ATMの熱狂

比絽斗

第1話  Saturday Afternoon

  土曜日の午後


 吉岡聡は、社用車のくたびれた助手席に、コンビニで買ったマチカフェのブレンドコーヒーを置いた。


一口飲む。淹れたて特有の酸味と苦味が、


徹夜明けの胃をわずかに刺激した。いつものルーティンだ。


今日は土曜日だが、彼の辞書に「週末」という単語はなかった。取引先への「急ぎの」資料を届けるため、首都高速道路を走っている。


「土曜日の午後」の高速道路は、都会の巨大な静脈だ。


 高層ビル群の間に沈みかけている夕日が、車の渋滞で延々と続くテールランプを赤く照らし出している。その光景は、一見、絵になる美しさがあったが、吉岡にはただの孤独と停滞にしか感じられなかった。


(あの頃、佐野元春の歌詞は、もっと格好いい情景を描いていたはずだ。夢や自由を歌っていた。だが、今の俺にとって、この光景はただの…現実だ)


ハンドルを握る彼の右手は、タバコをやめてから代わりに始めた、爪の甘皮を弄る癖が出ていた。


無機質なオフィスの風景

取引先での決まりきった世間話


「景気が悪い」


「先行きが不安」に息を詰まらせた後、吉岡は会社へと戻った。


資料を提出した証拠として、自分のデスクに戻り、メールを送るためだ。


 時刻はもう夜の8時を回っていた。無機質なオフィスには誰もいない。


夜中の蛍光灯が「ブーン」という低い唸りを上げている。


 隣の席の同僚・田中のデスクに目をやる。彼が熱心に集めているアイドルのフィギュアの横に、娘の成長を写した家族写真が並んでいるのが見えた。


 吉岡は自分のデスクに座り、パソコンを起動する。メール作成はすぐに終わった。


 だが、席を立つ気がしない。家に帰っても、待っているのは妻・佳織とのすれ違いだ。


最近、佳織との会話で


「うん」


「わかった」と生返事をしてしまうことが増えた。


 その度に、言いようのない距離を感じて後悔する。佳織はスマホを手放さなくなり、その画面を見ているときの冷めた表情を見るのが、吉岡は辛かった。


(何を話せば良いのか、もう解らない。俺は、この家のATMにでもなったつもりなのか?)


 小学生の娘のLINEを、今日も既読スルーしてしまった罪悪感が、胃のあたりにへばりついていた。


  古いファイルとの再会

ため息とともに…


 吉岡はデスクトップを整理しようと、古いフォルダを開いた。普段は開くことのない、大昔のデータが詰まったフォルダだ。


スクロールする指が止まる。


そこに、あった。


 日付は1998年


 古いフォントと余白で作成された、どこか青臭いタイトルのファイル。


WILD_HEARTS_PROJ_98.doc


ファイル名を見た瞬間、心臓がドクリと鳴った。


 それは、タケシと徹夜で語り合い、熱狂の汗を流しながら作り上げた、伝説のライブハウス企画書だった。


  あの頃……


 自分たちは、本当にこの企画で世界を変えられると信じていた。その信念の熱量が、PCの画面を通して今、吉岡の冷え切った手に伝わってくるようだった。


過去の熱狂と現在の諦め


吉岡は、開いたばかりのWILD_HEARTS_PROJ_98.docを凝視した。


 画面に並ぶ文字の一つ一つが、


二十数年前の熱狂を、鮮烈な音として脳内で再生させる。


 当時


彼らはこの企画書を手に、レコード会社やスポンサーの扉を叩いた。


結果は門前払いと、世間知らずな若者への嘲笑だけだったが、あの頃の吉岡には、一瞬目が輝く瞬間が確かにあった。


「土曜日の午後、仕事で車を走らせていた…」


 あの頃は、佐野元春のこの歌詞は、ただの格好いい情景だった。自由と、これから掴む夢の予感に満ちていた。 でも今は違う。この無機質なオフィスで企画書を見つめる自分自身こそが、手の届かない場所にいる。


 吉岡はため息をつき、無意識に諦めの言葉で、あの頃の情熱を打ち消そうとする癖が出た。


(でも、現実は…)


現実


 それは、毎朝コンビニのマチカフェ、後部座席に置きっぱなしの安全靴、そして妻の冷めた横顔だ。情熱と現実のバランスに悩み、結局、吉岡は現実を選び、情熱を窒息させた。


 今の自分には、あの頃の「WILD HEARTS」は、ただの青臭い幻想に過ぎない。ストレスでヤル気が起こらず、たまに、することもない休日はただ寝て過ごす。自分を取り戻す時間など、どこにもない。


 吉岡はファイルを閉じようとした。 


 そのとき、企画書の最終ページに、手書きで書き込まれたタケシの走り書きが目に入った。


「負け犬で終わるなよ、聡。」


  MIDNIGHT JIVE

その走り書きが、吉岡の心に刺さった。


タケシ 本名、竹下。今は下北沢の裏路地でバー『MIDNIGHT JIVE』を経営しつつ、細々と音楽活動を続けている、吉岡の唯一の親友だ。


 人生の敗北者に見えるかもしれないが、彼はあの頃の夢を、形を変えて、しかし諦めずに継続している。


 タケシの手の指先の皮の厚さ。


それは、ギターを弾き続けた証拠だ。いつも着ている色落ちしたTシャツと皮ジャン。生活の苦しさは滲み出ているが、その眼差しには、吉岡が失った情熱の炎がまだ小さく残っている。


 吉岡は、会社のPCからではなく、私用のスマホを取り出した。電話帳の古いアドレスを探す。


『MIDNIGHT JIVE』。バーの電話番号を見つけ、一瞬躊躇した。再会時、互いの職業や生活に深入りしないよう、慎重な言葉遣いになってしまうだろう。最初はおそらく、天気や健康の話など、当たり障りのない話から入るしかない。


だが、あのファイルを見た今、吉岡は誰かと話さずにはいられなかった。


コール音が鳴る。ワンコール、ツーコール……。深夜のバーだ、出ないかもしれない。


スリーコール目。ノイズ混じりの音と共に、低く掠れた、変わらないタケシの声が受話器の向こうから響いた。


「…もしもし? MIDNIGHT JIVEだけど。こんな時間に、誰だよ」


吉岡は深く息を吸い込んだ。


「…タケシ? 久しぶりだ。俺だよ、吉岡、聡だ」



▶▶▶▶▶▶▶▶


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