第3話 うどんの譲渡とSNSへのSOS
3秒ルールの学術的敗北によって、隣のサイトは完全なる静寂と絶望に包まれた。
肩を落とす二人の背中は、まるで遭難者のように頼りなく、夜の闇に溶けてしまいそうだった。
直人は、ふう、と深く息を吐き出した。
本来なら、関わるべきではない。自分は『視えすぎる』日常から逃れ、静寂という結界を張るためにここへ来たのだ。余計な他者との接触は、心の平穏を乱すノイズでしかない。
だが――直人は眉間を揉んだ。
幼い頃から、人には見えないモノを見てきた。恐怖に震え、助けを求める霊たちの姿も、何度も目にしてきた。
住職のもとで修行し、護身の密教呪術を身につけてからは、そうしたモノたちを『送る』ことも覚えた。
その経験が、彼の芯に『困っている存在を見過ごせない』という、ある種の
たとえ相手が生きた人間であっても、目の前で絶望している姿を見れば、無視するのは寝覚めが悪すぎる。
それに、空腹という名の悪霊に憑かれた人間を放置しては、直人の聖域も安泰ではないだろう。
「……お人好しだな、僕も」
直人は苦笑すると立ち上がり、クーラーボックスから今夜の主役になるはずだったと『冷凍うどん』のパック2個を掴み取った。
ずしりとした重みが、直人の未練を誘う。
だが、彼は迷いを断ち切るように足を踏み出した。
「あの……」
暗闇から突然声をかけられ、里奈と遥がびくりと肩を震わせて振り返る。
直人は、手にした食材を少し前に突き出した。
「聞こえちゃったんで。よかったらこれ、使ってください。余りものの、冷凍うどんですが」
それは明らかなウソだった。余っていた訳ではない。これから食べる一番楽しみにしていた食材だ。
しかし、シチュースパゲッティという濃厚な夢を失った彼女たちの胃袋を癒やすには、パンではなく、温かい麺が必要なはずだ。
「えっ……?」
里奈が目を丸くし、遥が瞬きをする。
直人は淡々と付け加えた。
「僕、二泊する予定なんで、缶詰やパンとか、まだ余裕あるんです。だから、一食くらいメニュー変わっても平気なんで」
それは半分本当で、半分強がりだった。確かに食料の備蓄はあるが、今夜の『天ぷらうどん定食』の完璧な調和は、これにて崩壊する。
だが、直人の言葉を聞いた瞬間、死んだ魚のようだった里奈の目に、劇的な生気が戻った。
「う、うどん……? しかも2個も……?」
と里奈。
「温かい炭水化物……!」
と遥。
二人は顔を見合わせ、次の瞬間、直人に向かって拝むような勢いで身を乗り出した。
「神様! 仏様よ!」
里奈は直人を拝む。
「ありがとう君! 本当にいいの!? うどん、すごく嬉しい……!」
遥は胸の前で手と手を組んで、訊き返す。
涙目で感謝を述べる二人。
その瞳は、キャンプ場のランタンよりも輝いて見えた。
直人は「大したもんじゃないんで」と短く返し、食材を彼女たちに手渡すと、逃げるように自分のテントへと戻った。背後から聞こえる歓喜の声は、除霊を終えた後の感謝の言葉にも似ていて、少しだけ胸が温かくなった。
自分のアウトドアチェアに座り直し、直人は深呼吸をした。
善行を積んだ。
徳を積むのは修行の一環だ。心は洗われたように清々しい。
……ハズだった。
直人は視線を足元のメスティンへと落とした。
蓋を開ける。
そこには、完璧な火加減で炊き上げられた、銀色に輝く白米があった。一粒一粒が立ち上がり、甘い香りを放つ最高傑作だ。
だが、その隣にあるべき『相棒』はもういない。
手元に残されたのは、うどんの薬味として持ってきた『天かす』と『青のり』、『特大えび天』、そしてボトルの『麺つゆ』のみ。
「……白飯と、特大えび天1個か」
寂しい。あまりにも寂しい光景だった。
明日のための肉を焼くという手もあるが、冷凍カチカチのブロック肉は今すぐには解凍できない。缶詰を開けるのも負けた気がする。
直人が求めていたのは、大盛りの天ぷらうどんだった。
だが皮肉なことに、今、目の前にあるのは、具のない真っ白なご飯だけ。
物理的にも精神的にも、空虚な白さが彼を包囲していた。
「……詰んだか?」
いや、まだだ。
直人は上着のポケットからスマートフォンを取り出した。
自然の中でデジタルデトックスをするつもりだったが、今は緊急事態だ。
住職は言っていた。「使えるものは、呪術でも文明の利器でも何でも使え」と。
暗い森の中で、液晶画面の青白い光が直人の顔を照らし出す。
彼は藁にもすがる思いで、SNSのアプリを立ち上げた。ふだんは見る専門のアカウントで、フォロワーも少ないが、今はなりふり構っていられない。
冷えた指先でフリック入力を走らせる。
『ソロキャン中。食材ロスト。手持ちは白飯、天かす、青のり、麺つゆ。何か作れる? 助けて #キャンプ飯 #緊急事態』
送信ボタンを押す。
電波は少し微弱だが、確かに繋がっている。
直人は祈るように画面を見つめた。目に見えない霊との交信ではなく、見知らぬ誰かとのデジタルな交信に、今夜の運命を託して。
(続く)
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