第5話 悪魔を食べる

 メスティンの中で渾然一体となった米たちは、もはや白飯という清廉な存在ではなかった。

 麺つゆの琥珀色をまとい、天かすの油分で艶めかしく光るその姿は、まさしくカオス。

 全体をムラなく混ぜ合わせると、焚き火の煙とは違う、脳髄を直接刺激するような香ばしい出汁の匂いが、濃厚な霧のように立ち上った。

 直人はラップの上で、熱々のそれを三角形に握り固める。

 出来上がった物体は、お世辞にも美しいとは言えなかった。

 白米の純潔さは完全に失われ、麺つゆを入れすぎたか、全体が茶色く脂ぎっている。所々に天かすがふやけて張り付き、青のりが不規則に散らばる様は、まるで泥遊びで作った団子のようだ。SNSで流行る「映え」とは対極にある、無骨で原始的な塊。

 だが、手のひらに伝わる重量感と、火傷しそうなほどの熱量は、それが凝縮されたエネルギーの塊であることを訴えていた。

「……いただきます」

 誰に言うでもなく呟き、直人はその茶色い頂点に大きくかぶりついた。

 熱い。

 そして、脂っこい。

 口いっぱいに頬張り、ハフハフと白い息を吐きながら、奥歯でしっかりと咀嚼する。

 ――ザクッ。

 ふやけた部分と、まだサクサク感が残っている部分の天かすが、心地よい音を立てて崩れた。

 その瞬間、閉じ込められていた油のコクと、麺つゆの甘じょっぱい旨味が、じゅわりと溢れ出して舌の上を蹂躙じゅうりんしていく。

「……っ! うまっ!」

 思わず声が漏れた。

 噛み締めた瞬間、口の中に暴力的なまでの旨味が爆発した。

 サクサクとした食感を残した天かすから、ジュワリと染み出す油の甘み。それを、麺つゆの塩気と出汁の風味を吸い込んだ米粒が、しっかりと受け止める。

 具は何もない。

 だが、いや、だからこそ、余計な雑味のない純粋な炭水化物と脂質のコンボが、ダイレクトに味覚中枢を殴りつけてくる。

 時折、鼻に抜ける青のりの磯の香りが、こってりとした味わいに爽やかなアクセントを加え、次の一口を誘う無限のループを作り出していた。

「これが、悪魔か……」

 かつて南極の隊員がそう呼んだのも頷ける。理性を麻痺させ、ただひたすらに食欲を暴走させる、背徳の味。

 直人は夢中で二口、三口と頬張った。

 空っぽだった胃袋に、熱い塊が落ちていく。その熱は、冷え切った体の芯まで広がり、不安や孤独といった心の隙間さえも、脂っこい多幸感で埋め尽くしていくようだった。

 直人は半分ほど食べたところで、ハッと我に返り、スマホを取り出した。

 この感動を、教えてくれた、あの人に伝えなければ。

 ランタンの明かりの下、湯気を上げるおにぎりの写真を一枚撮る。


『悪魔召喚成功。教えてくれてありがとう、マジで悪魔的なうまさ』


 感謝の言葉と共に画像を送信する。

 すると、即座に既読がつき、kouから短いリプライが返ってきた。


『そうだろ。良い夜を(^^)!』


 文字だけの短いやり取り。顔も名前も知らない相手。

 けれど、その一言には、同じ夜をどこかで過ごしている誰かの、確かな体温が宿っているように感じられた。

 ふと、隣のサイトから楽しげな音が聞こえてきた。

「はふっ、熱っ! でも美味しい~!」

 里奈が叫ぶ。

「やっぱり麺類しか勝たんね」

 遥は同意していた。

 直人の譲ったうどんに、シチューをかけて夢中ですすっている音だ。絶望的な悲鳴はもう聞こえない。そこにあるのは、温かい食事を囲む穏やかな空気だけだ。

 左手には、スマホの画面の淡い光。

 耳には、隣人たちの幸せそうな声。

 そして口の中には、悪魔的な旨味。

 直人は、悪魔のおにぎりを手にしたまま、夜空を見上げた。

 孤独を求めて山へ来た。誰とも関わらず、自分だけの世界に閉じこもるつもりだった。

 だが今、この夜は、目に見えない『縁』のようなもので緩やかに繋がっている。

 それは決して不快なノイズではなく、むしろ焚き火のようにじんわりと心を温める、不思議な心地よさだった。

 悪魔に魂(胃袋)を売った代償に手に入れたのは、満腹感と、自分は一人ではないという静かな安堵だった。


(続く)

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