鈴の落ちる坂
かいだんにゃん
鈴の落ちる坂
第一章 噂と黒猫
その坂は、夕方になると急に暗くなる。
大学の裏手にある細い坂道は、正門から少し外れた場所にあった。東に開けているはずなのに、日が傾ると、そこだけ切り取られたように影が濃くなる。ビルの隙間のせいだ、と誰かが言っていたが、実際に立ってみると、それだけでは説明できない暗さだった。
遥香は、レコーダーを握りしめて坂を見上げた。卒論のテーマは「現代キャンパスにおける怪談の生成」。その一番の材料が、この坂にまつわる噂だ。
「三つあるんだよ、タブーが」
昼間、学食で先輩にそう教えられた。
一つ、坂の途中で眠ってはいけない。
一つ、夜、この坂の下から名前を呼ばれても振り向いてはいけない。
そしてもう一つ、“二人目の名前”を調べてはいけない。
「二人目って、誰の?」
そう訊ねたとき、先輩は曖昧に笑って話を切った。かわりに、「数年前に女子学生が一人、ゼミの旅行先で事故死しててさ」とだけ付け足した。
「その子、猫好きだったらしいよ。どの集合写真にも、だいたい黒猫抱いて写ってるんだって」
先輩はそう言って、トレーの上のコップを指で弾いた。氷の音が、食堂のざわめきに紛れて消える。
近くのテーブルでは、別のゼミの学生が、担当教員の理不尽な叱責の噂で盛り上がっていた。「あの子、泣いてたらしいよ」と誰かが言う。
耳に入ってきたその言葉に、遥香の胸の奥がちくりとする。
——前にも、似た場面を見たことがある。
——見ていながら、何も言わなかったことがある。
高校の教室で、黒板の前で震えていたクラスメイトの顔が、一瞬だけ脳裏をかすめた。あのとき、自分はノートに視線を落としたままだった。
今さら引き返せない、と自分に言い聞かせるように、遥香は坂を上がり始めた。足音が石段に吸い込まれていく。上りきる手前で、ふっと周囲の音が薄くなる場所がある。そこから先は、車の走行音だけが遠くで渦を巻いているように聞こえた。
その“音の切れ目”を越えたときだった。
先の踊り場で、黒いものが動いた。
艶のある黒い毛並み。低く沈んだ影の上で、丸い目だけがこちらを向く。腹のあたりにだけ、布を裏返したような白が覗いている。黒猫だった。
猫は、遥香を見つめたまま動かない。レコーダーの赤いランプだけが、彼女の手元で小さく瞬いた。
「……こんにちは」
自分でも、場違いな挨拶だと思う。猫は返事をしない。ただ、風もないのに、そのひげだけがかすかに震えた。
スマホを取り出し、写真を撮ろうと構えたその瞬間、猫は踵を返して、坂の脇の崖下へとふっと消えた。
カメラには何も映っていない。さっきまでいたはずの場所には、黒い毛の一本すら落ちていなかった。
坂を下りていくと、背後で先輩の言葉が思い出される。
「夜、あの坂で、自分の名前を呼ばれても振り向くなよ。そこにいるのは、人じゃない」
冗談めかしていた声の端に、笑いではないものがひっかかっていた気がする。
第二章 鈴のついた猫
「だったらさ、検証しようぜ」
ゼミ室で遥香が取材メモをまとめていると、向かいの席の佐伯が食いついた。悪戯を思いついた子どものような顔で、ノートパソコンをぱたんと閉じる。
「動画撮ろうよ。『大学怪談検証チャンネル』みたいなやつ。で、あの黒猫いるだろ? あいつに鈴つけるの」
「なんで、鈴?」
「だって、幽霊の通り道に必ず出るならさ、鈴の音がしたときにカメラ回してりゃ、なんか映るかも知れないじゃん」
雑な理屈だった。だが、「通り道を見える化する」という言葉に、フィールドワークをしている身としての好奇心がちくりと刺さる。
(本当に、何かが通っているなら……その痕跡を、音として記録できるかもしれない)
その夕方、二人は坂へ向かった。空はまだ明るいが、坂の上は既に薄青い影に沈みかけている。
坂の途中、いつものように黒猫が現れた。こちらを見上げる瞳は、夕焼けを映しているのに、どこか温度がない。
「よしよし、ちょっとだけな」
佐伯がポケットから赤い紐と小さな銀色の鈴を取り出す。近寄る彼に、猫は逃げる素振りを見せない。むしろ自分から一歩、足を踏み出す。
「……いいの?」
遥香が思わず呟く。猫の喉元に紐が回され、鈴が結ばれる。金属が爪に触れたとき、一瞬だけ空気の温度がすっと引いた。
「完成。ほら、かわいいじゃん」
佐伯が軽く抱きあげて地面に下ろすと、猫は一歩歩き出す。
ちりん。
澄んだ高い音が、坂の空気を切り裂いた。乾いたガラス玉を転がしたような音色だ。
ただの鈴の音のはずなのに、遥香の耳には、そこに誰かの息継ぎのような揺れが混じって聞こえる。
「じゃ、今夜から撮影開始だな」
佐伯は楽しげに笑う。遥香は頷きながらも、胸の奥の違和感が拭えない。
——これは、本当に“安全策”なのか。
——見なくていいものを、無理やりこちら側に引き寄せているだけではないか。
その夜、ゼミ棟の廊下で、最初の音がした。
誰もいないはずの時間。蛍光灯の白に照らされた床を、遥香はプリントを取りに一人で歩いていた。曲がり角を折れた瞬間、背後から、ちりん、と軽い音が追いかけてくる。
足を止める。音も止む。
そっと歩き出すと、今度は前方の暗がりで、ちりん、と鳴った。
そこには誰もいない。ただ、窓の外の闇だけが、薄い膜越しに揺れているように見えた。
さっきより、少し湿った響きになっている気がする。
第三章 通り道で眠る者
鈴の音は、それから毎晩のように現れた。
講義棟の階段を上がるとき。図書館の書架のあいだ。自販機の前。
必ず、誰もいない方向から小さく鳴り、音のする先を見れば、そこだけ空気が濃く沈んでいる。匂いも温度もないのに、肺の内側だけがひやりとする場所だった。
「録れた?」
ある朝、遥香は佐伯に訊いた。彼はやつれた顔で笑う。
「いやー、全然。音は入ってるんだけどさ、映像的には何も」
「もうやめたら?」
「ここまで来たら、一回くらいはガチなの撮りたいだろ」
ゼミ内では、坂の噂とは別に、担当教員の昔の武勇伝だの、あの先輩が告白してフラれただの、くだらない話題が飛び交っている。そのたびに、現実の生活と、鈴の音が鳴る空白のあいだに、きれいな亀裂が入っていく気がした。
その晩も、佐伯は一人で撮影に行った。遥香はレポートが終わらず、部屋に残った。
メッセージが途絶えたのは、日付が変わる少し前だった。
翌朝、キャンパスに出ると、噂はもう広がり始めていた。「誰それが坂の途中で倒れてたらしい」と。
遥香が保健室を訪ねると、ベッドの一つで佐伯が寝かされていた。額には冷えピタ。顔は真っ赤に火照っているのに、唇だけが青白い。
「徹夜明けで寝ちゃったみたいでね。あの坂のベンチでぐったりしてるのを、通りがかった子が見つけてくれたのよ」
保健師が簡単に説明する。遥香が名前を呼ぶと、佐伯はゆっくりとまぶたを開けた。
「……お前か」
「大丈夫? なにがあったの?」
佐伯はしばらく天井を見つめていた。やがて、絞るように言う。
「……見ちゃいけなかった」
それだけ告げて、また目を閉じた。
授業の合間に、遥香は坂に向かった。問題のベンチの前に立つ。
朝の光の中でも、そこだけ薄暗い。頭上を見上げると、両側の建物がせり出しているわけでもないのに、空の一部が影になっている。
ベンチの足元に、一筋だけ濡れ跡があった。触れると冷たくはない。むしろ、微かな体温が指に残る。
風は吹いているはずなのに、ここだけは空気が動かない。呼吸がうまくできず、胸のあたりに重さがかかる。耳の奥で、自分の心拍だけがやけに大きく反響する。
ふと、遥香の背後で、ちりん、と音がした。
反射的に振り返る。坂の上には、誰もいない。
ただ、手すりの向こう、崖下の遊歩道の影の中に、黒猫が一匹、じっとこちらを見上げていた。
腹の白い毛が、まるで誰かの顔のように見える位置だった。
鈴の音は、さっきよりも低く、濡れた骨が触れ合うような響きを帯びていた。
第四章 消された名前
佐伯は数日で熱が引いたが、「もう撮影はやめる」とだけ言って、鈴の話題を避けた。坂のベンチで何を見たのか、最後まで話そうとしない。
遥香は、むしろそこから先に進まざるを得なかった。
——ここで引き返せば、自分はまた“見て見ぬふりをした側”になる。
図書館で、数年前のゼミ論文と記念誌を探す。
事故死したと噂の女子学生について、直接の記述はほとんどない。それでも断片的に、同じゼミ名、同じ年度が浮かび上がる。
当時の写真をSNSで見つけた時、遥香は息を呑んだ。
集合写真の端。学生たちの足元に、腹だけ白い黒猫が写っている。そのすぐそばで、一人の女子学生がしゃがみ込み、猫の背を撫でていた。
ピースサインではなく、指先でそっと猫の耳をつまむようなポーズ。顔は半分横向きで、笑っているのかどうか判然としない。
キャプションには、ただ苗字だけがタグ付けされている。事故のことには触れられていない。
「……二人目、って」
怪談で聞いた「二人目の名前」という言葉が頭をよぎる。一人目は、事故死した女子学生。じゃあ、二人目とは誰なのか。誰の名前を調べるなと言っているのか。
その答えは、閉架書庫にあった。
薄暗い書庫の一角。背表紙がかすれて読めなくなったファイルが一冊、棚の隅に押し込まれている。指でなぞると、剥がれた文字の跡が、かろうじて形を保っていた。
——◯◯ゼミ 卒業論文集
——** **
擦り切れた四つの文字が、じわりと脳裏に浮かび上がる。そのフルネームを、遥香は読み取ってしまった。
同時に、書庫の奥で、ちりん、と鈴の音がした。
すぐ後ろ。棚ひとつ隔てた向こう側から。
振り返るわけにはいかない。ここで振り向けば、何かがそこに“固定される”予感があった。
息を殺したまま立ち尽くすと、視界の端に、黒い毛並みと白いものが滑り込んでくる。棚の隙間から覗くそれは、猫の腹にも、仰向けに倒れた顔にも見えた。白い縁のところで、細い指のようなものが、黒い毛の中に紛れ込んでいる。
(名前を……知ってしまった)
幽霊の名前を知ることが禁忌だというモチーフが、頭のどこかにあった。線がつながる、という言葉も。
だが同時に、遥香は思う。
——名前を消されたままのほうが、ずっと苦しいのではないか。
書庫を出ると、窓の外はすでに夕暮れだった。坂の上には、また黒猫の姿が見えた。
影の中で、その目だけが、何かを確かめるように光っている。
第五章 鈴の落ちる坂
その夜、鈴の音は、もう遠くからは聞こえなかった。
遥香の部屋の窓のすぐ外で、一度だけ、からん、と鳴って、すぐに消えた。金属を濡れた手で握りしめて揺らしたような、くぐもった音だった。
胸の奥で何かが決まったような感覚とともに、遥香はコートを掴み、外へ出た。
坂の入口まで来ると、すでに空気の質が違っていた。
湿度が増し、温度が一段下がる。街灯の光が、ここだけ届いていないかのようにぼやけている。コンクリートの匂いも土の匂いも薄れ、鼻腔に冷えた金属の匂いだけが残る。
坂を上り始めると、靴音が吸い込まれる。
途中の“音の切れ目”で、完全に外界の音が途絶えた。
代わりに、すぐ近くで呼吸の音がする。自分以外の、もう一人の。
「……いるんでしょう」
遥香がそう言うと、背後で鈴が鳴った。
ちりん。
今度は、頭の内側で直接鳴っているような音だった。
「遥香」
名前を呼ばれる。耳元で、柔らかく。しかし、聞き慣れない声だった。
振り向くな。
そう言ったのは誰だったか。先輩か。怪談を語った誰かか。
けれど、その忠告の向こうに、遥香は別の光景を思い出す。
黒板の前で震えていたクラスメイト。何も言えなかった自分。視線を、ノートの罫線に固定してやり過ごしたあの時間。
——知っていて、見なかった。
——名前を知っていたのに、口にしなかった。
同じことを、また繰り返すのか。
「……今度は、見てみる」
遥香は、小さく息を吸い、ゆっくりと振り向いた。
最初に映ったのは、黒猫だった。
坂の中ほど、空中に浮かぶようにして立っている。腹の白が、闇の中にぽっかりと開いた穴のようだ。
そのすぐ後ろに、白いものが揺れた。
顔、と呼んでいいのか分からない。
ただ、白い面がこちらを向き、その中央で二つの暗い穴が遥香を捉えている。目のようであり、空洞のようでもある。
「どうして……見たの?」
口は動いていない。
声だけが、遥香の耳元で直接鳴っている。少し遅れて、口元がゆっくりと開閉する。そのずれが、背筋を凍らせる。
「誰も、見てくれなかったのに」
黒猫が一歩前に出る。
白い面の影が、猫の腹に重なる。縁のあたりで、白く細い指が黒い毛の中に沈み込んでいる。守るようにも、同化しようとしているようにも見える位置だった。
足元になにかが触れた。
冷たくない。むしろ、人肌のような温度がじわりと染み込んでくる。
「私のこと、見たでしょう。名前も、知ってるでしょう」
遥香は喉を鳴らした。
返事をすれば、何かが決定される。
黙っていれば、ここから逃げられるかもしれない。
けれどそれは、また“見なかったことにする”選択だ。
「……見た。名前も、知ってる」
自分の声が、意外なほどはっきり聞こえた。
白い面が震えた。
それは、笑ったようにも、泣いたようにも見えた。
次の瞬間、鈴の音が弾けた。
ちりん——ちりん——
坂の上から下へ、下から上へ、複数の方向から一度に鳴り響く。
その音がぐるぐると渦を巻き、頭の中まで満たしていく。乾いていたはずの鈴の音が、やがて水の底から聞こえてくるような、遠い響きに変わっていく。
視界の端で、黒猫がぴたりと動きを止めた。
瞳だけが、遥香をじっと見ている。
助けを求めているのが自分なのか、あちらなのか、もう判別がつかない。
白い面が、遥香の視界を全面に覆った。
目と目が、完全に合う——。
世界が、ぱたり、と黒に落ちた。
最後に聞こえたのは、遠ざかる鈴の音だった。
それは、坂のどこかで何かが落ちていく音にも、誰かが静かに笑う音にも聞こえた。
遥香が目を覚ましたとき、視界には白い天井が広がっていた。
消毒液の匂い。保健室のベッドの軋み。
「気がついた?」
保健師が心配そうに覗き込む。「坂の途中で倒れてたのを、たまたま通りかかった子が見つけてくれてね。貧血かしら」
腕を見ると、手首の少し上に、紫色の痣が浮かんでいた。
誰かに強く掴まれたような形。指の本数まで分かるような跡だった。
その後、佐伯は何気なく言った。
「そういえばさ、ここ最近、鈴の音しなくなったよな」
遥香は曖昧に笑って頷いた。
——彼には、聞こえていないだけだ。
講義の最中、ノートをとるペンの音に紛れて、
図書館の静寂の中でページをめくる音に紛れて、
遥香には、時折はっきりと、ちりん、という音が聞こえる。
ある夕方、坂の上に黒猫が座っていた。
首輪も、鈴もついていない。
腹の白だけが、薄闇の中に浮かんでいる。
遥香が目を離した瞬間、坂の下のほうで、鈴の音がした。
ちりん。
振り向いても、そこには誰もいない。
ただ、耳の奥で、自分の名前を呼ぶ声がした気がした。
その夜、遥香はフィールドノートを開き、坂の見取り図の横に一行だけ書き足した。
——今日も、坂の影は早く落ちていた。
誰がそこを通ったのか、そのとき、どの名前が落ちていったのか。
レポートには書けないまま、それを知っているのは、あの黒猫と、自分だけだった。
鈴の落ちる坂 かいだんにゃん @k41d4nny4n
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