見えない明日に、悪魔を食べます
kou
第1話 白紙の明日と、完璧な夜
パチリ、と乾燥した薪が爆ぜる音が、夜の森の静寂を引き裂いた。
焚き火台から舞い上がった火の粉は、一瞬だけオレンジ色の軌跡を描き、深い闇の中へと吸い込まれて消える。それはまるで、
標高800m程。
山の中腹に位置する、このキャンプ場は、下界よりも季節が進むのが早く感じる。夜ともなれば気温はかなり低くなる。
だが、感じ方によっては冷たい空気が心地よくもあった。
平日の夜ということもあり、広大なフリーサイトには直人を含めて数組のテントが点在しているだけだ。
遠く離れた場所には、年季の入ったランタンを灯す初老のソロキャンパーの姿や、小さな焚き火を囲んで静かに語らう恋人達の影が見える。皆、互いの領域を侵さないよう、適度な距離を保ちながら、それぞれの夜を楽しんでいるようだった。
過度な照明もなく、人工的な音も聞こえない。ここにあるのは、木々のざわめきと、時折聞こえる他のサイトの薪割りの音だけ。
この
身長は高い方ではないが、背筋はまっすぐに伸び、自然と優雅な立ち姿を演出している。
髪は黒く、風になびく度に光を反射し、まるで星空を彷彿とさせる。肌は健康的で、日光を浴びたように明るい輝きを放っている。
彼の一番の特徴は、その眼差しだろう。
眼は魂の鏡といわれるように、少年の眼はどこか遠くを見つめているかのようでありながら、同時に未来を見つめようとする意志の強さを感じさせた。
容貌は端正で、瞳は深く澄んでおり、顔には優しさと純真さが宿っている。年齢とともに失われる幼い頃の純粋な心が残っているようだった。
名前を
夜の冷え込みに備え、タフな作りのダブルニーパンツに、薄手のマウンテンパーカーを羽織っている。炎に照らされたその黒髪は、揺らめく度に微かな光沢を放ち、夜空の星々を映し込んだように神秘的だ。
直人の眼差しは、燃え盛る炎の芯を見つめているようでいて、同時にどこか遠い場所――あるいは未来そのものを見据えているような、年齢離れした意志の強さを宿していた。
高校生の彼は、使い込まれた登山用のバックパック一つを背負ってここへ逃げ込んだ理由は、単純かつ切実だ。
休みが明ければ、進路希望調査票の提出期限だからである。
「……明日なんて来なければいいのに」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、夜気に溶けた。
思い出すのは、学校の机の上に広げられた真っ白な進路調査票。
そこには『第一志望』から『第三志望』まで、空虚な四角い枠が並んでいる。直人にとってその白さは、可能性の広がりなどではなく、自分の中身の無さを突きつける壁のように思えた。
だから、彼はここに来た。
直人にとって、趣味であるソロキャンプは、単なる余暇の楽しみではなかった。
家族や友人と賑やかに騒ぐバーベキューとは違う。彼にとってのキャンプとは、自然と対話し、自分自身の内面と向き合うための『
誰にも邪魔されず、己のテリトリーを展開し、静寂に身を浸す。
それは、日常の喧騒や穢れのようなノイズから解き放たれる、彼だけの聖域。
街の喧騒も、親や教師の期待も届かないこの山奥で、頭の中に堆積した灰色のノイズを、焚き火の炎で焼き尽くす。
すべてを灰にして、真っ白にする。
そうして空っぽになった頭でなら、あの白い紙にふさわしい答えが見つかる気がしたのだ。
思考の漂白。
それは直人にとって、一種の神聖な儀式だった。
儀式には、ふさわしい供物が必要だ。
直人は焚き火台に設置した五徳へと視線を移した。そこには長方形のアルミ製クッカー・メスティンが鎮座している。何度も火にかけられ、
蓋の隙間から、シュウシュウと勢いよく蒸気が噴き出し、微かに焦げたような香ばしさと、米の甘い香りが漂い始めていた。
「よし、そろそろ蒸らしだな」
厚手の革手袋をはめ、慣れた手つきでメスティンを火から下ろす。タオルで包んで保温し、米がふっくらと花開くのを待つ間、直人は今夜のメインディッシュの準備に取り掛かった。
クーラーボックスから
衣で誤魔化した安物ではない。箸で持ち上げればずしりと重い、本物の海老だ。
そして、コシの強さに定評のある冷凍うどん。
さらに、別添えの濃縮つゆと、薬味の青のり、天かす。
今夜の献立は『特大えび天うどん』と、炊きたての『銀シャリ』による定食セットである。
うどんをおかずに、米を食う。
いや、米をおかずに、うどんを食べるか?
いずれにしろ、炭水化物に炭水化物を重ねる、背徳のコンビネーション。
世の中には、炭水化物で炭水化物を食べる文化がある。
うどん×いなり寿司。
ラーメン×チャーハン。
サンドイッチ×おにぎり。
パスタ×ピザ。
学校でやれば女子からの冷ややかな視線を浴びそうだが、ここは野外であり気兼ねする人は居ない。それに、炭水化物を組み合わせると、お腹が空いている時に幸福感を得たり、スタミナをつけたりする効果がある。ここまで荷物を背負って消費したカロリーと、山の冷気に晒された体を温めるためには、これくらいの罪深さが必要なのだ。
「完璧だ……」
直人は手際よく小鍋に湯を沸かしながら、一人悦に入った。
今回は二泊三日の連泊プラン。
明日の食料として缶詰や肉も十分に確保してあるし、時間にも心にも余裕がある。誰にも邪魔されず、誰に気を使うこともなく、最高の食事と静寂を味わう。
蒸らし時間を終えたメスティンの蓋を開ければ、そこには艶やかに光る真っ白なご飯が待っている。
その白さは、進路調査票の冷たい白さとは違う、温かく、食欲をそそる幸福な白だ。
森は深く、風の音以外には何も聞こえない。
直人は目を閉じ、五感を研ぎ澄ます。川のせせらぎ、葉擦れの音、そして遠くの動物の気配。
このまま朝まで、穏やかな静寂が続くはずだった。
――ギャアアアッ!!
突然、隣のサイトから悲劇的な悲鳴が響き渡り、直人の作り上げた結界のような静寂を粉々に打ち砕いた。
(続く)
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