隔たりのある、恋愛にすらならなかったもの

美佐緒

第1話 初めて彼女は自分の醜さを知った

「お前の小説、面白かったから出してみた。……あー、でも、やばいな。受かっちゃったんだよ」

 その言葉を聞いたとき、エリックは一瞬、意味を理解できなかった。

 冗談だろ、と笑い返そうとしたが、友人の顔は本気だった。

 机の上には封筒が置かれている。出版社のロゴ。

 封を切る前から、ただならぬ現実の気配がした。

 「勝手に……応募したのか?」

 「いや、だってさ。面白かったし、もったいないと思って。悪気はないんだよ。」

 「……お前な。」

 ため息がこぼれた。怒りよりも先に、呆れと戸惑いがきた。

けれど、それ以上に重かったのは――もう、引き返せないという事実だった。

 連絡先は友人の名義で出していた。

 辞退を申し出ても、すでに公式発表は済んでいる。

 ニュースサイトには“新人賞受賞・作詞家エリック”の見出しが踊っていた。

 部屋の空気が急に遠く感じられた。

まるで自分の名前が、自分から離れて勝手に歩き出したようだった。

 そして、その報せはすぐに広まった。


 美夜がそれを知ったのは数日後だった。

 「賞を取ったって、本当なの」

 美夜の言葉に、エリックは肩をすくめて笑った。

 「ああ。あいつ、こっそり応募したらしい。読んで面白かったから…なんて言うけどさ、許可なしだぞ、ほんと」

 軽い口調。いつもの調子。

それなのに、美夜の胸の奥では、何かが沈んだ。

 落ち着け。落ち着け。

 自分にそう言い聞かせても、脈が嫌なほど早い。

 エリックが小説を書いていたなんて、初耳だ。

 作詞をしていたのは知っている。

でも、物語、小説まで、しかも賞を取るレベル?

 現実味がなくて、頭と心の距離がうまく合わない。

 「すごいじゃない。プロの小説家になるのね。おめでとう」

 声は澄んでいた。驚くほど自然に出た。

 その瞬間だけ、ちゃんと彼を祝えている自分がいた。

 けれど、胸の奥では別の声が、かすれた悲鳴のように響く。

 本当にすごい人だ。頭がいいだけじゃない。

 才能があるんだ。

 自分とは違う。

 同人誌の即売会に出て、好きだから書いてる。

 それで十分だと、ずっと思っていた。

 でも今、彼の才能を前にして、その言い訳は力を失った。

 力量の差を突きつけられた。

 分かっていたつもりの差。

 現実は深くて、越えられない壁みたいにそびえていると知ったのだ。

 比べるべきじゃないと、そんなこと頭ではわかってる。

 祝福しながら、自分の価値が少しずつ溶けていくのを感じている。

 どうして、こんなにも引け目を感じるんだろう。

 エリックが輝くほど、自分の影が濃くなる。

 目の前の彼は変わらないのに、自分だけが急にみすぼらしく思える。

 そして、美夜は気づいてしまう。

 自分はこんなにも醜い感情を抱く人間だったんだ、と。

 怒りでも涙でもなく、絶望に似ていた。

 心のどこかで、喜ばなければと思った。

 書くことが好きなだけの自分とは違う。

 努力でも、経験でも届かない壁の向こうにいる人間だ。

 それを認めてしまったとき、

 何かが音を立てて崩れた。

 

 会場には人が溢れていた。

 ライトの光と熱気が混ざり合い、空気がどこか息苦しい。

 エリックは笑顔を保ちながら、早く帰りたいと思っていた。


 「貴方がエリックさんですね?」

 「はじめまして。私、出版社の──」

 次々と声をかけられ、握手を求められる。

 名前も顔も、もう覚えきれなかった。

 ふと視線の先に、見覚えのある人物がいた。

 美夜の友人、由真だった。

 「おめでとう、美夜、今日は来れないの」

 「そうか」

 「これ、預かってきたの」

 白いカードを手渡される。

 エリックは礼を言いながら、それ以上何を話せばいいかわからなかった。

 由真もまた、何か言いかけてやめたように見えた。

 短い沈黙。

 その間に、彼女の笑顔がほんの少しだけこわばる。

 だがエリックは気づかなかった。

 彼女が背を向けたからだ。

 

 最近彼女の姿をみていないとエリックは気付いた。

 授賞式から一ヶ月近くたっている。

 忙しいのか。

 メールでもと思ったがその日の夕方街で由真の姿を見つけた。

 通りを歩いていたときだ。

 思わず声をかけて呼び止めた。

 振り返った彼女は、ほんの一瞬、表情を止めた。

 「美夜は?」

 由真の口が、静かに動いた。

 「事故で亡くなった」

 周囲の音が遠のいた。

 「……どうして、知らせてくれなかった」

 由真は少しだけ目を伏せた。

 「あなたは、ただの知り合いでしょ、親戚とは仲が悪くて、手続きは全部、私がやった」

 「それでも……」

 「彼女が会いたがらなかったの。最後まで、だから、知らせる理由もなかったのよ。」

 声に感情はなかった。

 由真は歩き出した。

 背中を見送りながら、エリックは思った。

 彼女も、泣き尽くしたのだ。


 喫茶店の隅。

 低く落ち着いた照明の下で、カップの触れ合う音だけが響いていた。

 エリックは一人、冷めかけたコーヒーに視線を落としていた。

 隣の席から、ふと会話が耳に入った。

 「美夜だと思ったんだ」

 その名前を聞いた瞬間、指先がわずかに震えた。

 聞き間違いではない。

 確かに“美夜”と。

 「でも、由真が亡くなったって」

 「俺もそう聞いた。でもさ、声が……」

 男の声が、急に低くなった。

 空気の密度が変わった気がした。

 「思わず、声をかけそうになって……チラッと見たけど、人違いだった。ほら、声が似てる人いるだろ」


 ──人違い?

 エリックの呼吸が浅くなる。

 隣の女性が訝しげに尋ねた。

 「……人違いなの?」

 「別人だ。似てる声の人って、いるだろ」

 言葉が、そこで途切れた。

 沈黙が落ちた。

 エリックは動けなかった。

 心臓の鼓動だけが、不釣り合いに速い。

 “似ていた”──

 その曖昧な一言が、頭の奥で何度も反響した。

 席を立ち、近寄った。


 「今の話、本当か? ……美夜を見たのか」

 声が、思わず強くなっていた。

 男が振り返る、エリックを見て、少しだけ視線を逸らした。

 「エリックか。久しぶりだな」

 「今、美夜の名前を出した。彼女を見たんだろ」

 男は小さく息をついた。

 「人違いだ。声が似てただけだよ」

 「本当に?」

 「よくあるだろ、そういうの」

 それ以上は言わなかった。

 ただ、会話の途中でほんの一瞬、目が曇った。

 その沈黙に、エリックは気づかない。

 男は内心でつぶやいていた。

 (由真の言葉……あれは嘘じゃない。理由があるんだ)


それから数日が過ぎた。

 

 「由真? あいつなら、もうここにはいない」

 友人の言葉が、あまりにも軽く聞こえた。

 「いないって、どういう意味だ」

 「引っ越したらしい。仕事の都合で海外に。もう連絡も取れないってさ」

 それだけの会話だった。

 


その頃の美夜

 

「担当が変わります」

 看護師が言ったとき、美夜は軽くため息をついた。

 また、同情を含んだ目を向けられるのだろう――そう思っていた。

 だが、現れた新しい医師は違った。

 四十代後半ほど、声に落ち着きがある。

 「痛みは?」

 「……ほとんど」

 「なら、順調ですね」

 余計な慰めも、視線の揺れもなかった。

 それが不思議と嬉しかった。


 カルテをめくると、患者欄の連絡先に“友人:由真”とあった。

 住所も別。続柄の欄は空白のまま。

 家族の署名は一つもない。

 入院に関わるすべての書類に、その由真という名が並んでいた。

 医師は小さく眉を寄せる。

 こういうケースがまったくないわけではない。

 だが、どこか引っかかる。

 誰も見舞いに来ていない。

 看護記録にも“面会者なし”が続いていた。

 あの患者は若い。

 それが、何か不自然に思えた。


 数日後。

 昼下がりの談話室。

 他に誰もいないはずのその空間から、柔らかい笑い声が聞こえた。

 「名前をね、変えようと思うの。美夕って。一文字変えるだけでも、違うでしょ」

 その声に足が止まった。

 聞き覚えがある。美夜の声だ。

 「ふーん、いいんじゃない? エリックの友人とかに偶然、会うこと考えたら、変名も悪くないし」

 「そう、顔もこのままでいいの。傷があれば、誰も、あたしだって気づかないもの」

 会話の合間に、小さな笑い声。

 それが楽しげで、どこか切なかった。

 「……いや、少なくとも、あたしはわかるよ」

 由真の声に、ほんの一瞬の沈黙。

 それから、二人の笑いがまた重なった。

 医師はその場を離れようとしたが、足が動かなかった。

 ただの世間話に聞こえるのに、胸の奥に小さな痛みが残った。


 美夜がいなくなって、一年半。

 エリックは作詞家としてだけでなく、小説家としても注目を集めるようになった。

 雑誌の連載、テレビの取材、サイン会。

 スポットライトの光に囲まれた日々の中で、

 自分が“満たされているふり”をしていることに時々気づいた。

 女性も寄ってきた。

 食事に行き、映画を見て、どこかで笑い合うこともあった。

 だが、どんなに近づいても、

 ふとした瞬間、相手の顔が“他人”に戻る。

 長く続く関係にはならなかった。

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