夫から逃れるために転生したのに、転生先の騎士団長が前世の夫にそっくりなんですが⁉︎
ぴーやま
Season.0 前世
0.逃走と最期
深夜のリビングは、いつもより広く、そして寒かった。
玲奈はテーブルに小さな紙片を置く。震える指で書いた文字はたったひとこと、「ごめんなさい」。本当は何度も書き直したかったけれど、長く留まれば気持ちが揺らいでしまうと思った。
玄関の扉をそっと開ける。夜気が肩を撫でると、張りつめていた胸の奥の鎖がわずかに緩んだように感じられた。
バッグひとつだけを抱え、階段を下りる。こんなに軽い荷物でいいのだろうか、と一瞬迷う。だが、思い返せばこの家で“自分のもの”と呼べるものなど、初めから少なかった。
マンションの出口に差し掛かったとき、背後で空気が揺れた気がして足が止まる。気のせいだ、と自分に言い聞かせ外へ踏み出した瞬間。
「玲奈。どこへ行くの?」
凍りつくような声が背中に落ちた。
振り返ると、そこに晴臣が立っていた。少し寝癖のついた髪、部屋着のままの姿。けれどその瞳はひどく静かで、泣き出しそうなほど優しい。
「こんな時間に……どうして僕に何も言わないの?」
「……ごめんなさい。でも、少しだけ離れたくて」
「離れたくて?」晴臣は首を傾げ、微笑む。「僕のこと、そんなに嫌いになった?」
その声には怒気はない。むしろ穏やかで、優しい。しかし、その優しさこそが玲奈を追いつめていた。
胸がひゅっと縮み、身体が勝手に後ずさる。
「待って。話をしよう。ね? 君が困ってるなら、僕はなんだって・・・」
その続きは聞かなかった。玲奈は反射的に駆け出していた。
理由なんて考えていない。ただ、逃げないといけない。今逃げなければ、きっともう一生逃げられなくなる。そんな直感だけが全身を突き動かした。
夜道を走る。スニーカーがアスファルトを叩く音がやけに響く。背後から足音は聞こえない。それでも、追われている気がしてならなかった。
角を曲がり、横断歩道へと飛び出す。
前方の光に気づいた時には、もう遅かった。
白いヘッドライトが広がり、景色がゆっくりと滲む。
時間が伸び縮みし、音が遠くへ押し流されていく。
その中で、玲奈はふと願ってしまった。
ーーどこか遠くへ帰りたい。
衝撃は、思っていたほど痛くなかった。
倒れゆく視界の端に、晴臣の姿が揺れながら近づいてくる。
聞こえるはずのない声が、やけに鮮明に響いた。
「玲奈……離れないって、言ったよね。なのにどうして……」
泣いている。こんなときでさえ、優しい声だった。
胸の奥で何かがそっとちぎれる。
ーーもう、戻りたくない。
その願いを最後に、玲奈の意識は静かに闇へ沈んでいった。
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