忘却のあくび

呂望

忘却のあくび

 世界は、ある朝突然、奇妙な『あくび』の異変に襲われた。


 健太は、いつものように朝のコーヒーを淹れていた。ドリップの滴る音が静かなキッチンに響く。隣で、妻の由美がくしゃみと見紛うような、奇妙にねじれた『あくび』の音を立てた。その瞬間、健太は、世界の輪郭が微かに揺らいだような気がした。それは、古いフィルムが劣化したかのような、微細なノイズにも似た感覚だった。


 最初の異変は、誰もが笑い飛ばせるような些細なものだった。

「ねえ、健太。今日、何曜日だっけ?」

由美の声に、彼は答える。

「火曜日だよ。どうした?」

「あれ? そうだったかしら。なんか、ずっと水曜日の気分で……」

由美は首を傾げ、記憶の端を手でまさぐるような仕草をした。


 翌日、職場で同僚の山田が

「あれ、部長の名前、なんだっけ? ほら、いつも眉間に皺寄せているあの人」

と首を傾げた。皆は加齢によるものだろうと笑った。だが、その『あれ?』は感染症のように広がり始めた。

 喫茶店のウェイトレスが注文を忘れ、友人が約束の場所を間違え、テレビのコメンテーターが直前の発言を否定する。それは単なる不注意や老化では片付けられない、不穏な兆候だった。


 ニュース番組では、連日この奇妙な現象が報じられた。『集団ヒステリーか?』『新型ウイルスによる脳機能障害?』様々な憶測が飛び交ったが、決定的な原因は特定されないまま、現象は加速した。世界は、意識の網の目から微細な砂粒がするりと落ちていくような、緩やかな忘却に侵食され始めていた。

 やがて、その異変は『忘却のあくび症候群』と名付けられた。その名が示す通り、誰かが盛大にあくびをすると、その周囲にいる誰かの、あるいは複数の誰かの記憶から、ごく一部の、しかし確実に重要な情報が抜け落ちるのだ。それは、まるで砂漠の風が、足跡のほんの一部だけを消し去るかのようだった。あくびの音量や、その時の感情、空間の広さなどが影響すると言われたが、確かなメカニズムは未だ不明だった。


 「健太、私、あなたとどこで出会ったか、思い出せないの」

 ある夜、由美が涙目でそう告げた時、健太の心臓は凍りついた。二人の馴れ初めは、大学の学園祭での偶然の出会い。彼はその情景を鮮明に覚えていたが、由美の目には、その記憶のページが真っ白に塗りつぶされているようだった。彼女の瞳には戸惑いと、そして深い悲しみが宿っていた。健太は由美を抱きしめ、何度も

「大丈夫だよ」

と繰り返したが、その言葉は自分の不安を打ち消すためでもあった。


 会社では、さらに深刻な事態が起こった。健太が企画書を提出しようと部長室に入ると、部長は訝しげな顔で言った。

「君は……どちら様でしたかな?」

 健太は愕然とした。彼はこの部署で三年、部長の右腕として働いてきた。幾度となく徹夜を共にし、酒を酌み交わした仲だ。しかし、部長の視線は、まるでそこに存在しない透明な幽霊を見るようだった。健太は自分の名前を名乗り、過去の功績を必死に訴えたが、部長はただ困惑した表情で首を傾げるばかりだった。


 その日、健太の存在を忘れていたのは部長だけではなかった。営業部の同僚たち、経理の女性、受付の新人までが、彼を『見知らぬ男』として扱った。彼は文字通り、『存在しない人間』になってしまったのだ。デスクの上の私物だけが、彼の確かな存在を無言で主張していた。健太は自分の席に座り、スマートフォンを握りしめた。由美の顔写真だけが、彼の唯一の拠り所だった。

 彼は会社を早退し、茫然自失のまま帰路についた。自宅のドアを開けるまで、由美が自分を覚えているかどうかの恐怖に苛まれていた。幸い、由美は健太を覚えていた。しかし、彼の会社での出来事を話すと、彼女の顔には深い絶望が浮かんだ。健太は、自分が社会から切り離されたような感覚に陥り、夜中に何度も目を覚ました。


 社会はパニックに陥った。通勤電車の中では、人々があくびを必死に我慢する奇妙な光景が見られるようになった。口元を両手で覆い、目を固く閉じ、鼻孔を膨らませる者。あるいは、変顔をしてあくびを紛らわせようとする者。それは集団ヒステリーであり、同時に滑稽な演劇のようでもあった。

 学校では、教師が

「あくびが出そうになったら、すぐさま顔をしかめて!」

「口を開けずに鼻で呼吸!」

と生徒たちに指導し、職場では『あくび禁止条例』が設けられる企業も現れた。

 しかし、生理現象であるあくびを完全に抑制することは不可能だった。あくびをしてしまった者は、周囲から白い目で見られ、時には非難の対象となった。『あくび公害』という言葉が生まれ、あくびが原因で人間関係に亀裂が入ることも珍しくなかった。


 交通機関は混乱を極めた。運転手がルートを忘れ、管制官が指示を失念する。医療現場でも、患者の病歴や治療方針が途切れる事態が頻発し、多くの命が危険に晒された。政府は緊急対策本部を設置し、科学者たちは日夜研究を続けたが、忘却のあくび症候群の発生源もメカニズムも不明なままだった。宇宙線、未知のウイルス、地球の磁場変化、集合的無意識の揺らぎ……様々な仮説が提唱されたが、どれも決定打にはならなかった。


 そんなカオスの中で、救世主のように現れたのが『メモリアム』という記憶共有アプリだった。これは、自分の記憶をテキストや写真、動画で記録し、クラウド上に保存する。そして、大切な人や職場の同僚と記憶を共有することで、もし誰かの記憶から特定の情報が抜け落ちても、すぐに参照し、再構築できるという画期的なシステムだった。開発者は、自身の家族があくび症候群によって引き裂かれた経験から、このアプリを生み出したと言われた。


 「健太、これ見て。私たちが初めてデートしたカフェの写真。あなたが注文したのが、このキャラメルマキアートでしょ?」

 『メモリアム』の画面には、健太と由美がカフェで談笑する写真が鮮明に映し出されていた。由美はアプリを開き、画面いっぱいに広がる写真と、添えられた健太のコメントを指差した。彼女の記憶にはまだ隙間があったが、アプリがその隙間を埋める手助けをしてくれた。

 人々は熱狂的に『メモリアム』を使い始めた。それは単なる記録ツールではなく、人間関係の命綱となった。友人との会話、家族の誕生日、仕事のプロジェクト、自分の名前、住所、好きな食べ物……あらゆる情報がアプリに書き込まれ、共有された。まるで、個々人の意識が、巨大なデジタルネットワークへと溶け出していくかのようだった。


 『私の存在は、このアプリに依存している』と、健太は自嘲気味に思った。会社での存在消失以来、彼は『メモリアム』に自分の全ての情報を記録し、由美やごく親しい友人と共有していた。アプリがなければ、彼は社会的に存在できないという恐怖が常に付きまとっていた。

 しかし、そこには残酷な皮肉が潜んでいた。『メモリアム』というアプリの存在自体も、あくびによって人々の記憶から消え去る可能性があったのだ。


 ある日、健太がアプリを開こうとして、スマートフォンの画面を凝視した。アイコンが見当たらない。彼は一瞬、パニックに陥った。しかし、それはただのホーム画面の整理だった。だが、この一瞬の『あれ?』が、人々の心の奥底に不穏な影を落としていた。いつか、このアプリの存在そのものが、社会の共通認識から消え去る日が来るのではないか、と。サーバーダウンやハッキングによるデータ喪失の可能性も常に指摘され、人々は複数のバックアップを取り、アナログな手段での記録も怠らなかった。デジタルとアナログが混在する、奇妙な情報管理社会が構築されていった。


 記憶の不確実性は、個人のアイデンティティ、そして人間関係のあり方を根本から変えた。私たちは、自分自身を、他者との関係性の中で定義してきた。しかし、その関係性の基盤である『記憶』が揺らぐ時、私たちは何者なのか?


 健太は、由美が自分のことをどれだけ覚えているか、毎日恐る恐る確認するようになった。彼女は健太の顔は覚えていたが、二人の初めての旅行の記憶は曖昧になり、彼がプロポーズした時の言葉は完全に抜け落ちていた。

「思い出せないって、悲しいね」

由美はそう言って、健太の腕に顔を埋めた。

「でも、私が覚えていればいいんだ」

健太はそう答えたが、内心では深い不安を感じていた。もし、健太自身があくびをして、由美との大切な記憶を失ってしまったら? あるいは、由美が、健太の存在そのものを忘れてしまったら? かつて、愛は『永遠の誓い』だった。しかし今や、愛とは『毎日の再確認』であり、『共有された記録』の上に辛うじて成り立つ、危うい均衡となった。


 新しい恋愛の形も生まれた。カップルは出会ってすぐに『メモリアム』を交換し、互いのプロフィールや過去の出来事を共有する。結婚式では、誓いの言葉と共に、二人の歩みを記録した『メモリアム』の公開が必須となった。

 子供たちは、親が誰であるかをアプリで確認し、学校では日々の学習内容を記録し、教師と共有することが義務付けられた。歴史の授業は特に困難を極めた。過去の事実が、あくびによって無数に改変される可能性があったからだ。教師たちは、複数の記録を照合し、慎重に『共通の記憶』を構築しようと努めた。


 人々は、自分の存在を証明するために、常にメモを取り、アプリを更新し、他者に語りかけることをやめなかった。それはまるで、砂漠の砂に足跡を残そうとするかのような、途方もない努力だった。

 しかし、その努力自体が、新たな人間関係の形を築き上げていたのも事実だった。忘れられた記憶を補完し合うことで、むしろより深く、相手の存在を意識するようになった者もいた。記憶の欠損は、かえって人間関係の奥底に横たわる、形而上学的な繋がりを浮き彫りにした。


 あくび異変は、もはや『異変』ではなく、世界の新しい日常となった。人々は、記憶の不確実性を前提とした新しい社会システムを築き上げた。学校では、生徒たちが互いの名前を毎日確認し合い、職場では、同僚たちがプロジェクトの進捗を常に『メモリアム』で共有し合う。政治家は、自分の過去の公約をアプリで公開し、そのアプリが消えることを恐れて、国民は常にスクリーンショットを撮り続けた。それは、滑稽なほどに用心深く、しかし真剣な営みだった。


 健太は、今日も朝のコーヒーを淹れる。ドリップの滴る音が静かなキッチンに響く。由美は隣で、くしゃみと見紛うような、奇妙にねじれた『あくび』の音を立てた。健太は、反射的に口元を覆い、自分の記憶が揺らがないことを祈った。

「ねえ、健太。今日、何曜日だっけ?」

由美の声に、健太は微笑んで答える。

「火曜日だよ。どうした?」

「あれ? そうだったかしら。なんか、ずっと水曜日の気分で……」

 健太は、由美の記憶の隙間を埋めるべく、『メモリアム』を開き、今日の予定を読み上げてやった。それは、日々の営みであり、愛の形であり、そして『自分という存在の確からしさ』を巡る、終わりのない考察だった。

 奇妙で、ユーモラスで、どこか滑稽な、しかし紛れもなく深遠な新時代が、今もなお、あくびの彼方で続いていた。

 そして健太は、由美がいつか自分の存在そのものを忘れてしまったとしても、何度でも彼女に語りかけ、共に記憶を再構築していくことを心に誓うのだった。その果てしない営みこそが、この新しい世界における、究極の愛の形なのかもしれないと、彼は静かに思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

忘却のあくび 呂望 @_ROBO_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画