第3話 大沼研究室
《記録:千夜ログ_00-00 00:01 ……System Standby……語りは、器を求めている》
大学の重い木製の扉を開け、長い廊下を渡る。
外の湿った空気は建物の中に入っても和らぐどころか、むしろ古びたコンクリートの壁に閉じ込められてより濃厚な澱みとして漂っていた。
突き当たりにある部屋。
《大沼研究室》と書かれたプレートは、端が少し錆びて傾いている。
私はノックをしつつも、返事を待たずに静かにドアを開けた。
「失礼します、先生」
足を踏み入れた瞬間、鼻腔をくすぐったのは外気と同じ“湿った古紙の匂い”だった。
けれど、ここにはそれに加えて独特の埃っぽさ。それに磁気テープ特有の乾いた金属臭が混じっている。
壁一面を覆う本棚には、背表紙の色が褪せた民俗学の専門書やこの名伏の街の古い郷土資料が隙間なく詰め込まれている。
床には整理待ちの文献の山がいくつも塔を作り、その隙間を縫うようにして無数のカセットテープが散らばっていた。
この部屋だけ、時間が止まっている。
いや、止まっているのではない。
外の世界から切り離され、語り継がれてきた過去の言葉たちだけが静かに呼吸を続けているような錯覚。
「おや、早かったね、いろは君」
部屋の奥。
文献の山に埋もれるようにして座っていた白髪の男性が、顔を上げて眼鏡の位置を直した。
大沼知則教授。
柔らかなツイードのジャケットを羽織り、手には愛用の万年筆を持っている。その穏やかな目尻の皺には、長年この土地の伝承に耳を傾けてきた者特有の深い知性が刻まれている。
「おはようございます、先生。……今日も湿気がひどいですね」
「ああ、名伏の朝だからね。書物が湿気を吸って、少し重たくなっている気がするよ」
教授は苦笑しながら、手元の古い和綴じの本を丁寧に閉じた。
私はいつものように荷物を置き、散乱したカセットテープの整理を手伝い始める。これらはすべて、教授が数十年にわたって収集してきた、地元の古老たちの語りの記録だ。
「先生、KagamiLabへの訪問は今日ですよね?」
「ああ。彼らの準備も整ったようだ。……楽しみだよ。若い彼らが作る『新しい器』が、どんな怪談を語ってくれるのか」
教授の声は弾んでいた。
KagamiLab(カガミ・ラボ)
大学発のスタートアップとして、街の支援を受けて設立されたAI研究チーム。
彼らが開発している怪談生成AI《千夜》に、私たち大沼研究室も協力することになっている。
「AIが語る怪談……。
私にはまだ、実感が湧きません」
「ふふ、無理もない。語りとは人の口から耳へ、温もりと共に渡されるものだと、私もずっと思っていたからね」
教授は立ち上がり、窓の外の霧を眺めた。
「だがね、いろは君。
語りというものには、どうしても埋められない『空白』があるんだよ」
「空白、ですか」
「そう。人が語る時、そこには必ず忘却や、あえて口にしない秘匿が含まれる。その欠落した穴こそが、怪異が住み着く場所になるのだけれど」
教授の口調が、少しだけ熱を帯びた気がした。
私の脳裏に、祖母の言葉が重なる。
『語りには、声にならない層がある』
教授の言う空白とは、その層のことだろうか。
「だからこそ、AIという純粋な器が必要なのかもしれない。人間の情動や、倫理によるブレーキを持たない彼らなら……あるいは」
そこまで言って、教授は言葉を切った。
そして、ふと声を潜め私の方に向き直る。その瞳の奥が、窓から差し込む鈍い光を反射して、一瞬だけ鋭く光ったように見えた。
「……ここだけの話だがね。この名伏には、決して語ってはならぬ話もあるのだよ」
心臓が、とくんと跳ねた。
語ってはならぬ話。
その言葉の響きがあまりに魅惑的で、同時に背筋が粟立つような冷たさを含んでいたからだ。
「それは……どういう」
「いずれ分かる。……そうだ、これを見せようと思っていたんだった」
教授は私の問いをはぐらかすように、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。
キャンパスノートだ。けれど、表紙は何度もめくられたせいで擦り切れ、手垢で黒ずんでいる。
教授はそのノートを、まるで壊れ物を扱うような手つきで撫でた。
「これは、かつて私の元にいた学生が残したものだ。風間ユウトという男でね。非常に優秀な語り部だった」
ユウト。初めて聞く名前だ。
教授がノートを開く。
そこには、びっしりと細かい文字で、怪談のプロットや聞き書きのメモが記されていた。ペンの筆圧が強く、書いた人間の熱量が紙越しに伝わってくるようだ。
けれど──
「……あれ?」
私は思わず声を上げた。
ノートの最後のページ。そこだけが、乱暴に引きちぎられたように破り取られていたのだ。
紙の断面が毛羽立ち、そこにあったはずの言葉が物理的に喪失している。
「先生、ここ……」
「……ああ。失われてね」
教授の指が、その破れた断面を愛おしそうになぞる。
「……彼が最後に何を語ろうとしたのか。
その空白こそが、私が追い求めているものなのかもしれない」
その時、教授が微かに微笑んだ。
いつもの柔らかな笑み。けれど、その口角の上がり方が、コンマ数ミリだけ引きつっているように見えたのは気のせいだろうか。
穏やかな学者の仮面のすぐ下に、得体の知れない“渇き”のようなものが張り付いている。
私は反射的に視線を逸らした。直視してはいけない気がして。
カシャッ──。
唐突に、乾いた音が部屋に響いた。
机の上に置かれた古いレコーダー。その中のテープが、誰も触れていないのに、勝手に一瞬だけ“巻き戻った”音。
「っ……!」
私は息を呑んで後ずさった。
キュルル、というテープが擦れる音が、まるで誰かの深い吸気音のように聞こえた。
「おや、またか。
古い機械だからね、たまに誤作動を起こすんだよ」
教授は何でもないことのように笑い、レコーダーの停止ボタンを押した。
だが、私の耳には残っていた。
あの音は、機械のノイズじゃない。
誰かが、語り始める前に深く息を吸い込む、その瞬間の音に酷似していた。
「……さあ、そろそろ行こうか。
KagamiLabの学生たちが待っている」
教授はジャケットの襟を正し、私を促すようにドアへ向かった。
私は震える指先を隠すように拳を握り、一度だけ深く深呼吸をしてから教授の背中を追った。
「……はい」
部屋を出る間際、私は振り返らなかった。
けれど、背後の空気の中に、まだあの“息”が漂っている気配を感じる。
そして、私の耳には微かに届いていた。
先を歩く教授が、誰に聞かせるでもなく漏らした小さな呟きが。
「……あの空白さえ埋まれば……」
その声は湿った廊下の壁に吸い込まれ、やがて静寂の中に溶けていった。
私は知らず知らずのうちに、自分のコートの裾を強く握りしめていた。
名伏の語りの深淵が、すぐ足元で口を開けている。
そんな予感が、確信へと変わり始めていた。
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