第1章  序

1 私の反応を……読んでいる?


それは、昼休みのことだった。

数学の宿題の採点後、私__真城ましろ 氷慧ひさとは、ある1人の生徒のノートから視線を離せずにいた。


私が担任を受け持っている、2年B組、こずえ 透羽とうわのノート。

罫線の端に、極小の字で書かれた、声にならないつまずきがあった。


「どこから考えればいいのか分からなかった」

「式の意味が迷ってしまった」


丁寧で、慎重で、誰にも迷惑をかけまいとする字だった。


そういった類のメモは、最後にノートを回収した今日の授業だけでなく、以前から度々書かれた跡があって。

きっと彼女は、私に向けたものではなく、個人的な独白としてこのメモを残したのだろう。


それでも。

彼女を放置しておけない、見捨てたくない。

あくまで、教師の義務として……そう思った。


だが、教師と生徒として正しい距離感を保つためには、生徒ひとりを個別に呼び出すという選択肢に抵抗があった。


そこで私は、帰りのホームルームの最後、数学のノートを返却したのち、教室の生徒たちにこう呼びかけをした。


「今日からの単元は難しい箇所が続くので、しばらくの間、放課後に軽く復習する補習授業を開きます。来たい人だけ、気軽に来てください」


そう言ったのは、半分は職務、半分は逃げ道だった。

「誰が来てもいい」という形なら、不自然にはならない。


そして放課後。

部活や塾など、各々の事情が重なった結果。


静かな教室には、たったひとり、透羽だけが座っていた。


私が教室に入った途端、彼女は「あ……」と小さく息が漏れたように見えたが、俺も心の内側で、同じように息を固めていた。


……来たのは、彼女だけか。


私は黒板に向かいながら、声の調子を変えないよう努めて言う。


「よし。じゃあ、少しだけやろうか。迷ったところ、言ってみなさい」


ぽつんとした机、静かな空気。

その中で、透羽はノートをそっと開き、欄外の小さな文字を指先でなぞりながら──


「……あの、ここが、よく分からなくて」


と小さく告げた。


こうして、私と透羽2人きりでの最初の補習が始まった。


༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶



放課後の教室は、昼間の喧騒が嘘だったみたいに、しんと静まり返っている。


「……じゃあ、今の説明を踏まえて、この問題やってみようか」


静寂の中で、透羽に問題の解説をしたのち、まずは1人で例題を取り組むよう促した。


参考書と向かい合う透羽を眺めながら、ふと思考を巡らせる。


……気軽な復習のつもりで声をかけた補習に、予想以上に誰も来なかったのは、正直助かったような、困ったような心地だった。


まあ、期末も近くないし、部活や塾を優先するのが普通か。


そう、頭では分かっている。

だが、教室に入ってすぐ、ひとりだけ座っている透羽の姿が視界に入ったその瞬間。

胸の奥が、わずかにきゅっと縮んだ。


「想定していた光景」のはずなのに、どこかで避けたいと思っていた「1対1」の形が、あっさりと現実になってしまった。


沈黙の中、私は、問題を解いている最中の透羽のノートを覗き込んだ。


彼女のノートには、小さな字で

「ここから迷った」

「何度見ても分からない」

と書き込まれている。


こういう子が補習に来ないわけがない。

教師として、向き合うべきだ。

それは分かっている。


だが、この静まり返った教室で、ひとりの生徒の呼吸の息遣いまで聞こえそうな距離に立つことの意味を、どうやら私は──少しだけ、過敏に受け取ってしまっているようだった。


༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶



梢 透羽は、教室のどこにいても、いつも喧騒の外にいる生徒だ。

それは、クラスメイトから距離を置こうとしているわけではない。

ただ、生徒たちの雑音の中にひとりだけ、透明な層で周りと隔たりを作るような、そんな静けさをまとっていた。


傷つく予感を常に先回りして、自分の心を布で包むような生き方をしているようなのだ。


ある朝、日直当番だった彼女に日誌を渡すべく、読書中の彼女に声をかけたとき、一瞬こちらを見て、すぐに視線を逸らしていた。

避けているのではなく、自分が相手の視界に強く映りこむことに戸惑っているような反応だった。


触れれば指先が沈むような、繊細な沈黙の厚み。

その静けさは、やけに目に留まっていた。

教師として注意深くあるべきだという義務感よりも、もっと無意識の、説明しづらい感覚で。


そんな繊細な影と1対1で向き合っていることで、私は、思考より早く、胸の奥が淡くざわついていた。


༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶



「じゃあ……ノートを見せてもらえるか」


できるだけ均衡を保つ声を選ぶ。

表情も声色も、教師としてのものに整える。


透羽は小さく頷き、そっとノートを差し出した。


その仕草の柔らかさを受け取りながら、私は心の中でひっそりと自戒した。


……余計な感情を持ち込むな。

ただ必要な指導をするだけだ。


そう言い聞かせたのに。


先ほど問題を解いていたときの透羽の表情が、脳裏によぎる。


……そういえば、問題を解くときの彼女の視線の動きが、いつもと違っていた。

煮詰まっているというより、自分の存在をできるだけ隠そうとする人の目だ。


____もしかして、彼女は今、緊張している?


それに気づいた瞬間、胸の奥がまた、静かに揺れた。


普段、授業中の透羽はもっと自然で、分からないときには眉尻を少し下げて、素直に迷う表情をする。


だが今日は違う。

「迷っていること自体を隠そう」としている。


____なぜだ?


さらに、違和感が積み重なる。


問題を解く手が滑ったとき、透羽は、反射的に「すみません」と謝った。

謝る場面ではないのに。


式を間違えたときも、消しゴムを握りしめながら、まるで「自分の存在が教室の空気を乱してしまった」と言わんばかりの申し訳なさを漂わせていた。


……まさか、私がプレッシャーをかけているというのか?


そう思うと、胸の奥で微かに痛むものがあった。


私は彼女を追い詰めたいわけじゃない。

ただ、誤った理解のまま進んでほしくないだけだ。


けれど、透羽はまるで——


「ここにいていいのかどうか不安」


そんな雰囲気をまとっていた。


その原因が、あたかも私の存在そのものにあるような気がして、言いようのないやりきれなさが胸の中に沈んでいった。


༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶



その日の帰り道、鞄の肩紐を握りながら、私は珍しく同じ言葉を何度も反芻していた。


____どうして彼女は、あんなに怯えた目をしていた?


教え方は普段と変えていない。

声も強くしていない。

むしろ今日は、普段より柔らかく説明したつもりだった。


だが。

透羽は何度も小さく息を呑んで、答えに迷うたび、まるで失敗することを恐れるように視線を伏せた。


……私は、彼女に間違いを恐れさせていたのか?


そんなつもりはなかった。

けれど、彼女が抱えていた緊張の理由を、私はまだ正確に読み解けない。


ただ、一つだけ確信がある。


今日の透羽は——

助けがほしくて来たんじゃない。

と思ったから来た生徒の顔だった。


それに気づいた瞬間、胸がざわめいた。


彼女にはもっと肩の力を抜いて「分からないことが恥じゃない」と思ってほしい。


そのために何をすべきか。

どう接したらいいのか。


答えはまだ見えない。

だが——

彼女のあの小さく震えた指先の記憶が、帰り道の空気の冷たさよりも深く、ずっと私の胸の中に残っていた。


༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶



今日の放課後もまた、2人きりの補習が始まった。

透羽はノートを開くと、そっと呼吸を整えるような動きをしてから、問題に向かった。


その仕草を見て、胸の奥で小さなひっかかりが生まれる。


……覚悟するような顔をしている。


「間違える覚悟」じゃない。

「失望される覚悟」だ。


問題を説明している時、ふと彼女の視線が私の手元へ向けられた。

何かを確認するようにして、それから目を伏せる。


私の反応を……読んでいる?


その瞬間、前回感じた違和感がはっきりと形を持った。


____この子は「分からないこと」を怖がっているんじゃない。

「分からない自分を誰かに見られること」を怖がっている。


そう気づいた瞬間、胸の奥にひどく柔らかい痛みが広がった。


誰に……そんな思いをさせられてきた?

「間違えてもいい」と、誰も言ってこなかったのか?


透羽は今日も、答えに迷うと息を呑んだ。

だがその息を呑む理由も、ようやく分かった。


「怒られたくない」のではなく……

「嫌われたくない」


そして、それはなぜか、私に対して特に強く働きかけている。


……それなら。私が変えなければいけない。


初めてその責任を自覚した。

思えばそれは、教師として、という範囲をわずかに超えて、もっと個人的な感情だった。


༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶ ༶



補習を始めて最初の数回は、彼女の手元はずっと震えていた。

鉛筆の芯が紙をかすめるたび、細い音が不安の形を描いていた。


だが、3回目の補習のとき——

その震えが、ふっと消えた。


ほんの1問。

たったそれだけだったが、透羽は迷いながらも自分のペースで式を書き進めていった。


……今、私の顔色を伺わなかったな。


そのことに気づいて、胸の内側があたたかくなる。


4回目の補習の終盤。

透羽が初めて、答えを確認しながら小さく息をついた。


安堵というより、達成の呼吸。

それが嬉しくて、言葉にはしないまま心の中でひっそりと頷いた。


そして5回目。

説明した内容を理解した瞬間、彼女がふと私の方を見た。


一瞬だけ。

それでも。

その目に、恐れがなかったのははっきり分かった。


____視線が……逃げていない。


その小さな変化が、私の胸に深く沁みた。


彼女がだんだん強くなっていく。

「間違えても嫌われない」と学びはじめている。


それが、自分の言葉や態度の結果だと思うと——

何かを守りたい気持ちが、まだ名前のないまま、静かに膨らんでいく気配を感じた。

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