心に銃を
ことりいしの
前編
ぱあん、と耳元で音が鳴った。
その音は、子どもの頃に遊園地で買ってもらった風船が割れた音に似ていた。風船? そう思って、あたりを見渡す。でもそこにあるのは、いつもの大学のキャンパスだ。もうすでに木から落ちてしまった桜の花びらが、ただただ骸のようにコンクリートの上で踏まれてぺしゃんこになっている。蝶の標本みたいだな、と場にそぐわない感想が頭の中にぷかりと浮かんだ。
頬が熱い。
じんじんとする右頬を手で押さえる。ほんの少しだけ、そこが熱を持っているような気がした。
ああ、叩かれたんだ。一拍遅れて、暢気にそう思っていると、目の前の葉子がわなわなと震え出した。
「ふざけないでよ! 普通、怒るところでしょ! なんで、シンはそんな風にへらへら笑ってるのよ、なんで!」
なんで、と言われたところで、俺は何も答えようがなかった。
俺と葉子は、今の今まで、歩きながら和やかに会話をしていたはずだ。週末に提出の課題がまだ終わっていないだとか、今日はどんなランチを食べようかだとか、ゴールデンウィークにはどこに出かけようかだとか、そういうとりとめもなくて、大した意味のない会話を。
それなのに大学の敷地内に入った途端、雰囲気が悪くなり、そして葉子が怒った。
「……ごめん」
「何もわかってないのに謝らないでよ」
その言葉に閉口するしかない。俺は確かに、彼女が何に対して怒っていて、俺がなんで謝っているのか、なにひとつわかっていない。
「ずっと思ってたけどさ……シンって、サイコパスなんじゃない?」
「そんなことは――」
「無いって言い切れるの? あたしたち、付き合ってるんだよ?」
うん、そうだね。俺はひとつ頷いた。
「浮気?」「なにあれ。喧嘩か?」「男が浮気したっぽいぞ」「女の子、かわいくね?」大学のメインストリートで騒いでいるからだろう。好き勝手言いながら、わらわらと人が集まってくる。
「じゃあなんで、あたしが友だちに告白されたって言ってんのに怒らないの? 嫉妬もしないの? 普通は何か反応するでしょ」
普通は、反応するものなんだ。思わず吐き出してしまいそうになった言葉を呑み込み、
「そっか。そうだよね、ごめん」
と言う。
「……もういい。もういいよ。シンはあたしのこと、好きじゃなかったんだね」
葉子がバッグを肩にかけ直す。その動きに合わせて、しゃらんとバッグチャームが揺れた。彼女が愛用している赤茶色のバッグにはあまり似合わない、紫色のビジューが散りばめられたチャーム。それは先々月、付き合って一年の記念として、俺がプレゼントしたものだった。
「ばいばい、シン。あたしは好きだったよ」
葉子はチャームを丁寧に外してからバッグに仕舞い、そして講義棟の中へと消えた。集まっていた学生たちは、チャイムの音と共に方々へ散っていく。俺は講義に出る気にもなれず、踵を返して校門を出た。大学の目の前の街路に植えられた八重桜は、もう四月が終わるというのに満開で。ほかの桜から取り残されているようで、愛おしかった。親近感がわいた。
俺みたいで。
葉子のことは好きだった。
戯れのような合コンの数合わせ同士として出会った俺たちは、映画や音楽の話をする流れで一緒に映画館やライヴハウスに行くことになり、何度も出かけるうちに付き合うことになった。趣味が似ていて、話しやすかった。きっかけは、そんな些細なことだ。
裏表がなく、感情表現が豊かで。何より、焼き魚を綺麗に食べられるところに惹かれた。俺はどうしても上手く食べられないから、彼女に、羨ましさや称賛めいたものを向けていたのかもしれない。
「シンはいつまでたっても、綺麗に食べられないんだねぇ」
そう言って、くふくふと笑う葉子を見るのが好きだった。その笑顔を見るために、何度も何度も食事を共にした。「たまには魚以外も食べたいんだけど」とむくれる彼女と、イタリアンや中華も食べた。カフェにも行ったし、浅草やら横浜に食べ歩きにも行った。
でも俺たちは夜を共にしたことはない。
付き合って半年くらい経ってから、葉子と俺は二十歳を迎えた。その頃からだったと思う。
葉子がたびたび身体を求めるようになったのは。
大学生にもなって、手を繋ぐだけの初々しいカップルなどいない。今どきは小学生だって、キスをするらしいのだから。でも俺は「大学生なのに、万が一のことがあったら困るから」と幾度も要求を突っぱねた。
その言葉に嘘偽りはない。俺たちはまだ学生で、親に養ってもらっている立場で。もし間違って子どもが出来てしまえば、ふたりだけの問題では済まない。特に葉子は大変だ。
だがそれ以外の理由があった。ひとつ断っておくが、彼女に魅力がないわけではない。むしろ、俺にはもったいないほど素晴らしい女性だ。
理由は俺の方にある。おそらく、欠陥品なのだ。
おそらく、なんて一応の断りの言葉を入れることすら、欠陥品の証かもしれない。
葉子が言うように、サイコパスなのかもしれない。以前はそんな風に思ったことはなかったが、考えてみればそうかもしれない。
俺は、どんな人とであれ、肉体関係を持つことに対して、もっと言ってしまえば恋愛することに対して、現実に起こるとは思えない。恋愛ということ自体が、友愛と何が違うのか、家族愛とどう違うのか、全然わからない。
俺にとって恋愛することは、昔話やおとぎ話を読んでいるのとほとんど変わらない。良いなとは思う。誰かを一途に愛し、誰かに一心に愛されたらどれだけ幸福なんだろうかと思う。
でも、想像の領分から一歩外に出られない。
両親だって、愛し合っていた。疑うまでもない。だって、俺という存在が、今、ここにあるのだから。それに、俺はそれを、確かに間近で見てきたのだから。なのに、その姿になれる確信がどこにもなかった。
幸福になりたくないわけじゃない。俺は間違いなく、幸福になりたい。
愛がわからないわけじゃない。愛したいし、愛されたい。友愛や親愛は、多分、わかる。親友と呼べる人もいたし、友だちは多い方だ。多分、俺には恋愛だけがわからない。
俺はきっと、普通じゃない。葉子が言ったように。
葉子のことは好きだった。でもこの「好き」はきっと、恋愛という種類に当てはまらない。彼女のことは、人間として好きだ。尊敬していたと言えるのかもしれない。
でも恋愛感情はどうだったのと訊かれると、わからないとしか答えられない。
「高校からの友だちで亮介っていう子がいるんだけどね、久々にその子に会ってさぁ、告白されちゃったんだよねぇ」
さっきの会話で葉子がそう零したとき、俺じゃなくても彼女が幸せになれるなら、その人と一緒に生きるのも良いんじゃないかと思った。だから「そうなんだ。その人ってどんな人なの?」と返した。俺にとっては、最善の返答だった。その返答がきっと起爆剤だった。彼女はそのあと、怒ったから。
はあ、とため息をつく。
講義をサボって飲むコーヒーは美味しくない。
ほとんど衝動的に大学を出たものの、家に帰る気力もなく。ふらふらと亡霊のように街を彷徨った俺は、見知ったカフェに入った。全国どこにでもあるチェーン店。価格設定があまり高くないため、上京する前からよく訪れていた場所だ。葉子にあんなことを言われたときはどこか知らないところに行ってしまいたいと思っていたのに、結局、俺はよく知っている場所に落ち着いてしまった。人間には帰巣本能が搭載されているんだろうか、とどうでも良いことを頭の中で転がす。
店内は、昼前だからか雑然としていた。ビジネスマン向けだろう、点けっぱなしにされたテレビからは世界各国のニュースが流れている。戦争の話が出たかと思えば、かわいいとSNSでバズっている猫や犬の動画の話題へと移る。まったくもって脈絡がなかった。
俺たちは世界のどこかで起こっている戦争に対して怖いと思い、戦争反対と叫びながら、それでもどこかで他人事だと思っている。自分たちは傍観者で、物語の主人公になることなど到底あり得なくて。ゆえに全てのことを対岸の火事のように見つめるのみだ。まあ、俺は当時者なのにもかかわらず、恋愛だって対岸の火事を眺めるようにしているわけだけど。
そろそろコーヒーがほどよく冷めようかというとき、目の前の椅子が引かれた。ギィという少しばかり耳障りな音に視線を上げると、見知った男性がいた。適当にひとつに括られた長い髪。着崩されたワイシャツ。山里さんだ。
彼は俺が自分の方を見たことを確認すると、悪戯を見つけた子どものようににやりと笑う。
「よっ、ところてんちゃん。よーこちゃんにフラれたんだって?」
「……山里さん、講義はどうしたんです?」
「そんなもん、サボったよ。ってか、ところてんちゃんもでしょ?」
「また留年しますよ」
「モラトリアムが増えるじゃん、良いことだよね」
山里さんは俺に断ることなく相席し、見ているだけで胃もたれしそうな量のケーキをテーブルに広げた。ショートケーキにモンブラン、ロールケーキにチョコレート。それにシュークリームにバウムクーヘンまである。糖尿病まっしぐらコースでも頼んだんだろうか。
「で? ところてんちゃんは浮気でもしたの?」
山里さんは同じアパートに住む隣人だ。
アパートには他にうちの大学の学生が住んでいないからか、入学当初からよく目をかけてもらっている。彼は三浪した上、さらに留年を数度重ねているらしく、同じ大学三年生でありながら歳は八個ほど上らしい。
らしい、という曖昧な表現を使うのは、山里さん本人から聞いたわけではないからだ。彼は留年をするほど講義に出席していないくせ、顔が広い。ものすごく広い。そのため山里エピソードとかいうよくわからない話が、噂やら七不思議やらとして実体化し、学内を闊歩している。加えて、山里さんは情報通だ。近隣スーパーの安売り情報に、面白い映画といった役立つ情報から教授の不倫といったどこで使うかわからない情報に及ぶまで、多種多様な情報を平気な顔で語る。さらに耳がはやい。
だから俺たちのことも、当然のように知っていた。学校には行っていないくせに。
「してないですよ。あと、ところてんってやめませんか?」
「いやだって、キミの下の名前の漢字、心に太いって書くでしょ? ところてんじゃん」
それは山里さんにだけではなく、何度も何度も言われた言葉だ。はぁっとため息を吐く。
「俺の名前は、シンタ、って読むんですけどね」
お決まりの返答をすれば、すでに山里さんは「いただきます」と手を合わせてケーキを食べ始めるところだった。
人の話なんて、聞いちゃいない。
二人がけのテーブルには所狭しとケーキが並べられている。否が応でも漂ってくる甘い匂いを誤魔化すように、コーヒーを啜った。
「そんで? ところてんちゃんが浮気したんじゃなければ、浮気された方?」
「なんで浮気オンリーなんですか……」
「男女が別れる理由なんて、ほとんどが浮気でしょ」
「いや、さすがに偏見でしょう」
「偏見? まさか、偏見じゃないよ。統計だよ、統計」
山里さんは経験したような口ぶりで言葉を吐く。そしてその口で、モンブランのトップに君臨していた栗を食べた。
「俺が普通の反応っていうか、彼氏の役割みたいなものを果たせなかったんですよ。多分、恋愛に向いてないんだと思います」
「ふーん、そっか。まあ、そういう人もいるよね」
カトラリーをくるくると行儀良く使い、ケーキの周りのフィルムを巻き取っていく。よく躾けられたような無駄のない動作。それは無精髭についた生クリームと、微妙に合っていなかった。
「興味なさそうですね」
「そういうわけじゃないよ。浮気とかギャンブルとか、クズっぽい理由なら茶化したいなと思ってただけ」
「明日には、俺がパチンカスだったとかいう噂が広がってそうですね」
「ガセネタじゃあ、広がらないよ。噂っていうのは、本当だから広まるんだからね。だから安心して。ところてんちゃんの身の潔白は証明されるよ。パチンカスでもなければ、浮気野郎でもないはずだからさ」
山里さんはチョコレートケーキを食べている最中もかかわらず、なぜかショートケーキの上に乗ったいちごにフォークをたてた。ぷすりと音が鳴る。その反動で果汁が飛んだのか、甘酸っぱい香りがあたりに散らばった。春の匂いだ、と思った。
「ところでさ、ところてんちゃんは、いちごって好き?」
突然の質問に驚く。どういう意図を以っての質問だろうと山里さんの顔を見るが、彼はいつもと同じように、にこにことしていた。
「まあ、はい」
「昔から好きなの?」
何の意味がある質問なんだろうかと思いつつ、首肯する。俺の返答を見た山里さんは、人好きする笑みを浮かべてからいちごを口の中に放った。そしてじっくりと味わってから、「オレはね」と話し始める。山里さんの一人称は、カフェ・オ・レの「オ・レ」の発音に近い。
「小さい頃、いちごはグミだと思ってたんだ。グミのひとつっていうかそんな感じな。果物の形してるグミ、あるだろ? 母親がショートケーキをつくるときに本物のいちごじゃなくて、あのグミを置くから、あれがいちごだと思ってたんだ」
山里さんは笑う。
「あり得ないって思っただろ? でも今の父親に引き取られるまでのオレにとってのいちごはグミで。それが普通だったんだ」
彼の実家が大地主だということは有名だ。山里さんと言えば、その話がいの一番に来るくらい。
複数の山や田んぼ、果てには川までもを所有しているのだとか。川はさすがに、国か都道府県などの行政管理のはずだから嘘だろうけど。だがそれは現在の話だ。彼の言葉を借りるなら、「今の父親に引き取られてから」というなんだと思う。それまでは、母ひとり子ひとりの生活を送っていたらしい。以前、山里さんの部屋で酒を飲んだときに「オレは妾の子だからね」と零したことがあった。正妻だの側室だのはNHKの朝ドラや大河ドラマの中でばかりの世界だろうと思っていたが、まだ現代にも生存していたようだ。
「お妾さんって、いるんですね」と言えば、「いるよいるよ。まあ、割と普通にいるんじゃないかな」と明るく言われた。聞いてみると、彼の父には、山里さんの産みの母親以外にも、お妾さんがいるようだった。
まかり間違っても、一般家庭出身の俺が知っている話ではなかった。山里さんの家は、かなり複雑な家庭環境らしい。彼が留年を繰り返しているのも、そこに理由があるのかもしれない。……いや、それはただの怠惰かもしれないが。
山里さんはてっぺんのいちごを失ったショートケーキを俺に渡してくる。「要らないです」と言えば「美味しいのに」と残念そうに言った。
「昔の俺にとってのいちごが本物のいちごじゃなかったみたいにさ、キミにとっての恋愛が普通の恋愛じゃなくても良いんじゃない?」
「……え、と、もしかして、俺、慰められてます? 山里さんに精一杯慰められてますか?」
「まあね。これでも精一杯に、慰めてるつもりだよ。だって、キミ、すごい落ち込んでるもん。キミとはそこそこの付き合いがあるけど、今日のへこみ方は過去一だよ」
そう指摘されて、俺は初めて気付いた。
俺はひどく落ち込んでいるのだと。
「別に、葉子にフラれたことはショックじゃなかったんですけどね……。なんとなく漠然と、いずれそうなるかなって思ってたんで」
「まあ、ところてんちゃんは、ちょっとドライな部分があるもんね。オレはそこが気に入ってるけどさ」
「だからなんかわからないんですよね」
「何がわからないの?」
「何がそんなにショックだったのか、っていうのが」
そう零すと、「んー」と生クリームを啜った山里さんはにやりと笑う。
「人間が一番へこむのは、自分でわかっていた核心を指摘されることなんじゃないの?」
「……そんなもんですか?」
「まあ、オレはいまさら留年生とか言われても傷つかないけどね」
「……それは核心じゃなくて、事実なんじゃないですか」
「似たようなものでしょ」
会話が途切れる。山里さんは机に広げていたケーキを一心不乱に食べ進めた。積み上がっていく皿を見ているだけで、胃が重くなりそうだ。すっかり氷の溶けた水を飲み、体内にありもしない甘味を中和する。その隙にも、ケーキたちは山里さんの胃の中に片づけられていった。
粗方のケーキを片付けたところで、山里さんが「あ」と声を漏らす。
「どうしたんです?」
「そういえばキミへの本題を忘れてたなって思って。伝えるためにキミを追ってカフェに入ったのにうっかりだね」と山里さんが言う。そういえばなぜ俺の居場所がわかったのかと思っていたが、どうやらストーキングされていたらしい。
学校には行かないのに、人をストーキングするのだから、変わった人だ。
「この間頼まれてたバイトの話を持ってきたんだ」
はい、これね、と差し出された茶封筒を受け取る。
「ありがとうございます」
「まあ、よーこちゃんと別れたなら必要ないかもしれないけど、お金は稼いどいて損はないと思うし。あるいは、オレと一緒に熱海とか行く? もちろん箱根でも良いけど」
三か月ほど前、葉子が「旅行に行きたい」と零した。それも温泉旅館が良い、と。誕生日のプレゼントもクリスマスプレゼントも要らないから、一緒に行ってほしい、と。そこまで願い乞われてしまえば、断る術がない。俺はふたり分の旅費を賄うため、バイトをしようと決めた。ひとり分ならともかく、ふたり分の、それも温泉旅館に泊まるための費用となれば、それなりにまとまった額が必要だ。とはいえバイトは日頃から、扶養範囲のぎりぎりまで詰めてしまっている。うっかり扶養を抜けてしまって家族に迷惑をかけたくない。だから現金支給で手っ取り早く稼げる仕事を知らないか、と山里さんに相談したばかりだった。
だが、その費用も今日になって必要なくなった。
「バイトはありがたいですけど、旅行はちょっと……。男ふたりで温泉に行ったところで、白熱するのは卓球の試合くらいですよ」
「なんか経験があるみたいな言い方だね」
「まあ、中学も高校も男子校だったので、修学旅行とかはだいたいそんな感じでしたよ。馬鹿みたいに騒いで、馬鹿みたいに先生に怒られるんですよ」
「面白そうだなぁ。やっぱり行こうよ、ふたりで温泉旅行。ふたりで卓球、やってみたいし」
「そんなに卓球がしたいなら、水曜一限の体育、はやくとった方が良いと思いますよ」
ほかの学生が基本的に一年生のときにとっている体育ですら、山里さんは落としている。体育なんて、いくつか開講されているものから好きな競技ができるものを選んで、出席すれば良いだけだ。高校までのように実技やらペーパーやらのテストがあるわけでもない。出席していれば簡単にとれる単位だ。
ちなみに必修単位であるため、それがとれない限り、彼は一生卒業できない。もちろんそんなことは百も承知のはずだが、山里さんは素知らぬふりをした。
茶封筒をひっくり返せば、からんと音を立ててプラスチック製のネームプレートが落ちる。「入間」と書かれたそれは、確かに俺の苗字だった。
「JRの駅からすぐのところのピンサロ。一か月限りだけど、マイナンバーカード提出も必要ないし、まあまあ稼げるよ」
「嬢、じゃないですよね?」
「裏方だよ。掃除とか、簡単な雑用ね。やりたいなら嬢に仕立てといてって言っとくよ。ところてんちゃん、かわいい顔してるし、無理ではないかもね」
「いや、裏方でお願いします……」
「オッケー。じゃあ、場所はここだから」
彼は財布から名刺サイズの紙を一枚差し出した。それはショップカードのようなものらしい。店名と簡易的な地図、そして走り書きされた店長の名前が並んでいる。店長は井上さんというらしい。
「ありがとうございます、何から何まで用意してもらって」
「かわいい後輩からの、たまの頼みだからね。ああ、でも嬢との恋愛だけはやめてね。ご法度だし、法外な罰金を取られるだろうから」
それは大丈夫ですよ、と脊髄で返事をしそうになったのを押し留め、「はい」と無難な返事をする。山里さんは俺が普通の恋愛ができないだけだと思っているらしいが、きっとそれは半分正解で半分間違いだ。
俺は普通の恋愛ができないわけではなく、恋愛ができないんだと思う。恋愛的に、誰かを好きになることができない。
ご法度を破ろうと思っても、破れるはずもない。心配はご無用だった。
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