第4話 内情と行動

【 佳織の視点 】

スマホの向こう側

 吉岡が夜遅くまでオフィスでデータと向き合っていた、まさにその頃。


自宅のリビングでは、妻の吉岡佳織(かおり)が、ソファの端で丸くなっていた。彼女の手には、肌身離さず持つようになったスマートフォンがある。


吉岡聡は、彼女がスマホを手放さなくなったことを、自分との「言いようのない距離」の象徴として感じていた。彼が「うん」「わかった」と生返事を繰り返す無気力な自分への苛立ちを抱えているのと同じように、佳織もまた、深い疲弊と孤独を抱えていた。


  スマホが唯一の逃げ場


 佳織がスマホを見つめるのは、決して浮気や秘密があるからではない。


画面の向こうにあるのは、同じ小学生の娘を持つ母親たちが集まる匿名性の高いコミュニティや、彼女が昔から好きだった趣味のブログだった。


(子育ての孤独) 塾や習い事を始めた娘の教育費の不安、ママ友との複雑な人間関係。これらを夫の聡に話しても、帰ってくるのは「わかった」「大変だな」という、中身のない生返事だけだった。

(承認欲求の欠如) 聡は家のローンの支払いや生活費の確保という「大黒柱」の役割は完璧にこなしていたが、佳織の内面的な努力や苦労には目を向けようとしなかった。彼はいつも疲れており、目を合わせても、その眼差しは遠くを見ていた。

(この人は、私のことを見ていない。ただ、この家のマネージャーとして私を扱っている)


 聡が、自分が家庭のATM化していると感じていたように、佳織もまた、自分自身が「ただの主婦」という役割に閉じ込められ、感情を無視されているように感じていた。


彼女がスマホの画面を見つめているときの冷めた表情は、聡への怒りや不満というよりも、


 むしろ


「私の感情や言葉は、この家に必要ない」という、深く諦めきった孤独の現れだった。


 現在の家庭の風景

吉岡家は、傍目には何の問題もない、平均的なサラリーマン家庭に見えた。しかし、中身は崩壊しかかっていた。


 聡は、娘のLINEを既読スルーしてしまう罪悪感を抱えていたが、佳織もまた、何を話せば良いのか解らなくなってしまった。


家族なのに、まるで他人行儀な空気が、リビング全体に重く漂っていた。


 佳織は、娘の勉強を見ながら、もう一度スマホを手に取る。

(この画面の中の人たちは、私の話を聞いてくれる。共感してくれる。…聡に話すよりも、ずっと楽だ)


彼女にとって、スマホは、無関心な現実から逃れる唯一の「秘密基地」になっていた。そして、その孤独が、聡の「ATM化」という自己認識を、さらに強化する結果を生んでいた。


企画再燃、大人向けの「WILD HEARTS」


一週間後 


吉岡はタケシのBAR『MIDNIGHT JIVE』を再び訪れた。


「これをまとめた。お前が言った通り、今の現実を知るところから始めた」


 吉岡は、普段、取引先に見せるのと同じ、無駄のない洗練された企画書をカウンターに置いた。タイトルは、「WILD HEARTS REVIVE: 30代・40代のための音楽体験再構築」


タケシは、ウイスキーグラスを磨くのをやめ、その企画書を真剣な目で見つめた。


新しいコンセプトの提案

「結論から言うと、あの頃の青臭い、大衆を相手にした企画は通用しない」吉岡はきっぱりと言った。


「今の市場は細分化されている。俺たちが狙うべきは、かつて熱狂し、今は仕事と家庭に疲弊した、俺たち世代だ」


吉岡は、タケシの市場調査の結果を説明した。


ターゲットの心理: 30代~40代は経済力はあるが、自分の時間がない。「仕事に殺された時間」を取り戻したい、日常のストレスから逃れたいという強い願望がある。

タケシの強み: お前のバンドは、単に懐かしい曲をやるだけではダメだ。夢を諦めずに生きるタケシの「大人のWILD HEARTS」像こそが、彼らの「共感ポイント」だ。

コンセプト ライブを「ストレス発散の場」として再定義する。

「土曜日の午後」の鬱屈した日常を、音楽の力でぶち壊す「秘密基地」を提供する。

吉岡は、企画書の最終ページを指さした。そこには、新しいライブのコンセプトが書かれていた。


【企画MIDNIGHT JIVE presents - W.H. 復活戦】


テーマ 「あの頃の自分を取り戻す」

演出  ライブハウスではなく、バーという大人の秘密基地で、タケシが過去の不遇を笑い飛ばすMCと、魂を揺さぶる演奏を少人数限定で披露する。


吉岡の役割  企画、集客、マーケティング(吉岡が持つ、会社でのスキルを全て注ぎ込む)。


 二人の共同作業

タケシは、企画書を閉じ、しばらく黙って吉岡を見ていた。彼の顔には、自嘲でも皮肉でもない、純粋な驚きと興奮が浮かんでいた。


「…聡。お前、本当に仕事してるみたいじゃねえか。しかも、楽しそうに」


「ああ、楽しい。自分の人生のために、初めて企画書を作った」


タケシは、カウンターの下からギターケースを取り出した。指先の厚い皮をギターの弦に滑らせる。


「分かった。やるぞ。俺は、お前の企画に乗る。お前が市場を動かせ。俺は、魂を揺さぶる」


タケシは、新しい企画書をカウンターの隅に置き、古い企画書を吉岡に返した。


「これは、お前の青臭い魂だ。それを忘れるなよ」


こうして、吉岡聡とタケシによる、大人の「WILD HEARTS PROJECT」は、静かに、しかし熱い決意と共に始動した。吉岡は、このプロジェクトを通じて、仕事のルーティン、家庭の疲弊、そして自分自身の無気力な現状すべてに、反逆しようとしていた。




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