サグリス・ドランク -デメテル号の覆没-

ゆい

第1話 人形の中の薔薇


「どうしてこんなことをするの、オルガーレン」


 母親はしゃがみ、子どもの目線へ降りて言った。

 2人のあいだには、転がった五つのザクルートカ。

 本来なら顔の描かれない、ロシアの素朴な人形たち——

 だが今はその全てに、幼い筆跡で“顔”が与えられていた。


「だって、顔がないなんて変だもん。

 ぼく、ぼくだけの人形がほしかったんだ」


 涙声で訴える息子に、母は言葉を失った。

 なるべく我が子の主張には寄り添い、穏やかに頷いてきた彼女だが、これだけは違う。

 言わねばならない。


「とにかく、もうこんなことをしちゃダメ」

「なんで?」

「……かわいそうでしょう?」

 母は一体を手に取り、胴をそっと押し開く。


「……この子たちが」

 

 その言葉は、吐息のように震えていた。

 中から現れたのは、押しつぶされた野薔薇、蝶、蜘蛛、イモリ。

 色鮮やかなまま、息絶えて閉じ込められた小さな命たち。


「ダメ?どうして?」

 少年は、ただ無垢に首を傾げる。


「きれいな体に、きれいな魂を入れて、きれいな顔を書いたら……

 とびきりきれいな人形になると思ったのに」


 母は唇を噛む。

 この子には——まだ、生と死を語るには幼過ぎる。


「いつか、わかるわ。いつか……」


 母は少年を抱きしめた。

 大丈夫、この子は優しい子に育っている。

 小さな命は弄ぶより、慈しむものだと、きっとわかる日が来るはずだから。


 しかし。

 その“いつか”が来る前に、母は病で逝ってしまった。


 ◇


 母の死に対して、少年は淡白であった。

 

 ようやく、自分の思うとおりの人形を作ることができる。

 

 少年にとって、母の優しさは枷でしかなかった。


 綺麗な布を手に入れれば服を拵え、

 廃材を見つけては骨格を作り、

 中に“魂”を詰めて、顔を描いた。


 人形たちは、生きていた。

 少なくとも、少年の頭の中では。


 ——オルガーレン、だいすき。

 ——オルガーレン、あいしてる。


 囁きが聞こえるたび、彼は抱きしめ、撫でるのだ。

 

「お前、まだこんなことしてるのか!?」


 ある日、父親が人形を見つけ、オルガーレンの耳を引く。

 

 痛みに悶えながらも、少年は咄嗟に口を開いた。


「パパ、ごめんなさい」

「パパと呼ぶな!」


 父親は幼いオルガーレンを引き倒し、頬を打つ。

 腕を振り被る際にこぼれ落ちた、酒の匂いは未だ濃く、長い看病にやつれた頬は、努力が運命に負けた遣る瀬無さを思わせた。


 「お前が、お前がこんな子だから!」


 もう一度打つ。

 オルガーレンは思わず身を庇うように、体を丸めた。


「どうしてアイツが居なくなったんだ!

 どうしてアイツじゃなくて、お前が居るんだよ……!」


 父親は頬に涙を流しながら、オルガーレンを引き掴む。

「お前が……お前が居なくなれば良かったのに……」


 父親は再び手を振り上げた。

 オルガーレンは怯え、体を震わせる。

 

 抵抗の気配はなく、ただ黙って耐えようとする幼い息子の様子に、

 やがて父は思い留まり、手を下げた。

 代わりに項垂れ、嗚咽を溢す。

 

 こんな気味の悪い子どもじゃなくて。

 父親が愛しているのは、妻だった。


 ◇

 

 同じ病気でも、母親は亡くなる病なら、

 オルガーレンは育つ病だった。

 

 体の小さかった彼は歳をとり、

 背が伸びて、作る人形も併せて大きくなる。


 やがて創り出した、五歳の少女に似せた等身の人形。

 その胸に封じ込められる“魂”も、比例して形は大きくなっていく。


 野ネズミ、仔猫、リス、ひまわり。


 父親はこれ以上、気味の悪い子どもと、

 その子どもの作る人形を見たくなかった。


 父は息子を、労働の船に乗せた。

 長い航海は、人形への情熱を薄めさせ、

 体を動かせば、あの日の創作意欲も削げていく。


 「いつか、わかるわ」

 その言葉も……思い出すことは、もうなかった。


 やがて少年は青年になり、

 異常な情熱は“昔の夢”のように、霞み消え逝く。


 ——そう思われていた。

 

 

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