「そもそも、死体は被害者なの。恐怖心を抱くべきは、犯人でしょ。そう考えれば、死体は憐みの対象でしかない。ごちゃごちゃ言い訳してるなら、私だけで現場に向かうから」


 優花は瀬戸口の指先からキーを取り上げた。


「行きますって! 笹嶋検事には、凡人の気持ちが分からないんだもんなぁ。殺人現場って普通に怖いもんですよ。笹嶋検事と気持ちを通わせるのって、どうして、こんなにも難解なんだろう。笹嶋検事が東大首席だからか、それとも僕が単にバカなのか……」


 優花は振り返って、瀬戸口を見つめた。


「瀬戸口くんの普通が、私には理解できない。私は検事なの。大量殺人を犯した柏木に、開き直られるほうが遥かに怖いから」


 呆気にとられている瀬戸口の肩をポンと叩いて、優花は検察官室のドアを開けた。


「その台詞、カッコ良すぎるでしょ。どこまでもついて行きます!」


 叫ぶ瀬戸口を無視して、優花は事件に全神経を集中させていた。


          ◇


 清水橋街園を右手に見送り、レクサスは市役所東の信号を南下している。


 優花は助手席から脱着式の回転灯を点けた。


 瀬戸口が嬉しそうにハンドルを軽くタップした。


「いつも思うんですけど、一般車両がすっと左右に避けてくれて、これってモーゼの紅海割りみたいですよね。ヒーローになった気分で、テンション上がっちゃうなぁ」


 瀬戸口がくだらない公権力に興奮している。


 一般車両が左右に避けるのは、自分が捕まりたくない防衛本能によるもので、検察車両に対する尊敬の念など微塵もない。


 要するに、事なかれ主義の象徴だ。検察車両をやり過ごせば、平気でスピード違反を繰り返す。


「単なるまやかしでしょ。市民は赤灯を見て、反射的に安全な行動を選択しているに過ぎない。パブロフの犬と一緒」


「捻くれてるなぁ。たまには可愛らしい返答の一つでもないもんですかね。瀬戸口くんもスピードを出し過ぎて、事故らないでね、とか」


「道路交通法施行令第十三条では、緊急自動車の速度制限は一般道で八〇㎞なの。あと、十八㎞も加速できる。急いで」


 瀬戸口が生返事をして、一気にアクセルを踏んだ。

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