第6話 魂の修正
大人の「WILD HEARTS」とは
週末の夜、『MIDNIGHT JIVE』はライブのない静かな営業日だった。タケシはカウンターの中でグラスを磨き、吉岡はウイスキーを前に、泥のように沈み込んでいた。
「…ひどい話だろ」
吉岡は、週末の午後、妻の佳織に突きつけられた「あなたは私たちのATMなんでしょう?」という言葉をタケシに伝えた。
そして、自分が情熱を取り戻した喜びと引き換えに、娘との約束を破り、家庭の決定的な亀裂を生んだことを吐露した。
「俺は、自分の人生を取り戻そうとして、家族を壊している。あの頃の俺と何も変わっていない。自分の青臭い情熱を優先して、現実から逃げているだけだ」
目の前に置かれたグラスに、BARの暗い照明が反射している。その光景は、吉岡の心に刺さる罪悪感を映しているようだった。
タケシの「大人」の助言
タケシはグラスを磨く手を止め、深く息を吐いた。彼の眼差しは真剣で、いつもの自嘲的なユーモアは完全に消えていた。
「聡。聞け。俺とお前は違う」
タケシはカウンターに肘をついた。
「俺は一人だ。俺の人生は、このバーとギターで完結できる。だから、諦めずに続けることができた。だが、お前には守るべきものがある。それが、お前の現実だ」
タケシは、
企画書WILD HEARTS REVIVEを指差した。
「お前は言ったな。『俺たち世代は、仕事と家庭に疲弊し、「仕事に殺された時間」を取り戻したい』と。それは正しい。だが、もしその『WILD HEARTS 』が、家庭という現実を破壊するなら、それはただの自己満足だ。それは『復活戦』じゃない。逃亡戦だ」
タケシの言葉は、吉岡の内面の葛藤を正確に指摘し、鋭く抉った。
「聡。あの頃の俺たちが目指した『WILD HEARTS』は、『夢のためにすべてを捨てる者』だった。だが、大人の『WILD HEARTS』は違う。それは、『手放せない現実を抱えたまま、夢と戦う者』だ」
タケシは、吉岡が持つ「カセットテープ」のメタファーに触れた。
「お前は、過去の熱狂を取り戻そうとして、音質が悪すぎるからとカセットテープを止めた。今は、家族とのコミュニケーションが非効率だと、同じように止めて、スマホの向こう側にいる佳織を孤独にしている。お前がやるべきは、家族という現実を、もっと効率的で、もっと心地よい音質に変えることだ」
プロジェクトの方向転換
タケシは、吉岡の企画書をめくり、新しい提案をした。
「お前の企画力と、分析能力は、このプロジェクトで証明された。だが、それを『自分のため』にだけ使うな」
【新しい企画の方向性≒家族を「共感者」に変える】
「秘密」の排除≒吉岡は、タケシとの活動を「接待」や「出張」として隠すことで、佳織の孤独を深めた。
時間の最適化≒「自分に戻れる時間」を家族との時間と切り離すのではなく、集中力の高い短時間で企画を完結させる。吉岡がオフィスで夜中まで無機質な蛍光灯の下で作業するのではなく、家族の時間を優先する。
「家族向け」企画の挿入≒次のライブ企画は、「仕事に疲れた親父たちへの応援歌」というコンセプトをそのままに、家族が参加できるような要素を一部盛り込む。たとえば、娘も知っているような音楽をアレンジに加えたり、子供たちへのメッセージをMCに入れるなど。
「聡。お前は、家族に隠し事をしている限り、『ATM』でしかない。お前の情熱を、見せろ。そして、お前が自分の人生を真剣に生きていることを、家族に共感させろ。それが、お前がすべき大人の『WILD HEARTS』だ」
吉岡は、タケシの言葉に、目から鱗が落ちるような衝撃を受けた。彼は、タケシと徹夜で企画書を練り上げたあの頃の熱狂を、孤独な情熱として再現しようとしていたが、真の復活は、家族という現実を巻き込むことでしか成し得ないのだ。
「…分かった、タケシ。俺は、企画屋だ。家族との関係も、『W.H. REVIVE』の最も重要なサブプロジェクトとして、再構築してみせる」
再構築 (The Reconstruction)
深夜
吉岡聡は、重い足取りで自宅の扉を開けた。しかし、その顔には、以前の無気力な疲弊ではなく、決意と緊張が混じった新しい感情が浮かんでいた。彼はもう、自分の情熱を「接待」という嘘で隠す「ATM」には戻らないと誓った。
リビングは静まり返り、吉岡が一人で企画書に向かうときと同じ、重い空気が漂っている。
娘への向き合い
吉岡はまず、娘の部屋の前に立ち止まった。ノックし、静かに扉を開ける。
娘は、小さな机でまだ宿題を広げていた。
「パパ、おかえり」
娘は、週末の約束を破られた傷つきを隠すように、すぐに目を伏せた。
「ただいま。聡子は、週末の約束、本当にごめんな」吉岡は、娘のそばに座り、目線を合わせた。
この何週間、娘のLINEを既読スルーする罪悪感を抱えながらも、具体的な行動を起こせずにいた。
「パパ、あのね、また会社で大事な用事なの?」
「ああ。大事な用事だ。でも、聡子との約束より大事な用事なんて、この世にはない。パパは、その順番を間違えていた」吉岡は深く頭を下げた。「パパがこの前、既読スルーしたLINEも、すぐに返事する。明日は、朝早く起きるから、公園、行こう。パパ、ちゃんと謝るから」
娘は、驚いたように顔を上げた。吉岡の、これほど真剣で丁寧な謝罪を、久しぶりに聞いたからだ。
「うん…わかった」娘は、小さく頷いた。
佳織への「魂のプレゼン」
吉岡がリビングに戻ると、妻の佳織がソファで起きて待っていた。
彼女の膝の上には、スマホが置かれている。彼女の冷めた表情は、まだ解けていなかった。
「帰ったの。あなたの『重要な接待』は長いのね」
佳織の声には、諦めと皮肉が混じっていた。
吉岡は、ソファの対面に座り、息を吸い込んだ。
彼は、会社で何千万の契約を勝ち取るよりも、今、目の前のこの女性に自分の「企画」を理解してもらう方が、よほど難しいことを知っていた。
「佳織。あれは、接待じゃない。俺の…俺たちの、昔の夢の企画だ」
佳織は、初めてスマホから完全に目を離し、吉岡を見た。
「夢…? あなたが今更、何かしようとして、私たちとの時間を削っている。あなたが自分に戻れる時間を見つけた代償を、私たちが払うってこと?」
「そう思われても仕方がない。俺は、ずっと、この家のATMで、お前の隣で生返事をする無気力な男だった。自分の情熱を『でも現実は』という言葉で、何十年も打ち消してきた」
吉岡は続けた。
「でも、タケシと再会して、あの頃の企画書を引っ張り出したとき、初めて生き返った気がしたんだ。その情熱が、お前を、そして娘との約束を壊していると気づいて、俺は絶望した」
彼は、タケシの言葉を引用した。
「タケシが言った。『大人のWILD HEARTSは、手放せない現実を抱えたまま、夢と戦う者だ』と。俺は、もう二度と、自分の夢をお前たちに隠さない。俺が今、何に熱中しているか、お前に見せる」
吉岡は、鞄から、タケシとの新しい企画書WILD HEARTS REVIVEのコピーを取り出した。
「俺は、企画屋だ。この企画の次のステップは、家族という現実を、夢に巻き込むことだ。お前は、俺の人生のマネージャーじゃない。俺の共感者になってほしい。俺が、自分に戻れる時間を見つけたように、お前が抱える孤独も、俺が取り戻す」
佳織は、吉岡の企画書を見るでもなく、ただその真剣な眼差しを見つめていた。彼の熱意が、無機質なオフィスの蛍光灯の下ではなく、リビングの暖かい照明の下で語られていること。そして、彼の口から、自分の「孤独」という言葉が出たことに、彼女の冷めた表情に、微かな動揺が走った。
「私の孤独を…取り戻す?」
彼女の心の中で、家族なのに他人に感じてしまう憤りが、少しだけ和らいだのを感じた。
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