第3話

 手続きはトントン拍子に進み、その日の夕方にはアパートの鍵を受け取った。六畳一間の洋室。フローリングは清潔で、小さなユニットバスとミニキッチンが付いている。十年ぶりに得た「自分の居場所」だった。


「ふう……」


 結城は買ったばかりのシンプルなTシャツとジーンズに着替え、部屋の真ん中で深呼吸をした。亜空間収納から、さきほど手に入れたばかりのスマートフォンと、電器店で適当に買った新品の電子レンジ、そして電気ケトルを取り出す。家電製品は、とにかく「触れる」ことで理解しようという方針だった。


 まず、スマートフォンだ。これは異世界には存在しなかった、現代人の万能アイテム。


「とりあえず、これをどうにかしないと……」


 結城は、電源を入れたスマホをジッと見つめた。店員に教わった通りに指で画面を滑らせるが、どうにも操作がおぼつかない。文字入力のフリック入力など、まるで魔術の詠唱のように複雑だ。異世界では、剣を振るう方がよっぽど単純だった。


「設定……せってい、と」


 インターネット接続の手順を読み、Wi-Fiのパスワードを入力する段になって、結城は手が止まった。このアパートに備え付けのインターネットはない。自分で契約しなければならない。


「契約……? 電話で、やるのか?」


 電話機すら持っていない。結城は、スマホを握りしめたまま、その日の課題を悟った。


「現代社会では、まずインフラを整える必要がある」


 翌日。結城は家電量販店を再訪した。目的は、スマホ契約とインターネット回線。


 店員に、「自宅に光の回線を引きたい」と告げるも、当然のように「身分証」「銀行口座」「印鑑」そして「クレジット機能付きのカード」を要求される。


「くっ……この国は、どうしてこんなにも信用を重視するんだ」


 異世界では、その人物の強さや魔法の腕、あるいは純粋な人柄が信用だった。書類や物質で信用を縛るこの社会システムは、結城にとって最大の敵だった。


【未来視】を発動する。今、目の前の店員に金を積んで無理を通そうとすると、警察沙汰になる可能性が85%。


「あの、プリペイド式のWi-Fiルーターはありませんか? 契約が不要なやつで」


 結城は軌道修正した。店員は怪訝な顔をしながらも、月額料金を現金で支払う方式のルーターを紹介した。これで最低限のネット環境は確保できた。


 アパートに戻り、ルーターを設定し、やっとネットに接続できた結城。彼がまず検索したのは、「元勇者」「異世界」……ではない。


 検索窓に打ち込んだのは、「銀行口座 開設 身分証明書なし」。


 結果は当然ながら「不可」のオンパレード。


 次に彼は、「住民票」と「運転免許証」の取得方法を調べた。住民票は、アパートの契約書があればどうにかなるらしいが、そのためにまず区役所に行く必要がある。


「区役所……身なりを整えていくか」


 ふと、結城は自分のファッションセンスが異世界仕様に完全にアップデートされていることに気がついた。


 亜空間収納から取り出したのは、買ったばかりのTシャツ、ジーンズ、そして靴。これだけではあまりにもシンプルすぎる。異世界で着ていた、装飾過多なローブや鎧は、もはや社会的に致死量だ。


 そこで結城は、スマホを手に取り、Google検索に頼った。


 検索ワード:「20代 男性 服装 カジュアル」「デート コーデ」


 スマホ画面に映し出されたのは、細身のジャケット、清潔感のあるシャツ、そして洗練された小物を持った若者たちの写真。


「ふむ。この……襟付きのものを着るのが、現代のルールか」


 結城は画像から情報を読み取り、その日のうちにショッピングモールへと向かった。

 数時間後。アパートに戻ってきた結城は、全身を『現代風』に整えていた。


 しかし、そのセンスはどこかチグハグだった。シャツはボタンを最上部まできっちり閉めており、チノパンはアイロンが効きすぎて硬い。極めつけは、首元に巻いた赤と青のストライプ柄のマフラー。


「完璧だ。これで『社会的に成功した人間』に見えるはずだ」


 結城は満足げに頷いた。彼のファッションは、『現代社会のマニュアル通りに着こなそうとしたが、異世界人の美意識が邪魔をした』という、絶妙にズレた結果となっていた。


 そして、部屋で買ったばかりの電気ケトルを使おうとする。水を入れてスイッチを押す。数分後、ケトルが静かにカチッと音を立てて止まった。


 結城は首を傾げた。


「……? 爆発しないぞ」


 異世界のケトル(魔導具)は、必ず轟音と爆発寸前の蒸気を噴き出し、派手に湯を沸かすものだった。この静かに湯が沸くという現象は、彼にとって未知の文明だった。


「これが……科学技術か。恐ろしいほどに、静かだ」


 結城は、その静かな湯で、インスタントのコーンスープを啜りながら、これから始まる現代人への転生の道程が、魔王討伐よりも遥かに複雑で、静かに精神を削る戦いになることを、ぼんやりと予感していた。

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元勇者ですが何者にでもなれるようです 犬山テツヤ @inuyama0109

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