第8話 医者と患者、元妻と
診療室に戻ると、看護師の視線がこちらを追った。
「先生、そんなに我慢してたんですか? トイレ」
裕司は思わず笑みを作る。
「あ、ああ、ちょっと水分取りすぎたかな」
平静を装いながらも、胸の内はまだ落ち着かなかった。
あの短い会話で、何かを言い残した気がする。
いや、むしろ――言いすぎたのかもしれない。
椅子に腰を下ろすと、背中に冷たい汗が残っているのを感じた。
どうしてあんなことを、あんな言い方で。
裕司は、受付でのあの瞬間を思い出していた。
「今夜、電話する」
その言葉を口にしたときの自分の声が、耳の奥に蘇る。
あのときは、彼女の顔を見る余裕もなかった。
まるでドラマの台詞だ。
現実の自分がそんな言葉を言うとは。
裕司は静かにため息をついた。
若い頃から、女にモテるタイプではなかった。
明るく押すこともできず、冗談もうまくない。
恋愛の場面で、いつも一歩引いてしまう。
中年を過ぎた今は、なおさらだ。
街では“イケオジ”なんて言葉が飛び交っているが、
自分がその枠に入らないことくらい、分かっている。
鏡を見れば、疲れた目の下に薄い影。
髪には白が混じり、シャツのボタンの間から腹が少し覗く。
診療室では誰もそんなこと気にしない。
けれど、夜の帰り道、ガラスに映る自分の姿を見るたび、少しだけ胸が痛む。
そんな自分が――彼女に、あんな言葉を。
笑えてくるほど場違いだった。
彼女は、どう思っただろう。
裕司は机に肘をつき、手で額を押さえた。
理性は冷めているのに、胸の奥はまだ熱を残していた。
昼休み。
コーヒーを一口飲んで、スマホを手に取る。
頼れる相手は一人しかいなかった。
英介。
血は繋がっていない。
それでも、彼には何でも話せた。
変な気取りもなく、遠慮もいらない。
《今夜、彼女に電話する。気をつけることあるか》
短く打ち込んで送信する。
画面の光がやけに眩しく見えた。
送って数分も経たないうちに、スマホが鳴った。
あまりの早さに、裕司は思わず苦笑する。
《愛華さんのことは聞かないほうがいい》
短い文面だった。
だが、英介の性格を知っている裕司には、それが“本気の忠告”だとすぐに分かった。
「聞かない方がいい、か」
声に出してみても、喉の奥に何かが引っかかる。
思わず返信を打った。
《どういう意味だ、それ》
すぐに既読がつき、また返事が返ってくる。
《愛華さん、色々と彼女に話してるんじゃないかな》
裕司はその文面を見て、わずかに息を止めた。
スマホを置き、指先でこめかみを押さえる。
嫌な想像が浮かび、すぐに振り払おうとする。
愛華は悪い人間じゃない。
正直で思ったことをはっきり言うタイプだ。
裕司は画面を見つめながら、眉をひそめた。
愛華の顔が頭に浮かぶ。
きっと、あの調子で笑いながら言ってるんだ。
「真面目すぎてちょっと不器用なの」――なんて。
「……面白がってるな」
思わず口に出た。
呟いた声が、診療室の静けさにやけに響いた。
スマホが震え、英介からまたメッセージが届く。
《美夕さんに恋愛のアドバイスしてると思う》
英介から届いたメッセージを見た瞬間、裕司の指先が止まった。
胸の奥で、何かが音を立てた気がした。
自分と美夕は、医者と患者、年齢も離れている。
その関係を越えることなど、ありえない。
そう言い聞かせるたびに、言葉の響きが少しずつ軽くなっていく気がした。
歳だって離れている。
彼女にとって自分は、ただの主治医で、人生相談くらいはできる安全な相手にすぎない。
頭では理解しているのに、心が納得しない。
玄関を開けると、英介の声がすぐ飛んできた。
「裕司さん、ご飯、食べたら風呂に入って」
どこか落ち着き払った、いつもの調子だ。
台所のテーブルには、コンビニの袋。
中にはパンやおにぎり、ペットボトルのお茶まで揃っている。
裕司が眉を寄せると、英介は振り向きもせずに言った。
「風呂にも入って、準備してから落ち着いて電話したほうがいい」
意味が分からなかった。
英介はおにぎりのラベルを眺めながら、あくまで淡々としている。
「今、医療関係って人手不足で、ブラック企業並だろ。今日は平日、病院から帰ってきてやっと休める時間なんじゃない? そんなときに電話。彼女、気にするんじゃないか」
裕司は無言になった。
英介は続ける。
「晩御飯食べて、風呂に入ったら、たぶん少し休みたいはずだって、彼女、思ってるんじゃないかな」
その言葉に、裕司の胸の奥が小さくざわめいた。
確かに、あり得ると思った。
英介はお茶をコップに注ぎながら、ふと笑みをこぼす。
「若い十代の女の子なら気にしないと思うけどね。彼女の歳を考えたら、相手の都合とか考えるだろ」
その落ち着いた様子に、裕司は思わず苦笑した。
「英介、そんなに気が回るのに……三十過ぎても恋人がいないのか」
「いやいや、気が回るだけじゃダメなんだよ」
英介は肩をすくめた。
「今の女はシビアだよ。俺はフリーのカメラマン、金がないと見向きもされない」
「なんだ、それ。現実的だな」
「現実しか見えない歳になっちゃってね」
二人のあいだに、ふっと笑いがこぼれた。
「裕司さん、電話するとき、俺、そばにいようか?」
「はあっ? いや……」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「アドバイスだよ。会話、どんなこと話せばいいか困らないようにさ」
英介の言葉に、裕司は口を開きかけた。
大丈夫だ。
そう言おうとした瞬間、英介の表情に気づいた。
「彼女、相談したいことがあって電話をかけたんじゃないかと思うんだよ」
その言葉に、飲みかけのお茶が喉に引っかかった。
咳き込みながら、裕司は英介を見た。
「……どういう意味だ?」
英介は、何気ない風を装って肩をすくめる。
「三人でお茶したって言ったろ? 俺と美夕さんと、愛華さん」
裕司の表情がわずかに強張る。
「そのとき、俺ちょっとトイレに行っててさ。戻ってきたら――愛華さん、ニコニコしてたんだよ」
「……おい」
裕司の眉間に皺が寄る。
嫌な想像がどんどん膨らむ。
「で、美夕さんは?」
「困ったっていうより、戸惑ってた感じ。変なことじゃないと思うよ。ただ、愛華さんの言うことだから」
スマホを握る手が、少し汗ばんでいた。
画面の灯りが指先を照らす。
心臓の鼓動が、静かな部屋の中でやけに大きく響いた。
――呼び出し音。
一回、二回。
「先生、お仕事、ご苦労様です。あの……忙しくないんですか?」
柔らかく、けれど少し緊張を含んだ声。
その響きに、胸の奥がわずかに震えた。
「今日は珍しく、患者の数が少なくてね」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
だが、それは英介の言葉を思い出していたからだ。
気を使わせないようにと。
電話の向こうで、彼女が小さく息を吐いた。
その音が、安堵の気配として伝わってくる。
ホッとしたようなその声が、思った以上に胸に響いた。
「夕食は、すませたんですか?」
少し間を置いて、彼女がそう尋ねた。
気遣いの言葉。
だが、その優しさに、なぜか返事が遅れた。
自分の仕事を気遣う彼女。
愛華の名前、話題は出さない――
そう決めていたのに、その名はあっさりと彼女の口から出てきた。
「先生、英介さんから写真見せてもらいました? メイクであんな傷が隠れるなんて、びっくりしました。愛華さんには感謝してます」
……出た。
裕司は思わず息を止めた。
それから数週間。
午後の編集部。
ガラス越しの光が机の資料を照らし、空気はどこか張りつめていた。
エリックは原稿を閉じ、静かにコーヒーを口にした。
愛華がファイルを抱えて近づく。
「表紙モデル、決まりました」
「早かったな」
エリックは短く言って、顔を上げた。
その視線は鋭いが、どこか疲れている。
「プロのモデルじゃありません。でも、綺麗な子なんです」
愛華は少し誇らしげに言った。
「一般の人を使うのか」
「写真映えがよくて。美夜という若い女性です」
その瞬間、エリックの指が止まった。
カップの縁に触れたまま、動かない。
愛華は気づかず、資料をめくっている。
エリックは小さく息を吸った。
「……美夜、か」
その言葉はほとんど独り言のようだった。
視線が遠くへ滑っていく。
まるで、過去のどこかに置き去りにした名前を呼び戻すように。
愛華が首を傾げる。
「ご存じなんですか?」
「いや……」
エリックは短く答え、目を伏せた。
「よくある名前だ」
そう言いながらも、その声にはわずかな遅れがあった。
愛華は不思議そうに笑ったが、それ以上は追及しなかった。
夜も深まった頃、スマホの着信音が静かな部屋に響いた。
画面に表示された名前を見て、裕司は眉をひそめた。
愛華、元妻の名前に裕司は顔をしかめた。
「無視だ、ムシ」
独り言のように呟きながら、スマホを裏返す。
どうせくだらない話に決まっている。
ろくでもない用件で、気分をかき乱すに違いない。
だが数分後、再び鳴り響く通知音。
今度はアラームのようにしつこい。
半ばあきらめて通話を押した。
「おい、夜中だぞ。普通の人間は寝てる時間だ。わかってるのか?」
「医者のあなたなら、緊急対応、起きてるでしょ」
声のトーンがいつもの調子――明るく、図々しい。
「これは無駄話だ」
「まあまあ、そう言わないで。いいニュースよ」
「用件は」
「彼女がモデル引き受けてくれたの、助かったわ」
電話口の愛華の声は、隠しきれない喜びが滲んでいた。
裕司は思わず額を押さえた。
夜中に浮かれた声を聞かされるのは、正直、疲れる。
「モデルは本の表紙なんだけど、作者の男性、エリックが彼女の昔の知り合いなの」
その一言で、裕司の動きが止まった。
「昔の知り合い?」
思わず声が低くなる。
「恋人とか付き合ってたとかじゃないの。ただ、話を聞いてたら、少し同情した」
愛華の声、同情、その言葉が引っかかった。
「彼女が同じくらいの歳ならね、うまく立ち回れたと思うの。」
年下だから、彼女はいつも敬語で話していた。
それは礼儀であり、必要な距離だったのかもしれない。
けれど、それ以上に、彼女の側にあったのは「遠慮」ではなかったか。
「年の差のある友人、知り合いって、疲れない?」
愛華の声はあくまで軽やかだった。
だが、その響きには、何かを見抜いた者の静かな確信があった。
名前を与えられない関係。
けれど一番曖昧で、一番しんどい場所。
踏み込めば誤解され、引けば後悔する。
裕司は、もし自分が彼女の立場だったらと想像した。
彼女は真面目でしょ、愛華言葉を思い出した。
英介の言葉が、頭の中でゆっくりと繋がっていった。
彼女が自分に電話をかけてきた理由。
最初はただ、何気ない会話のつもりだったのかもしれない、けれど、今になって思えば違うのでは。
――モデルをしてみない?
最初にそう言ったのは愛華だ。
そのときは愛華自身も気づいていなかったのだろう。
本の作者が、美夕の昔の知り合いであることに。
偶然が、妙な形で繋がってしまった。
だが彼女は、一度きりならと決心した。
勇気を出して受けたのだ。
そして――後から、少しずつ明らかになっていく事実。
有名な作家、本の表紙、昔の知り合い。
頭のいい男、正論を口にし、常に正しいことしか言わない年上の男。
彼女がそんな相手と向き合うことを選んだ理由。
前に進む為だと理解している。
けれど、迷いもある。
愛華が「助かったわー」と明るく笑っていたのは、本心だろう。
企画も動き出して、喜ぶのは当然だが、もう一つの意味があった。
笑いながら、いつも通りに軽く言っておいて、
最後に必ず心に刺さるような一言を残す。
裕司は低く呟いた。
ようやく、ひとつの答えに辿り着いた気がした。
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