第九話 敗北
ハンナはライリーを小脇に抱え、風を切るように森の中を駆け抜けていた。木々の影が斜めに流れ、枝葉が頬を掠める。その速度に、ライリーは自分の足が地面についているのかどうかすら曖昧だった。
「ど、どういうことなの? なんでテオ兄さんは逃げてるの?」
息を切らしながら問うライリーの声は、混乱と恐怖が入り混じって震えている。状況の輪郭すら掴めていないのも無理はなかった。ハンナの表情が、いつもの強気さとは違う、焦りと決意の色を帯びていたからだ。
「説明するのは難しいけど……すべての元凶はあいつだったの。時を巻き戻す魔法を持った半魔族で、それを隠していたのよ」
振り返らずに告げる声は硬い。ライリーの背筋に冷たいものが走る。
「時を……巻き戻す? それって……どんなに失敗してもやり直せるってこと?」
「そう。あいつは真面目に生きちゃいなかったのよ」
森の木々のざわめきを裂くように、ハンナの靴音が続く。ライリーはついに耐え切れず叫んだ。
「でもなんで追ってるの……?」
「あなたを未来で殺すからよ。そして私も……お父様も利用されて……」
その言葉が終わると同時に、ライリーの思考が凍りついた。
この開拓時代自体が仕組まれたもの――言葉にならない嫌悪が喉の奥を塞ぐ。
「ぼくを仲間に引き入れたのも……全部……くそっ……」
「ライリー、あいつだけは野放しにできない。生かしておいたら、何をするか分からないの」
「……殺すの? テオ兄さんを」
ハンナは一瞬だけ目を伏せた。わずかな沈黙が重い答えを物語る。
「……ええ。決めたわ。再起不能になるまで徹底的に殴り倒す。あいつは簡単に反省したり、考えを改めたりするようなヤツじゃないって、未来で知った。もう他に手はないの」
ライリーは唇を噛みしめる。言葉にできない感情が胸に渦巻いていた。
「ぼくは……」
「あなたは絶対に守ってみせる。それに……助けてくれた、あの顔も知らない魔族の人も」
そう語りながら、ハンナは駆け足を止めない。木々が途切れ、視界が一気に開けた。渓谷が口を開け、底は遥か深くまで落ち込んでいた。
テオの姿はなかった。しかしハンナの手にある楔は、真下を指して震えている。
「……あいつ、どうやって降りたの?」
風の流れと地脈のざわつきから、ハンナは嫌な感覚を掴む。
「いや……何回か時が戻ってる感覚がある。あいつ、わざと飛び降りて身体だけ巻き戻して回復してるんだわ」
背筋が粟立つ。常識も倫理も投げ捨てた無茶な方法。その先に待つ場所はひとつしかない。
「そして向かってる先は……青い谷――魔石の鉱脈……まずい、早くヤツを止めないと……」
ライリーも青ざめた。
「魔石の鉱脈……もしテオが本当に半分魔族なら、取り込めば力が増幅される……」
「ええ。あんな大量の魔石がある場所に行かせるわけにはいかない。一気に行くわ、我慢して」
ハンナはライリーを抱え直し、魔力のアンカーを岩肌に撃ち込みながら、一気に断崖を駆け下りた。風と岩の匂いが混ざり合い、耳に当たる空気が鋭く痛い。
「その迷いのない動き……もしかして鉱脈の位置を掴んでいるのかしら?」
軽い声とともに、翼を広げた人影が舞い降りた。青白い羽が渓谷の空気を切り裂き、ふわりと地に降り立つ。
「リアム・エヴァンス!」
「まあ、名乗っていないのにアタシの名前を知ってるなんて。有名になったかしら?」
挑発的に笑うその姿は、どこか優雅で、どこか危うい。ライリーは本能的に身を縮めた。
「大丈夫、味方よ」
ハンナが即座に断言すると、リアムは片眉をつり上げた。
「味方? アナタたちとお友達になった記憶はないのだけれど」
「今は争っている暇がないの! テオが鉱脈に向かってて、絶対に止めないといけない」
リアムは唇の端を上げる。
「つまり……先を越されそうだから、共闘して止めろってことかしら?」
「違うの。テオは過去に戻る能力を持った半人半魔。私はあいつの能力に相乗りして過去に戻ってきて、やつの企みを阻止しようとしてる。だから協力してほしいの」
リアムは一瞬きょとんとし――次の瞬間、大声で笑い出した。
「オーホッホッホッ! 作り話としては最高に面白いわね」
「作り話じゃない。証拠に、面識のないあなたの名前を知っているし、能力だって知ってる」
その言葉に、リアムの表情から余裕が消える。
「……なんですって?」
彼はめったに能力をひけらかさない。知る者はほとんどいないはずだ。
「あなたは魔物を操る能力を持ってる。その魔物が持つ魔法でさえも。これでも信じてくれない?」
リアムはハンナの瞳を覗き込む。
嘘や虚勢が挟まる余地のない強い眼差しだった。
「……いいわ、話してみて」
「急いでるから手短にね。ついてきて」
ハンナは走りながら状況を説明し、リアムは黙って耳を傾けていた。
「なるほど……筋は通っていそうね。それに、もし本当だとしたら……」
「だから絶対に倒さないといけない。自由にさせちゃダメなやつなの」
リアムは小さくため息をつく。
「はあ……オズワルド卿の箱入り娘が、こんなに熱血娘だったとはねえ」
「私は……ライリーと、そしてみんなの未来を守りたいだけよ」
「分かった。行きましょう」
しかし、その時にはすでに遅かった。
青い谷――魔石の鉱脈。
その中心で、テオが狂気じみた笑い声を響かせていた。
「ははははは!」
ハンナが叫ぶ。
「テオーッ!!」
「遅かったな、ハンナ」
魔石の光を浴びたテオの体は、青い靄をまとい、常人離れした気配を放っていた。ライリーを遠くの陰に押しやり、ハンナとリアムは警戒しながら近づく。
「もう諦めたら?」
「諦める? バカな。俺は今、無敵になった」
リアムが小さく息を呑む。
「やはり……魔石を取り込んだのね」
「そうだとも。力が溢れてくる。」
テオの声には陶酔が混じっていた。
「もうお前の好きにはさせんぞ、ハンナ」
「魔石を取り込んだくらいで調子に乗ってるわけ?」
「“くらい”だと? お前、わかっていないようだな」
ハンナはわかっていた。魔族が高純度の魔石を取り込むことが何を意味するのか。
本当は、誰より理解していた。
――それでも止めなきゃ。
「それでも……止めてみせるッ!」
ハンナは竜の拳を握りしめ、地を蹴った――が、瞬きした次の瞬間、彼女は飛び込む直前の位置に立ち戻っていた。
「なっ……!?」
テオは愉悦に満ちた声で言う。
「お前だけの時間を巻き戻した。まあ、俺とお前は繋がってるから、お前を巻き戻すと俺も戻るが……問題ない」
リアムが吸血虫を放つ。しかし放たれた虫は、瞬時に逆再生するようにして銃へと戻っていく。リアムは気づかず繰り返し撃つが、そのたびに弾と虫は巻き戻されていく。
「そんな……!」
テオは笑った。
「無駄だ。どんな攻撃も、何度攻撃しようと……俺の前では全て無意味になる。この空間は俺の支配下にある。厄介なのはお前の能力だけだ。お前さえ倒せば、完全に俺だけの世界に戻る」
「そうは……させない!」
ハンナが放った拳は、しかしテオに軽々と受け止められた。
「な……!」
「俺自身も強くなっている。もうお前に負ける俺じゃない」
テオが腕を振り払うと、ハンナの身体が弾かれたように吹き飛んだ。受け身を取り再び立ち上がるが、その攻撃も、テオはまるで子どもの遊びを相手にするかのようにいなしていく。
「そんな……!」
「無敵なんだよ、俺は。鉱脈も賞金もどうでもいい。この力さえあれば……俺はどんなものでも手に入る!」
「そんな横暴……許してたまるかあああ!」
渾身の拳。それすらも止められる。次の瞬間、テオの掌底がハンナの腹を抉った。
「がッ……は……」
膝が崩れ、地面に倒れ込む。視界の端で、ライリーが怯えながら逃げ出すのが見えた。
「もう終わりか? 呆気ないな……いや、俺が強すぎるだけか!」
「テオ……!」
ハンナは必死でテオの足首を掴み、立ち上がろうとする。だが、無情に振り払われ、さらに後方へ叩きつけられた。
「とどめだ」
無感情の声とともに振り下ろされたテオの足が、ハンナの頭蓋を砕いた。
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