最果てまで

桜庭 くじら

最果てまで

 教室に入ると人の輪の中に彼女がいた。彼女は前列の席に座っていて、その周りを友人たちが取り囲み談笑している。久しぶりに見た。見慣れた高校の制服を着た姿だった。背中までかかる長い黒髪が鮮やかに映った。なんだか嬉しくなった。

 人の輪は彼女だけを残して去っていく。彼女は手を振って見送り、彼らが僕の視界からフレームアウトしたあともその後ろ姿を見つめている。微笑んでいる。何気なく近づいてその横顔に声をかけた。

「ねえ」

 彼女はこちらに顔を向けず、厳しい顔とも悲しい顔ともとれる表情をした。静かに立ち上がり、友人たちが去った方へと歩いていく。

 放課後、昇降口を出た僕は、なぜかそこにいることがわかって校舎の方を振り向いた。友人たちに囲まれる楽しそうな彼女の姿が見えた。僕は下駄箱まで戻り、友人たちが先に校舎を出ていく中、靴を履くのに手間取って床に座っている彼女の横に座った。

「帰ろう」

 彼女は笑みを消して何かをじっと考えるように視線を床に落とした。だがすぐに立ち上がり、友人たちに向かって足早に歩いていった。僕はその後ろ姿を眺めながら、どうしようもないくらい嫌われたんだなと実感した。さみしさが訪れるのと同時に心の底に穴が開いているのを感じて、どうしてこうなったんだろうとそこはかとなく思った。そのうち、誰もいない下駄箱の光景は、視界の端から現れた鮮烈な白によって消えていった。


 強い日差しが瞼にあたって、目覚めると窓から夏の太陽が見えた。

 やるせない日々に退屈して、ついに幻影を生み出し始めた僕の脳は、布団からしばらく動くなと言う。窓の外の眩しい世界、その裏返しのように暗がりになっている部屋では、つけっぱなしの扇風機がジジジと音を立てて回っている。

 大学三年の夏休みだった。八月十二日の昼は澄みきった晴天で、山の向こうから入道雲が背伸びしている。実家の辺りには畑ばかりの田舎の景色が広がっている。軽トラのタイヤが地面を擦る音が遠のくと、後は太陽がうるさいくらいに燦々と輝くばかりで静かだ。手を伸ばせばそこにあったと思っていた事柄の何もかもが失われた。永遠に続いているような夏の陽差しに照らされてみれば、自分の中は空っぽである。ただ眺めるだけでどうしようもないと思えるほど、遥かな夏の景色は僕の内臓も骨も皮膚も溶かして黒い影に変えてしまう。

 僕は静かに過ごしていると、暗くて果てのない、どこまでも広がる空間に、独り佇んでいる想像に引き込まれる。あえて形容してみるなら、新月の夜、太平洋の真ん中の、木も生えていないような小さい島にいて、眺められるのは真っ黒な水平線ばかり、そんな光景だ。これはきっと胸の内に巣くう空虚が発するものだ。そこには、奥底に沈んで二度と上がってこないはずだった思い出がいくつも転がっている。自分のルーツを辿るように、幼いころの記憶、母の記憶。吹きすさぶような無と、一歩先も見えないような孤独。蝋燭の灯りのような仄かに暖かいもの。幼い頃、夜を怖がる僕を抱きしめてくれた姉の温もり。それらは拾い上げなくとも自然に浮かんできて、視界を奪い、僕に迫り、追い詰める。それらを前にして、逃げ出すべきか大切に抱えるべきか選択を迫られ、今なおわからないでいる。


 三年前、姉が死んだとき、僕は部屋にこもって静かに泣いた。頭が痛くなるほど泣いて、それっきり時間が止まった。彼女の姿を、寝ても覚めても見つめていた。昔の出来事を改ざんしたような夢ばかりみた。一人でしていた受験勉強の記憶は、傍らに参考書を持った姉がいるように書き換えられる。一人で訪れた花屋には、隣に姉がいて、店内に飾られた花を一緒に見て回っているように直される。誰かの葬式に参列している場面では、唇をきつく結び、じっと棺桶を見つめる姉がいる。いつも生活風景に、姉が僕の隣にいて、優しく笑っている。たまにすっかりそちらの世界に浸かってしまって、今自分の歳がいくつなのかわからなくなる。しばらくの間は、そうやって姉のことを手放せないまま、いたずらに日々を過ごしていた。


 家族は姉を名前で呼んでいたから、僕も彼女をさくらと呼んだ。僕らは似ているとよく言われた。顔立ちは、さくらの方が小顔ではっきりとしていたが、どちらにも片方を思わせる面影があった。性格もたぶん似ていたと思う。さくらを知る人は、快活、でも神経質なくらい優しかった、と言う。それらの言葉も彼女にはなんだか合わない。ぶかぶかしているし、ぴちぴち過ぎる。かといって、僕もさくらを客観的に表現する言葉を持たない。彼女を表現しようとするとは曖昧になって像を結ばない。さくらは、柔らかくて、良い匂い。嗅ぐと思わず顔を背けてしまう甘ったるさ。それは、ふかふかの布団のように僕を包み込み、安心させ、立ち上がるための芯を抜き、どろどろに溶かす。その中に溺れていたいと思うけど、出ていきたいとも強く思う。そういう感情を抱かせるのがさくらだった。

 そうした気持ちの根底にあるのは、恐らく、幼少の頃のある記憶のせいだ。小学校に上がる前、夕方ごろ、さくらは家の近くの人けのない空き地まで僕を連れて行った。彼女は、誰にも秘密だよ、と言って、僕の肩に両手を置いた。僕は頷いて、静かに瞼を閉じた。さくらは一瞬口づけすると、すぐに離れ、再び、内緒だよ、と念を押して、僕を置いて家の方へ走り去った。幼い僕は、さくらと結婚するんだと信じて疑わなかった。


 中学生くらいになってからは、そのことを思い出すと、なんだか胸がむかむかするような嫌悪を感じた。本能が拒絶するということなのだろうか。暗闇の部屋を歩いていると一歩踏み出すたびに壁に頭がぶつかると思うような、飲み過ぎた後の二日酔いを予感させる気持ち悪さのような、そんな嫌悪だ。この感覚を思い出すと、僕にはこんなイメージが頭に浮かぶ。機械仕掛けの歩行人形が模型の家の低い梁に頭をぶつけながら、なお進もうと無意味な足踏みをしている様子。それが何をきっかけにしているのか、何を意味しているのかはわからない。嫌悪は次第に忘れ、小さい頃の記憶も月日の流れにつれて薄れていった。溺れる欲求と抵抗だけが、心の隅に残った。


 夜、リビングでテレビを見ていると、父が明日おじいちゃんの家に行かないか、と言った。祖父の家はここから下道で一時間のところにある。父が幼少の頃建てたという大きな家で、今は祖母と叔父が二人だけで住んでいる。近くには僕が通っていた高校がある。小さい頃は家族で遊びに行っていたし、高校生になってもたまに訪れていたのだが、今は行く気にはならなかった。僕にとって形骸化された街だった。思い出ばかりがはびこって、その源になるべきものがない。しかし、僕は二つ返事で了承した。父や友人と話す時は、脳が喉の辺りまで落ちてしまって、頭の中が空っぽになったような感覚になる。昔から、父との間に薄い壁があるように感じていた。それが奇妙な圧迫感となって、父の言うことには身体が従ってしまうのだった。

翌日も晴れて、沁みるような暑さを縫うように清々しい風が吹いていた。

 僕たちを乗せた車は県を横断する川に沿うように続く国道を北へ下っていく。僕は助手席に座っていた。移動中のほとんどはずっと前方車両のナンバーを見ていて、たまに他に目をやった。深緑の山並みの向こうに青い北アルプスがじっと佇んでいる。ガードレールの向こうで広い川面が水飛沫をあげて白く反射する。父がかけた昭和歌謡曲の向こうで川の音が聞こえる。もう何度行き来したかわからない地元の道を二十歳になってまた通っている。上京した後はすっかり忘れて思い出す暇もなかったのに、この景色を見れば過去幾千の同じ景色が重なるように見えてくる。父は運転に専念しているかのように、前をじっと見ていた。どことなく居心地の悪さを感じるのは、父が目の端で僕の様子を伺っているからなのだろうか。

 さくらとは、高校生になって、僕が不真面目な態度を取るようになった後も唯一まともな交流があった。父は日夜仕事で家におらず、口うるさかった母も、僕が何かと怒鳴り散らすので必要最低限の会話しかしなくなった。学校にいてもほとんどしゃべらなかった。あの頃は、学校の、おどおど神経をすり減らさせられる馴れ合いの空気が嫌いで、教室にいるのも耐えられず、弁当は体育館裏に置かれたベンチで一人食べるのが日課だった。食べ終わった後はずっと青い稜線を眺めていた。少しすれば、意識は山並みを遠のかせ、代わりに目の前に横たわる頭を重くするいろいろなことを手繰り寄せて大きく展開する。もう何も考えたくない気分になった時に、それを打ち破ってくれるのはさくらだった。昼休みの終わる五分前になると彼女は体育館裏にひょっこり現れ、隣に座るとくだらないことを話し出して、チャイムが鳴れば僕を置いてすぐ教室に戻っていく。学校の中でそれ以外に関わることは無い。学年が違うためなのはもちろん、彼女は頼まれると断ることができなかったから、要領がいいわけでもないのに、学級委員とか、部活の部長とか、たくさんの仕事を抱えていつも忙しかった。


 七月の陽差しから逃れた建物の陰、さくらはいつものようにサイダーを買って持ってきた。隣に座ると半分くらい飲んでペットボトルを僕に突き出してあげると言い、僕が飲み干すまで見ている。カラになると、そっちが最後飲んだんだから捨てといて、といたずらっぽく言う。僕は口で応える代わりにラベルをはがして彼女の服に付けようとする。さくらは嬌声を上げて身をよじって避ける。ひとしきり騒いだ後、さくらは僕の目をじっと覗き込む。何かを期待する大きな瞳。僕はわけもわからず同じように彼女の目を見つめた。夏の空のように澄んでいた。


 さくらは僕にとって不思議な存在だった。一番近くにいるのに、他人と同じくらい自分とは別の人間のように思われた。こうして姉のことを考えてみたとき、いったい彼女がいつも何を考えていたのか、少しも想像がつかない。ずっと一緒にいて、勝手にこうだろうと思い込んださくらの像がいつのまにかできていて、それに当てはめて考えようともしなかったのだ。昔もさくらのふとした言葉に、彼女の意外な一面を知らされることがあった。そんな時、僕には彼女の内側が闇になっているように思われた。

 祖父の家に着く。砂利の駐車場に軽を停め、ぼおっとしている僕に父が着いたぞ、と声をかける。のろのろと車を出て父の後ろを玄関まで歩く。父が雑に戸を開けてこんちわと言うと、奥から祖母のはあいと言う間伸びした声が返ってくる。薄暗い玄関に入って後ろ手に戸を閉めた時、襖が開いてにこにこした叔父が顔を出した。

 僕の家族は祖父の家に来るとまず仏間に向かう。仏壇には二つの写真が置かれている。一つは六年前に亡くなった祖父のものだ。運転免許のものを引き延ばしたそれは、真面目な表情で固まっている。記憶の中の祖父はもっと柔和な笑顔をしていた。よく釣りやドライブに連れて行ってもらった。普段は眼鏡をかけていて物静かで、泰然自若という感じだったらしいが、孫に見せた姿は無邪気に魚を頬張る好々爺だった。

 もう一つには十代半ばくらいの女の子が映っている。恐らく卒業写真から取られたもので、セーラー服を着て慎ましくにこりと微笑んでいる。昔、祖母に彼女は誰なのか訊ねた時、ずっと前に出ていったまま帰って来ない子だよ、と寂しそうに言われた。後で父に聞いたところ、祖母は父と叔父の他に叔母を産んでいたが、彼女は夭折したという。


 僕と父は仏壇の前に座って手を合わせた。目を瞑ると、深い闇へとどこまでも落ちていくような気がした。目を開けると叔父が横にいて、女の子の写真をじっと見ていた。どこか遠い昔を見ているようだった。


 居間での歓談の際、叔父がもう呑める歳になったんだからと日本酒を出してきて祖母に叱られるという一幕があった。頼りなげで冗談ばかり言う人だが、若い頃は荒れていたという。昔のことを聞けばそういう時代だったと頭を掻いて誤魔化すが、その話になるといつもどこか影のある瞳をした。日本酒を片付けた後も叔父はずっと笑かしてばかりくるので、鬱陶しくなって、ちょっと散歩と言って家を出た。

 酷い日差しで目を細めた。空が原色の青色をしていた。祖父の家の周りはりんご畑が広がっている。車が通ることも少ない道路を街中の方へ歩き出す。しばらく行くとバイパスに出て、そこからは病院やパチンコ屋、大きな公園があって人も多くなる。公園の前を通った時、ボールを蹴って遊んでいる家族に目が引き寄せられた。平和な空間だった。僕の足は導かれるように高校の方へと向かった。

 母校は三年前と変わっていなかった。色褪せたクリーム色の校舎、トタン屋根の付いた駐輪場。昇降口には人の気配がない。部活をしているのか掛け声が聞こえてくる。構内に侵入するのは気が引けたので、近くの跨線橋に登って上から学校を一望した。そこから体育館の裏のベンチは見えなかった。

 一学期の終業式の日も、さくらは体育館裏のベンチに来た。強烈な陽差しがグラウンドに降り注いでいた。体育館からボールを突く音と微かな話し声が響いてくる。いつものように北アルプスの山脈を眺め、朝コンビニで買った菓子パンを頬張った。その日は半日だけで、部活のある人たちは固まって部室棟に向かったので、さくらはお昼を部活の仲間と過ごすだろうと思っていたから、突然横に彼女がにやにやしながら現われた時、ここにいて大丈夫なのかよ、と思わず言った。

 さくらは別にぃ、と言って持っていたサイダーのキャップを開けた。シュッと軽快な炭酸の音がする。喉を鳴らしてそれを飲み、口を離して息をつくと唐突に話し出す。

「あんたさ、クラスの子と仲良くする気はないの」

 僕は彼女から目を逸らしグラウンドの方をぼんやりと見た。

「仲良くしているつもりだけど」

「昔から受動的で自分から話そうとしないから変な誤解されるのよ」

 誤解って、何だって言うのさ、と問うと、ヤンキーだって、とさくらはくすくす笑った。

「そう言えば、デートはどうだったの?」

 昨日、日曜日、僕はある女の子と街に出かけた。その女の子とは中学からの知り合いだったが、話したことは数えるほどだった。だから彼女は、さくらに仲介を頼みそれを実現させた。隣町の繁華街で食事をし、本屋に寄って、最後にカフェで適当に話した後別れた。

「普通だった」

 さくらはむっとして、結構ニヤニヤしてたって聞いたけど、と言った。僕は何も言わなかった。さくらは僕の方をじっと見て、僕もそれに気が付いて彼女を見た。お互いに真顔だった。視線はぶつからなかった。僕は彼女の長い髪が涼しい風にそよぐのを観察し、さくらは僕の口元をじっくり見ていたように思う。

 しばらくしてさくらは立ち上がり、部活があるから、と言って駆けて行った。ペットボトルは彼女の手に握られたまま、振られてかしゃかしゃと音を立てた。

 ところで僕は、大人しい人間だ。好き、という気持ち、そして想い人と思いを通わせたい欲求はある。しかし、それ以上の関係になりたいとは思わない。僕は自信がない。僕の頼りなさやかっこ悪さを知られたくない。そのためにはある程度自分を俯瞰し管理できる距離を他人と保たねばならない。僕は近くにいる人を傷つけ失望させない自信がない。嫌われるくらいならば、離れた場所に立って、お互い大声で会話しているくらいがちょうどいい。

 夕方、僕は例の女の子に、もし好意を持ってくれているなら、申し訳ないけど僕にはその気はないです、とラインを送った。それから散歩に出た。彼女から返信はなかなか来なかった。コンビニで肉まんを買い、近所の公園に行きブランコに座って黙々とそれを口に運んだ。夕陽がちくちくと頬を刺した。

 そこに息を切らしたさくらが現われた。彼女はゆっくり僕の方に近づいて二歩手前のところで止まるとうるんだ瞳で睨み、

「振ったんだってね」

 と強い口調で言った。僕はさくらが髪を後ろで結んだままになっているのを見て、ほどいたほうが似合うのに、とぼんやり思った。

「何で振ったの」

「別に、反りが合わないと思ったから。こういうのは早めにはっきりさせたほうがいいと思って」

「まだあの子のことよく知らないでしょ」

「興味ない」

 さくらは一歩踏み込むと大きく息を吸いあげて思い切り僕を罵倒した。殴られたような衝撃で僕も頭に血が上り、徐々に拳を強く握り締め、糸が切れるようにふっと突き出しかけた。

 しかし、すんでのところで理性が立ち上がった。手を止めた。自分の中に他の自分がいるような混乱が起きた。さくらは沈んだ目で左下の方を向いていた。まるで殴られて当然とでも言いたげな、投げやりな暗い目だった。その目の奥に、僕が映っていた。それも一瞬のことで、僕が手を上げないとわかると彼女はすぐに顔を上げ、バカ、と呟いて走り去った。

 結局あの女の子から返信は来なかった。

 日が傾いてきて、祖父の家に戻ると、父が、墓参りに行くぞ、と言った。叔父と祖母は既に出掛ける支度を整えており、僕が戻って来るのを待っていた。お盆に祖父の家に来れば、必ずお墓参りに行っていたのだった。距離があるので父の車で行くこととなった。父は叔父と違って下戸のため、運転手を務めるのが常だった。

 祖父たちの眠っている墓地は山の際にある。既に暖かい茜色が辺りを包んでいた。墓地に覆いかぶさるように生える木々は、競うように伸びる枝の下に深い闇を蓄えている。墓地の入り口に建てられた祖父たちの墓は、それら植物の一つという印象だった。死者を埋めた場所という感じは薄かった。ちなみに、さくらの墓はここではなく、遠く離れた海が見える町の丘の上に建てられている。

 叔父がバケツに水を入れてきて、柄杓で墓石に水をかけた。祖母が仏花を飾り線香に火をつけた。そして、一同手を合わせた。僕の頭に浮かんできたのは、祖父よりもっと昔の、自分と同じ血を持った人たちのイメージだった。幾人もの老若男女が額からうなじに抜けていく。彼らは天高く昇って宇宙に溶けていく。そしていずれ、僕もそのうちの一人になるのだということが、ひしひしとわかった。ふと思い出がよみがえった。子どもの頃、夕方、こんな風に墓参りをした後、祖父が用意した花火で遊んだこと。さくらは僕の分なんか考えず、ほとんど一人で燃やし尽くしていたずらっぽく笑った。最後に残った線香花火だけ、さみしくて嫌い、と言って僕にやらせた。

 墓参りを終え祖父の家に戻った後、叔父からおふるで申し訳ないが、とネックレスをもらった。シルバーのチェーンで、年季ものには思えないほど綺麗だった。叔父は、この歳になってやっと若さへの未練がなくなったんだ、と笑った。僕はこのネックレスが、とても重要なものに思われて、机の一番大切なものを入れておく引き出しの中にしまうことにした。

 夏休みになると、さくらは昼過ぎに必ず僕の部屋へとやってきた。先輩の務めだとか言って、持ってきた参考書を開き、自分が解く代わりに僕に問題を出して、答えられなかったものを教えようとする。しかし彼女もわからない問題が出てくると、うだうだ考えて、結局だべってじゃれあった。さくらは部活を引退したと言った。確か彼女が入っていたのは文化系の部活だったから、引退も何もないはずで、その時は気分でやったりやめたりできるのだろうと思った。彼女は時々唐突に、嫌だな、とか、なぜだろう、とか、謎めいた言葉を呟いた。聞き返すとかき消すように首を振り、テレビやユーチューブの面白かったところを話し始めた。


 さくらは部屋にいる間、できる限り僕と身体をくっつけていようとした。背中合わせに座ったり、僕の首に腕を回したり、僕はされるがままになっていた。だが彼女は、僕からさくらに触ることと、一緒に外出することは嫌がった。肩を叩こうとすると身をよじって逃げ、飽きたから駅の方にでも行こうと言うと拒み、ベッドの上に寝転がって、枕を抱えてぶすっとしているのだった。そういう時は、前日深夜に買っておいたサイダーをリュックから出してきて渡した。さくらはすぐには受け取らないが、机の上に置いておくとそのうちおずおずと手に取って蓋を開ける。一口目はぬるいと顔をしかめるが、その後はちょっとずつ飲みながら落ち着いているのだった。


 僕はたまに、さくらの部屋の前まで行ってみることがあったのだが、ほとんど入ることはなかった。そこに立つと、扉の向こうから彼女の独り言が聞こえてきた。何かの歌詞を口ずさみながら、それに混じって、よくない言葉を呟いている。恐らく心の容量を超えて出た悲鳴の断片だったのだと思う。それを聞くと、どうしていいかわからず、いつもしばらく立ち尽くして、その場を立ち去るのだった。

 父の運転する軽は街灯の照らす長い国道を無心に走った。僕も父も無言だった。月が濃い紫の夜空に張り付けられていた。車が家に近づき、ライトが敷地を照らした。改めて見ると家は記憶より薄汚れていた。母の車は駐車場に停まっている。車を降りると夜空の無数の星が目についた。父は玄関の前で、今日はみんなでどこかに食べに行こうか、と言った。僕らはただいまと言って中に入る。

 母は仏間にいた。窓から差す月明りが部屋の灯りに負けて窓辺をちらついている。仏壇の前に正座して手を合わせていた。僕は声を発せず、母の横に座った。仏壇を仰ぎ、そこに置かれている写真を見た。

 そこには、水色のティーシャツを着た無邪気な笑顔のさくらが写っている。いつだったか、お盆に家族で旅行に行った時、母がさくらと僕を砂浜で撮ったものから取られたものだ。切り抜かれた右側には、照れくさそうに立つ僕がいたはずである。桜が死んだとき、母は姉の名を呼びながら泣き続けた。外出しても、さくらを連想する何かを目にするたびに泣いた。時が経ち、母の涙を見ることはなくなったが、その苦しみはいつまでも胸の奥にあるに違いない。

 母はぽつりと呟いた。

「あの子は自殺するような子じゃなかったよ」

 僕は声にするか逡巡し、ついにうめくように言った。

「そんなことはないよ。弱いのに、それを隠そうとするんだ」

「それは強いからだよ。あの子は自殺なんかしない」

僕は言葉を失った。この世に残された片割れは、永遠に失われたもう一人を求める母に対し何もできない。

 母は力なく、自問のように付け足した。

「どうして気づいてあげられなかったんだろうね」

 僕は唇を噛み、膝の上に置いた拳を握りしめ、それからふっと力を抜いた。意識が身体を出て天井まで昇り、部屋を見渡した。自分がわがままを言う子どもに見えた。自分の中にあるものは、母のものとよく似ているのに、きっと同じではない。  さくらの被った不和はすべて僕に責任があるのだと、言おうかと思った。けれど言わなかった。言うべきことは、ひとつとしてわからない。

 手洗いうがいを済ませた父が入って来て電気をつけ、今晩はみんなでどこかに食べに行こう、とさっき言った言葉を繰り返した。僕らは目を伏せたまま立ち上がった。

 さくらは八月十四日の早朝、庭の柿の木で首を吊った。警察は他殺の可能性はないだろう言ったが、遺体を持っていき、結局自殺と断定した。

 遺体が帰ってきた日、僕はたまらず朝から外出していて、父が電話で、母さんが、さくらの頬をさすって、ずっと話しかけているから、と言った。その光景を想像したとき、全身に戦慄が走った。暗い仏間に横たわるもう応えることのないさくらに、母が声をかけ続けている。天井が消え、代わりに無限の闇が広がり、二度と母に声を届けることのできない幽霊のさくらが、悲しげに闇の中から見下ろしている。僕はこの時、自分の中に沈んでいた死の概念に遭遇したのだと思う。それは不気味な絵画を見たときに生まれる感情とよく似ている。吹雪の日、教会の壁に掛けられた受難図を見上げた時のような、漠然と生まれる畏怖。ガラス一枚向こうに、底の見えない恐しいものが、氷のように冴えた冷たさを持って確かにいることの恐怖。僕はその想像が恐ろしかった。

 事件の後、僕と母は動揺して動けなかったため、父が叔父を手伝わせて葬儀の準備を進めた。父はいつまでも冷静で気丈だったが、さくらが荼毘に付される時、火葬炉に入っていく白い棺を見て、母の肩を支えながら目尻に涙を浮かべた。後にも先にも父が泣いたのを僕が見たのはその時だけだった。

 葬儀からふた月たった頃、秋も深まり木枯らしが吹き荒れる中、僕は庭の柿の木を根元から切り倒した。三日かけて枝をばらばらに落とし、荷紐でまとめ、庭の隅に重ねた。父も母もそこまでしなくても、と言ったが僕は取り合わなかった。

 何もかもが過ぎ去った。東京の大学に進学した後は、それまでの一切を忘れた。自分のことばかり考えて生きた。それだけだった。


 夢を見た。

 深夜、僕はさくらの部屋の前にじっと立っている。独り言は聞こえてこない。小さくノックしてみる。返事はない。扉をそっと開けると、枕元に置かれたスタンドの灯りが見えた。さくらはベッドに仰向けに寝転びスマホをいじっていたが、ドアが開いたことに反応して、スマホを伏せ、誰、と言った。

 僕は、さくら、と呼んだ。すると彼女は、なあんだ、と言って息をついた。僕は部屋に入ってベッドの横に座った。

「どうしたの、こんな夜中に」

僕は、さみしくなってきた、と言った。そこから長い間静かだった。震える声で言った。

「さくらはさ、僕のこと、嫌い?」

 こうすれば、きっと手を伸ばさずにはいられない。しばらくして彼女は身体を起こし、思惑通りに僕の頭を撫でた。

「嫌いなわけがないよ」

 僕はさくらの体に腕を回す。さくらは少し身を引いたが、なお強く引き寄せられて、諦めたように僕に体を寄せた。体重をかけると、彼女はゆっくりと後ろに倒れた。さくらは僕の背を抱き、さすった。僕は、大好きだよ、とつぶやく。さくらの胸の中でまどろみにはまっていく。

 顔を上げると、窓際に置いてある花瓶の花が月の明りに照らされてたおやかに咲いているのが見えた。とても満ち足りた気分になって、自室へ戻った。

 翌日の昼になった。僕はこの時間にしては珍しく部屋を出た。キッチンで食パンをくすね、出てきたところでさくらに鉢合わせた。刹那身体が温かくなっていくのを感じた。僕は緩んだ頬で微笑みかける。

 彼女は僕を一目見ると、不機嫌そうな顔をしてくるっと後ろを向き、廊下をすたすたと戻っていった。窓から差し込んでいた陽の光は次第に目を覆いたくなるほど眩しくなった。視界は白に塗りこめられ、後ろ姿は光の向こうに消えていく。


 強い夏の暑さに焼かれ、目覚めると暗い天井が映り、窓の外には入道雲が湧き上がる青空が見えた。

 やるせない日々に退屈して、ついにタイムリープまでし始めた僕の脳は、布団からしばらく動くなと言う。窓の外の眩しい世界、その裏返しのように深い青色に染められた部屋には、つけっぱなしの扇風機がジジジと音を立てて回っていた。

 大学三年の夏休みだった。八月十二日の昼は澄みきった晴天で、昨日聞いた予報によれば日中の気温は38度にまでなるようだ。

 家には僕一人だった。両親は共働きでたいてい昼間は家にいなかった。僕らを育てるために使われたお金はこの汗の中から捻出されてきた。

 空は境目が見えそうなほど澄んでいた。その先にあるはずの最果ての場所に辿り着きたいのに、もうそこへの道しるべも、もがく力も残されていない。

 八月の白い光が心の奥まで突き刺さるこの二日間を、僕は何度も繰り返していた。

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最果てまで 桜庭 くじら @sakurabahauru01

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