EMOTION CONTROL ACT ―その涙は違法です―

鳥のこころ

第1話 グレイの朝

 目を開ける前に、腕の内側が震えた。


 情動バンドの朝の同期だ。皮膚の下を小さな虫が走るみたいな振動が、三回。合図。私の身体が今日も“基準値内で生存可能”だと、都市に認識された証拠。


 天井は白。白というより、白に塗られた灰色。窓の外も同じ色で、空がどこから始まってどこで終わるのか、いつも曖昧だ。昔の映像で見た空はもっと青かったらしいけど、私には想像しかできない。


 バンドの表示に、今朝のE-Indexが浮かぶ。


 0.37。

 昨日と変わらない。変わらないことが良いことだ。


 ベッドの脇に置いた小さなパックを開ける。透明な液体に、ひと粒の白い錠剤が沈んでいる。情動抑制薬グレイ。朝の配給を飲むのは義務で、忘れるのは違反だ。


 GRAYを舌の下で溶かす。苦い。苦さに慣れる前に、薬が血に回るのがわかる。

効く。けれど、私には他の人ほど深くは沈まない。

数字は下がるが、底まで落ちきらない。

だから私は、薬のあとに必ず呼吸で仕上げる。


 それでも、私は毎朝一瞬だけ思う。

 この膜がなかったら、私は今、何を感じていたのだろう、と。


 考えるだけで、バンドが小さく警告した。

 私は息を止め、考えをやめる。やめたことにほっとしたのか、ほっとした自分に気づくことすら咎められるのか。境界はもうわからない。


 洗面所で顔を洗う。鏡の中の自分は、いつも眠そうで、いつも無表情だ。無表情でいることは努力だ。努力が癖になって、努力している自覚も消える。


 隣の部屋のドア越しに、薬の包装材が破れる音がした。弟が起きた合図。私はその音を聞くと、何かを確かめたいような気持ちになる。でもその気持ちに名前をつける前に、バンドの表示が一瞬揺れたので、私は引き返す。


 キッチンの簡易栄養食を口に運ぶ。味はない。味の話をしてはいけない。味は舌に生まれる感情だから。


 ニュースの無音字幕が壁の黒いパネルに流れる。


 《本日の情動指数平均:0.41》

 《違反件数:12件(うちRed判定:2件)》

 《静穏市民(Calm Class)表彰式 本日14:00》


 表彰式。上層区域で毎週のように行われるやつだ。静穏であることが、徳であり、功績であり、都市への貢献になる。


 画面に映る上層の街は、いつ見ても整いすぎている。白い樹、白い道、白い服。そこには事故が映らない。争いも、泣き顔も、叫び声も映らない。


 それが良いことだと教えられてきた。

 けれど、その映像を見ているとなぜか私は、いつも小さな引っ掛かりを覚える。


 上層の街には、墓がない。

 追悼の場がない。

 花を手向ける行列も、喪服も、別れの儀式も見たことがない。


 誰も、死なないのだろうか。

 そんなはずはないのに。


 考えが膨らむ前に、バンドがまた警告した。

 私は字幕を消し、皿を片づけた。


 仕事の時間だ。


 玄関で靴を履くと、弟の部屋が静かに開いた。レンが出てくる。背は少し伸びたけど、目がどこか落ち着かない。バンドの表示が、私よりいつも数字の揺れが大きい。


 「おはよう」


 おはよう、という言葉は礼儀であって、感情ではない。規定の挨拶。だから口にしていい。


 レンのバンドを一度だけ見る。

 0.54。

 低値の範囲に収まっている。

 その数字に意味を与えないまま、私は靴紐を結び直した。


 レンは頷いた。頷き方がゆっくりで、何かを選んでいるみたいに見えた。

 それも感情に見えるから、私は見なかったふりをする。


 「今日、帰り遅い?」


 レンが訊く。彼はときどき、こういうことを訊く。私がどの時間に帰るか、どのルートを通るか。

 理由はわからないけど、私はいつも正確に答える。


 「いつも通り。夜の同期前には戻る」


 「……うん」


 レンのバンドが一瞬、0.92まで跳ねた。

 すぐに下がる。けれど私はそれを見逃さない。


 私たちの間には、数字の会話がある。

 言葉より先に、バンドが教えてしまうことがある。

 レンの数字は、いつも少し危うい。


 それでも彼は何も言わず、私も何も言わない。

 言えば、数字が動く。動けば、誰かが来る。


 外に出ると、街は薄い霧みたいな静けさで満ちていた。無刺激の朝。歩行者の足音と、遠くの交通磁気レールの低い唸りだけが鳴っている。


 歩道の端で、小さな音がした。

 紙袋が転がり、りんごが一つだけ、ゆっくりと車道に滑っていく。


 拾おうとしたのは、レンだった。


 りんごの持ち主は、制服の膝が擦り切れた女の子で、袋を抱えたまま立ち尽くしている。

 声は出していない。出せないのだろう。

 その目だけが、何かを必死に飲み込んでいるように見えた。


 レンのバンドが、私の視界の端で跳ねた。

 0.88、0.94、0.99――。


 赤に入る。


 私は考えるより先に、レンの手首を掴んだ。

 掴んだことが“感情の行為”だと気づく前に、私は息を整える。


 「……レン。歩く」


 言葉は平らだった。

 でも指先にだけ、微かな熱が残る。


 レンは一度だけ女の子の方を見て、

 りんごを拾い上げ、歩道に戻した。

 戻して、何もなかったみたいに去ろうとする。


 女の子は黙って袋を抱き直した。

 礼も、表情もない。

 それが、この街の正解だ。


 それでもレンの指数は、もう一拍だけ揺れた。


 1.01。


 赤は点滅なら黙認される。

 点滅が“点灯”に変わった瞬間、都市は手を伸ばす。


 私は呼吸のリズムを少しだけ速くする。

 レンが私に合わせる。

 合わせた瞬間、数値が0.93に落ちた。


 遠くで、追跡ドローンの羽音が変わった気がした。

 近づくでもなく、離れるでもなく、空気だけが一度張りつめる。


 私はレンの手首を離した。

 離したことが“安堵”だと認識しないように、視線を前へ戻す。


 「ごめん」


 レンが小さく言った。

 謝る言葉は礼儀として認められている。

 なのにその声の揺れが、数字より先に胸に触れそうで、私は聞かなかったふりをした。


 交差点の角に、追跡ドローンが一機停まっていた。待機状態。翼の先端がゆっくり回転し、周囲を見ている。見ているというより、測っている。


 私のバンドが、その視線を感じたみたいに一度だけ震えた。

 私は歩幅を変えない。視線を上げない。呼吸を一定に保つ。

 ここで慌てるのは、何かを感じた証拠になる。


 ドローンのランプが淡く点滅し、私を追うでもなく、追わないでもなく、ほんの一拍だけ迷うような動きをした。


 そして何事もなかったように、元の位置へ戻る。


 ……気のせいだ。

 そう自分に言い聞かせながら、私は歩く。


 駅へ向かう道の途中、荷物受けのあるポストが並ぶ区域に入る。

 私はそこで足を止め、ポケットの中の薄いカードを取り出した。


 カードには宛先コードが印字されている。

 C-12。

 Calm-Block-7。


 これは、私が地下の仕分け場へ持ち込む便の宛先だ。

 私の手を離れたあと、別のルートで上層へ運ばれていく。

 配達とは、こういうものだ。


 番号に意味を持たせてはいけない。

 意味は感情につながるから。


 ポストの奥に視線を落とすと、一つだけ、宛先のない封筒が差し込まれていた。

 白い紙に、手書きの薄い文字。


 「0番地」


 都市には存在しない住所。

 誰も口にしない禁句みたいな場所。


 私は一瞬だけ指を伸ばしかけて、止めた。

 バンドが、ほんの少しだけ揺れた気がしたから。


 私の仕事は、届くべきものだけを運ぶことだ。

 届かないものに触れたら、私の数字が動く。


 私は封筒を見なかったことにして駅へ向かう。

 背中に、あの白い文字が貼りついてくるような感覚があった。


 でも、それに名前をつけない。

 名前をつけない限り、私は安全だ。


 駅の手前で、レンの歩みがふっと遅れた。


 私たちは、ここから先はいつも別だ。

 レンの揺れは地下の境界を越えられない。そういう規則が、この街にはある。


 私は振り返らず、改札へ向かった。


 ケースは薄くて軽い。外からはただの配送資材にしか見えない。

 検知されるのは物じゃなく、私たちの数字だ。


 改札を抜ける。


 今日も、灰色の一日が始まる。

 そして私の知らないところで、どこかの誰かの感情が、番号として運ばれていく。


 ――私はまだ、その番号の一つが、弟の人生を変えることになるなんて知らなかった。


...................

面白いと思ったら★やフォローをお願いします!執筆の励みになります。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る