1-5 橋の上の男
春の日差しをキラキラと散らす川面。
これほどまで広くなるには、果てしない年月がかかっただろう。
土壌に吸いつくされなかった水が、逆に大地に筋を刻みつけてきた意地。
では、その上に架かるこの橋は、いつごろ完成したものか。
大河よりも後であることは間違いない。
川渡りを安全かつ容易にしたかった人々の意思……だけではなさそうだ。
凝った造形の欄干や、各部を飾る石像。
橋という機能を満たすだけなら、もっと単純に作れたはず。
石工が技巧を見せつけたかったのか、確固たる設計意図を持つ誰かがいたのか。
――――などという問いは、橋の上にいるエメリクにはどうでもいい話であった。
おそらく、彼を押し流そうとする雑踏にとっても同じことだ。
橋の細部を鑑賞するどころか、競うように足を運ぶばかり。
ただただエメリクの前を素通りし、彼から値踏みする視線を向けられたことにさえ、気づく素振りもない。
つまり――――
(チャンスだ)
エメリクは背を丸め、やぶにらみの目で獲物をあぶり出す。
老いた男、太った女、いいや――――
(あいつにしよう)
欄干を手で撫でつつ歩く、クシャクシャとした赤毛の細身な男。
川なんか眺めてタバコを吸ってるヤツは金持ちに違いない。わざわざ、こんな時に。
エメリクは通行人にまぎれこんだ。
男の死角へと回り、なにげない足取りで背後に忍び寄る。
彼は大河に顔を向けたまま。
エメリクは口の端を上げた。
そしてチェック柄のズボン、尻ポケットに手を伸ばす。
(ほら)
指先に触れる、角ばった革の感触――――財布、しかも詰まってる。
次の瞬間、エメリクは手首をつかまれていた。
足から重みが消え、背中に強い衝撃が走る。
青空一色の視界に、男のシルエットが割りこんだ。
「悪ぃ。水浴びさせてやりゃあ良かったな」
男がイヤミを言ったと気付くまで数秒を要した。
きっとススと垢に汚れた顔を嗤われたのだろう。
だが、どうでもいい。
口を開けても声が出ない。息も吸えない。
地面にのたうつエメリクの顔を、男はからかうようにタバコで燻す。
「向いてねぇよ。バレバレだ」
「うる、さい」
エメリクは上体を起こし、憎々しげに絞り出す。
周囲も何の騒ぎか気づいたのだろう。
カマキリに捕まったバッタへ向けるような視線が一瞬だけ彼に留まり、そして通り過ぎていく。
立ち止まる物好きなどいない。わざわざ、こんな時に。
と、男はニヤリとした笑みを浮かべた。ヤニで黄ばんだ犬歯が鋭い。
彼はチェック柄のポケットに手を突っこむと、見せびらかすように自身の財布を引き抜いた。
厚みあるそれでエメリクの頬をペシペシと叩きながら、さも嘆かわしそうにため息をつく。
「お前さんも隣国にやられたクチだろ。カルマンダの野郎どもが家も金も――――あぁ、家族もか」
「……」
披露された予想を聞きつつ、エメリクは鼻にしわを寄せる。
……ことごとく当たっているのが癪だ。
だが男の調子は変わらない。
「仕返しするチャンスだぜ? ヤツらはもう近くまで来てる。すぐそこの街まで迫ってるって話だ」
「知ってる」
「だったらなんで戦わねぇ。こんなチンケな財布狙って、八つ当たりかよ」
「ちが――――」
「違わないね。本当の敵にゃ勝てねぇって思って、弱そうなカモ探してるだけだ」
「うるさいっ!」
弾けるように立ち上がったエメリクがジャケットをはたく。
息を止めたくなるほどの埃が舞う……以外、意味はない。
どんな生地がわからないくらい汚れているのは元々だ。
「でもよ、このジャンド様を狙うってぇのは――――やっぱ向いてねぇぜ?」
ジャンドと名乗った男は軽薄な笑みを消し、冷ややかな色を目に宿す。
そのスキのなさ、その身のこなし。
彼が自負する通り、スリの獲物とするには危険すぎた。たしかに失敗だ。
でも――――
聞き捨てならない。
エメリクは男を睨みつけ、噛み締めた歯の間からうなる。
「実際そうだろ。勝てるわけがない」
この国は何度、貪欲な隣国に苦渋を飲まされてきたのだろう。
――――学がないからわからない。
だが、これだけは言える。
戦いのたびにテッサルトは領土を減らし、住む家を失う者が続出したのだ。
自分だってその一人。
(なのに今さら)
……勝てると思っているのだろうか?
エメリクは、豪奢な欄干に背を預けるジャンドの表情をうかがう。
まるで、この橋は俺の物とでも言っているかのような顔である。
「まあ、燻るのはお前さんの勝手だがよ。スリなんざぁ止めとけ」
「じゃあどうしろって言うんだ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
うまくやってきたんだ。これまでは。
たまたま今日、ヘマしただけで。
(でも)
そんなことは言い訳、逃げているにすぎない……と?
では本気でカルマンダと戦うのか? 勝てるつもりか?
エメリクは急に、見ず知らずの場所に来たような気になった。
一方ジャンドは彼の前で、さも美味そうに天に向かって煙を吐く。
明らかに場違いな余裕に思える。
だがエメリクは息を止め、見届けるしかなかった。
ジャンドはぞんぶんに時間をかけたのち、告げる。
「男だったらな、ひとヤマ当てろ」
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