「エストや……聞こえるか」

　扉一枚隔てた向こうから話しかけられる。俺は木製のドアには近づかず、窓際の椅子に座ったまま返事をした。

「なんですかお父様」

　しゃがれた声は間違いなくお父様のものだ。久しぶりに話しかけられ、俺は嬉しくなって明るく返事をした。

「この家を出て行ってくれ……追放だ」

　……はい？　耳を疑った俺はその場に本を投げ捨て、扉へと駆け寄る。外から施錠されていて、当然ながら開かない。

　どんどんと扉を叩き、ノブを回すが、外から開けてくれる様子は一切ない。

「お父様！　お父様どうして！？　どうしてですか！？」

「ひっ、ち、近寄るなっ！」

　扉のそばで必死に叫ぶと、短い悲鳴の後にそう言われた。その声は怯え切っている。

「ご、ごめんなさい……」

　俺はハッとして静かに扉を離れた。

　しばらくの沈黙の後、お父様は申し訳なさそうに理由を話した。

「浄化装置の魔石がもう無いんじゃ、北との戦争が……いや、難しいことはいい、とにかく無いんじゃよ」

　再び沈黙が訪れる、静かな部屋の中で、コオォォと浄化装置の音だけが響いた。

　俺は生まれつきの猛毒体質で、体液から呼気に至るまで、人間を蝕む毒が含まれている。

　しかも歳を重ねるごとにそれは強くなっていて、浄化装置の魔石の交換頻度は年々短くなっていった。

「理由は……それだけですか？　俺を隔離せずここに残したのは、俺の毒がみんなの役に立つかもしれないからでしょう？」

　ここはクリアロ家、代々続く白の血の回復魔法使いを輩出してきた名家だ。

「俺の体質が治せないのは分かってる！　兄さんでも無理だったんだから……けど、毒にかかった人の治療は出来るようになったって……」

　俺の毒は研究され続け、ついに新しい解毒の魔法まで発見された。

　俺の名をつけた『エスト』は、複数の毒へと効く魔法としてクリアロ家の名声をさらに広めたのだ。

　自分の手柄だとは思わないけど、だからって開発が終われば捨てるなんてひどすぎる。

「お父様……小屋に隔離されたってかまいません、どうか俺を、ここにいさせてください……独りは嫌なんです」

　一人ぼっちには慣れている。物心がついてからずっと、閉じ込められた部屋に一人だったから。

　それに、兄さんだけは違った。扉の向こうで話しかけながら、いつもご飯を食べてくれた。ライム兄さんの声が聞けるだけで俺は幸せだった。

「いや……それはそうなんだが……」

　お父様がモゴモゴと言い淀んでいると、ズンズンと足音をたて、誰かが扉の前に立った。

「いや、お前は出て行かなきゃダメなんだ、エスト。俺が説明してやるよ」

　聞き間違うはずもない、この声はライム兄さんだ。まさか兄さんも俺を追い出す方へ賛成だなんて……。

　けど……兄さんは俺と違って天才なんだ。必ず何か考えがあるに違いない。

「なぁエスト、俺は勇者のパーティに選ばれたんだ。王国一番の勇者の仲間になるんだぜ？」

　一体どんな理由が出るかと構えていたのに、兄の口から出たのは自慢話だった。

　けれど、俺にとって兄さんは自慢の兄だ。純粋に嬉しくて俺は飛び上がる。

「本当！？　すごいよライム兄さん！　夢が叶ったじゃないか！」

　幼い頃から兄さんは世界一の回復魔法使いになるのが夢だった。

　扉越しにずっと聞いてきた夢だ。

「あぁ、エスト、お前には話してなかったけど、これでも色々大変だったんだ。学校じゃいつも攻撃魔法のやつらが嫉妬でイタズラしてくるしさ」

　警戒していたのがバカみたいだ。いつもの調子で兄さんは学校のことを話す。双子の僕と同じ、脳裏にヘラッとした笑顔が浮かぶ。

　学校の話がひと段落すると、兄さんはそこで突然黙った。

　急激に不安が戻ってくる。突然部屋が真っ暗になったような感覚だ。

「え……兄さん！？　どうしたの？　いきなり黙らないでさ、他にも話してよ」

　およそ一分間、俺はひたすらライム兄さんの言葉を待った。きっとからかっているに違いない、そう信じて。

　次に聞こえた声は聞いたこともないくらい低く、なぜかそれだけで涙が滲んだ。

「なぁエスト……お前、俺の夢を邪魔したりしないよな？」

　夢の邪魔？　いったい何を……何を言ってるんだ？　俺は十年以上ずっと、この部屋から出てないっていうのに。

「分かるだろ？　勇者のパーティはイメージが大事なんだよ、お前みたいな人を殺す体質が双子だってバレたら、俺のイメージが悪いんだ」

　胸が痛い、息が苦しい、これは何だ？　これは……誰だ？　兄さんがこんなこと言うはずがない、俺の体質をだれよりも治そうとしてくれて、俺のことを誰より優しいって言ってくれた兄さんが……。

「安心しろよ、勇者と一緒に世界を旅して、お前の身体を治す方法だって見つけてくるさ――」

　兄さんは兄さんなんだと、立場が変わっても俺のことをきちんと考えてくれているんだとぬか喜びした俺の心は、続く一言で完全に打ち砕かれた。

「ま、生きてたらの話だけどな」

◇◇◇

　ビュオオオォォォ……。

　湿度の高い空気が俺の頬を撫でる。

　幼い頃からずっと小さな一室が俺の世界だった。まさか初めて出た外の景色が、こんな秘境になるとは思いもしなかったが……。

　デルボラの滝。ここはそう呼ばれている。

　正しくは『デル＝ボラ』神の足跡という意味だ。

　大森林の果てにあるこの滝は、世界で最も大きい滝で、大地を抉ったように丸く、まさに足跡と呼ぶにふさわしい形をしている。

　冒険譚で何度も読んだ奇跡の場所が、想像をはるかに超えるスケールで眼の前に広がっている。

　落ちていく大量の水が一体どこに行くのか？　それは誰も知らない。今まで何人もの冒険者がこの滝の下を目指し、そして二度と帰ってこなかったからだ。

「ははっ、相変わらず凄い眺めだ。お前も見てみろよ、エスト」

　ライム兄さんは岩の上を器用に歩き、崖のギリギリで下を見下ろしている。

「危ないよ兄さん、気を付けて」

　俺が心配でそういうと、兄さんはきょとんとした後に、すぐに笑い出した。

「お、お前エストっ、ふっ、あはははは！　この状況で俺の心配すんのか？　すげぇな、お前やっぱり世界一優しいよ、笑いすぎて涙が出るわ」

　愉快そうに笑いながら、兄さんは本当に目尻をぬぐった。そこまで笑わなくてもいいだろ……前はそんな理由で笑う人じゃなかったのに。

　思い出の兄の姿にひびが入っていく、直視できなくなった俺は、足元を流れる水を見ることにした。

「まぁそうだな、お前はこれから飽きるほど見ることになるもんな、今見る必要はねぇか」

　俺の毒は一つだけ弱点がある。それは極端に水溶性が高いこと。呼気にも強い毒性があるが、ストローでコップの水に息を吹くと、水は毒になるけどかなり弱まるし、水泡の空気は無毒になる。

　ここデルボラの滝の周りは湿度が極端に高い、兄さんもお父様も俺の近くにいて大丈夫だ。

「誰にも見つからず暮せばいいんでしょ？　毒も消してくれるし、本当にちょうどいいよ」

　ここなら少しくらい小屋から出ても大丈夫だろう、どうせめったに人は来ない。

　俺は今日からライム兄さんの弟じゃなくなる。文字通りいなかったことになるんだ。

　兄さんは笑顔で俺に歩み寄り、肩をポンと叩いた。

「ちょ、兄さん！？　いくら何でも触ったらだめだよ！」

「ライム！？　お前何を！」

　肌をさらしていれば、ギリギリまで指を近づけるだけで毒が回る。けれど、服の上からでも触れたらダメだ。しかも今日は決して厚着じゃない。

　当然兄さんの指先がジワリと黒ずむ、毒が回った証拠だ。

　強引に振りほどきたいが、強く触れるのはまずい。身体をひねって手を振りほどこうとしたら、兄さんはより強く肩を掴んだ。

「くっ……久しぶりだな、この痛み」

　兄さんの額に玉のような汗が滲む。俺は毒の効果は聞いたことしかないが、かなりの激痛らしい。

「バカ……離せよ！　何やってんだ！」

　俺は出来るだけ優しく兄さんの手を掴み、そのまま振りほどく。毒のせいかもしれないが、腕にはほとんど力が入っていなかった。

　ライム兄さんは毒を治しながら、なぜかにやりと笑った。

「ちょっとからかっただけさ。それに……しばらく会わないうちに、お前もそんな顔ができるようになったんだな」

　さすが勇者のパーティに選ばれるだけある、ほとんど一瞬で手は元通りになった。

「冗談でもやっていいことと悪いことがある！　俺が誰かを傷つけるのがどれだけ嫌いか、昔の兄さんならちゃんと分ってた！　どうしちゃったんだよ！　ライム兄さん！」

　毒のせいか、いつの間にか小声で話すのが普通になっていた。こんなに声を荒げたのはいったいいつぶりだろう？

　感情が高ぶるのに応じて体の内側が燃えるように熱くなる。

　兄さんの手が解毒されるのを押し返すように、再び毒の侵食が始まった。

「いいかエスト！　俺は何も変わっちゃいない！　お前と話した夢も、何もかもだ！　だから……俺の前から消えろ！」

　痛みで目に涙を浮かべながら、ものすごい剣幕で兄さんは叫ぶ。顔全体がどんどん黒くなっていくので、俺は慌てて息を止めた。

「痛……ッ！　あばよエスト！　お前には滝壺がお似合いだぜ！」

　ドンッとそのまま胸ぐらを突き飛ばされる。こらえようと一歩足を引くが、そこに地面はなかった。

　襲い掛かる浮遊感、身体はそのまま後ろへ倒れ、みるみる空が遠ざかる。

　膨大な水と共に俺はデルボラの滝壺へと投げ出された。

　どうして……どうしてだよ兄さん……。絶望と死への恐怖でどす黒く染まっていく心、それを丸ごと吐き出すように叫んだ。

「兄さんなんて……大っっっっ嫌いだ！」

　眉を下げ、哀れな俺を見下すように、ライム兄さんはこちらを見ていた。

　せめて苦しくありませんように、と。もうすぐ訪れる死を受け入れながら、俺は滝壺へと落ちていった。

◇◇◇

　落ち始めてすぐ、大量の水に飲み込まれる。

　一瞬で全身が濡れるけど、空気も混じっていて不思議と息苦しくはない。

　苦しい溺死よりも、滝壺に叩きつけられる衝撃で死ぬほうがきっと楽だろう。

　そんな考えが頭をよぎるが、落ちても落ちても一向に滝つぼにたどり着く気配がない、というか浮いてるような気分だ。

　時間経過とともに、弱気になっていた思考にだんだんと怒りが沸き上がる。

　見殺しにしたお父様……裏切った兄さん。

　ちくしょう……ちくしょう……こんなことなら生まれてすぐ殺してくれればよかった。

　俺は用済みだと？　情けで生かしていただけだと？　そんな話があるか！

　怒りが湧けば湧くほど、生への渇望が芽生えてきた。

「死にたくない……死にたくないよ……このまま？　ふざっ、ふざけるな！」

　大きな声で叫ぶのも、荒い言葉を使うのも、人生で今日が初めてだ。

　血が沸騰する、そんな気分だ。身体の内側で何かが荒れ狂う。

　ドパァン！　と大きい音がして、突然目の前の視界が開けた。

　現れたのは超巨大な魚？　蛇？　いや、二つを足して二で割ったような生き物だ。

　もしかしたら叫び声に反応してやってきたのかもしれない、ヤツは滝の中を泳ぐようにしてこちらに向かってくる。

　なんだこの大きさ……屋敷だって呑み込めそうだ。

「ちょっと来るのが遅かったなヘビ野郎！　お前なんかに食われて死ぬなんて、今の俺はまっぴらごめんなんだよッ！」

　親指の内側を噛んでわざと血を流すと、手のひら一杯分程度の血がたまる。目の錯覚なのか、俺の血が黒い。

　俺の毒がどれだけ強くても。奴の体格なら目薬一滴くらいの量だろう、効くわけないが構うもんか。

「お父様のアホ！　それに……兄さんのバカッ！」

　閉じ込められた十数年の怒りを込め、血だまりを投げつけた。血は巨大な口の中へと見事に入る。

「グギッ！？　グギャアアアァァァァ！」

　恐ろしい光景だった、ヘビ野郎がこの世の終わりみたいな叫び声をあげ、悶える暇もなく骨に変わった。

　生き物を殺すのはゴメンだけど、俺を食べようとしてきた奴なら文句は言わせない。

「ははっ……ざまぁみろ……」

　突如猛烈な眠気に襲われ、俺はそのまま意識を失った。はぁ～、死ぬ前に少しだけ気持ちいい思いができた。

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長い一話にお付き合いいただきありがとうございます。

クセ強キャラ大好きな作者がめいっぱい楽しく書いたので、好きなキャラができたら幸いです。

好きなヒーローはジャムッシュです。