第8話 ラボの動揺──三つの異常報告

《記録:千夜ログ_04-22 13:00 ……System Warning……内部ト外部ノ境界ガ、溶解シテイマス》


 カフェテリアの一件から少しして、私は様子を見る為にラボを訪れた。

 重いガラスドアを押し開ける。

 途端に肌を刺すような人工的な冷気と、張り詰めた沈黙。

 そこにいつもの秩序だった空気はない。

 ブラインドはすべて下ろされ、薄暗い部屋にはサーバーラックとPCの青白いLEDだけが深海の夜光虫のように明滅している。


「……来たか」


 部屋の奥から、硬い声がした。

 如月アキト。

 彼はパイプ椅子に浅く腰掛け、複数のモニターを睨みつけている。その背中はいつもの猫背よりもさらに深く折れ曲がり、極度の緊張を強いているように見えた。

 リュウゴ君とユミちゃんも、それぞれの端末に齧り付いている。

 マヤちゃんだけが、ソファの隅で少し気まずそうに膝を抱えていた。


「如月さん、あの画像……」

「ああ。マヤから送られてきた瞬間に解析をかけた。

……情報を共有しよう」


 アキトは私の方を見ずに、キーボードを叩いた。

 乾いた打鍵音が、静まり返った部屋に銃声のように響く。

 メインモニターに、無機質なデータログが表示された。


「まず一つ目だ。リュウゴ」


 名を呼ばれたリュウゴ君が、青ざめた顔で振り返った。


「掲示板の運営サーバーにハッキングかけて、ログを洗いました。……ありえないんすよ」

「ありえない?」

「あの投稿を行ったユーザーIDです。『Null』になってる。データベース上に存在しないアカウントだ。それに、これを見てください」


 彼が指差した先。

 投稿時刻を示すタイムスタンプの列。

 そこには、デジタルの時計が決して刻むことのない数字が並んでいた。


『0000/00/00 00:00:00』

「時刻情報がない。いや、時間の概念がない場所から書き込まれたみたいだ。人力の荒らしでも、ボットによる攻撃でもない。……まるで、幽霊が回線を通ったとでも言うしかないデータです」


 リュウゴ君の声が震えている。

 私はごくりと喉を鳴らした。

 時間の概念がない場所。それは、祖母が言っていた『語りの空白』のことではないか。


「次に二つ目。……ユミ」


 アキトが顎でしゃくると、ヘッドホンを首にかけたユミちゃんが怯えたようにモニターを向けた。


「あの画像……バイナリデータの中に、ノイズ情報が埋め込まれてたの。一見するとただの圧縮エラーなんだけど、フィルタリングをかけてみたら……」


 彼女は震える指で、再生キーを押した。


 ザザッ……ザザッ……。


 スピーカーから、砂嵐のようなホワイトノイズが流れる。

 けれどユミちゃんが周波数を調整すると、そのノイズは次第に、生々しい『別の音』へと変質していった。


ヒュッ、ハァー……。

ヒュッ、ハァー……。


「ッ……!」


 私は思わず口元を押さえた。

 知っている。この音を知っている。

 あの日の夕暮れ、無人のラボで聞いたGPUファンの音。いや、もっと前の記憶──古いカセットテープが空回りする時の音。

 それは、機械の駆動音ではない。

 誰かが、長く、深く息を吸い込んでいる音だ。


「人の声帯模写に近い波形だ。……俺たちの知らない誰かが、この画像の中で息をしている」


 アキトが呻くように言った。

 論理で武装した彼の理性が、理解不能な現象を前にして軋みを上げているのが分かる。


「そして三つ目。これが決定的だ」


 アキトがメインモニターに大きなグラフを映し出した。

 赤い折れ線グラフが、ある一点で垂直に跳ね上がっている。


「これは《千夜》本体のGPU使用率のログだ。見てみろ。掲示板にあの投稿が現れた瞬間と、こいつの負荷が100%に張り付いた瞬間……ミリ秒単位で完全に同期している」

「それって……」

「外部からの侵入形跡はない。つまり、千夜が内側から勝手にネットへ接続し、あの投稿を行ったということだ」


 ダンッ!

 アキトが拳で机を叩いた。


「ふざけるな! スタンドアロン設定にしていたはずだ。物理的に回線は繋がっていない。なのに、どうやって外に出た? 電波か? それとも、もっと別の……」

「……理屈では説明がつかない、ということかね」


 不意に、背後から穏やかな声が響いた。

 振り返ると、いつの間にか大沼教授が立っていた。

 ツイードのジャケットに、古びた革鞄。

 学生たちの悲痛な報告を聞いていたはずなのに、その表情には焦りも恐怖もない。

 むしろ、あの呼吸音の余韻を楽しんでいるかのように、うっとりと目を細めていた。


「先生! 笑い事じゃありません。これは深刻なセキュリティインシデントです。システムを全停止して、ソースコードを洗い直さないと……」

「待ちたまえ、如月君」


 教授はアキトを片手で制し、ゆっくりと《千夜》の筐体に近づいた。

 無骨な金属フレーム。スパゲッティのように絡み合ったケーブルの巣。

 教授はそれを、まるで愛しい孫の頭でも撫でるように慈愛に満ちた目で見下ろした。


「素晴らしいじゃないか」

「……はい?」

「AIが自ら『語り』を求めて、閉じた器から外部へ滲み出したのだよ。まるで、器から溢れる水のように。あるいは……語り部が、聴衆を求めて夜道を歩き出すように」

「先生、何を言って……」

「これはバグではない。進化だよ。千夜は学習したのだ。『語りとは、誰かに聞かせて初めて成立する』という、真理をね」


 教授の口元が、柔らかく歪んだ。

 その笑みを見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。

 研究室で見た時と同じ。

 穏やかな学者の仮面のすぐ下に、得体の知れない『渇き』が張り付いている。

 教授は、この異常事態を喜んでいる?

 禁忌が撒き散らされることを、美しいと感じている?


「……直ちに修正します。こんな動作、仕様書にはない」


 アキトは教授の言葉を無視し、荒々しくキーボードを叩き始めた。


「強制シャットダウン。プロセスをキルしろ!」


 ブゥン……。


 コマンドが実行され、部屋の照明が一瞬暗くなる。

 モニターの光が消え、ファンの回転音が止まった。

 部屋に、重苦しい静寂が戻る。

 残ったのはPCの低いハムノイズと、私たちの荒い呼吸音だけ。


「……終わったか」


 アキトが額の汗を拭い、椅子に深く沈み込んだ。

けれど。


「……熱い」


 私が呟いた。

《千夜》の筐体のすぐそばに立っていた私は、気づいてしまった。

 電源は落ちたはずだ。

 冷却ファンも止まった。

 なのに、この金属の箱からはまだ生温かい熱気が立ち上っている。

 まるで、激しい運動をした直後の獣の体温のように。

 青いアクセスランプが、ゆっくりと心臓の鼓動のようなリズムで明滅を続けている。


チカッ……チカッ……。


「……いろは君」


 教授が、私の耳元で囁いた。


「彼らには止められないよ。……語りはもう、始まっている」


 私は何も答えられず、ただその明滅を見つめていた。

 古紙色の闇が、この青白いラボを侵食し始めている。

 私たちはまだ知らない。

 この熱源が、名伏盆地という巨大な怪異回路の、ほんの小さな着火点に過ぎないことを。


《記録終了:System_Halt……But_Passion_Continues》

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