新しい制服の日

蓮田蓮

新しい制服の日

【新制服貸与日】

 ロッカー室の蛍光灯が、金属の扉に淡い光を反射していた。朝の点呼を終えたあと、制服の貸与を受けるために列が出来ている。

 今回、制服のデザインが変わったため、受取期間を設けて出社して来た人達が順番に受け取っていた。

 一番の変更箇所は、今までの黒に近い濃灰色から、黒に近い濃紺色。来年度の1日から、この新しい制服を着て乗務する事になっている。


「いよいよ新しいやつか」

 隣のロッカーの同僚・山梨が、畳まれたシャツの袋を手に笑った。

ワイシャツは形状記憶になり、アイロンがけがいらなくなったという。

「助かるよな。うちのも忙しくて、まとめてクリーニングに出してるんだ」

 山梨は結婚して二年目。家のことは分担制らしい。披露宴の時に、共働きだから家事は分担になる予定です!と嫁さんが宣言していて、参列した人達が笑っていた。

「形状記憶なら、もう『シワになってる!』って怒られずに済む」

山梨が冗談めかして言いながらも、どこか嬉しそうだった。


 ロッカーの中では、古い制服と新しい制服が並んでいる。濃灰色の色合いが、経年でわずかに違って見えた。袖口のわずかなテカリや、生地の柔らかさに、乗務の日々の時間が染みついているようだった。

「古いやつ、1日以降すぐ返すのかな?」

汐海がそう聞くと、山梨は首を振った。

「変更から半年間は回収期間あるってさ。勝手に捨てるのはダメなんだって」貸与品だから当然のことだ。

 汐海たちが入社する前に一度、制服が変更になっていた。あの時も一斉に制服が変わり、古い制服は回収期間を設けて全て会社が引き取っていた。だが、その時に少々問題が起こった。

 昔の先輩たちは“思い出”を手放せずに困っていた。女々しいと言われるかもしれないが、苦楽を共にした思い入れもあるし、早々割り切れない感情を持つ者もいた。

 それに、中には古い制服を売ってしまった人もいたらしい。

「オークションサイトに出てたって、話題になっていたと安曇さんが言ってたな」と汐海が遠い目をすると、山梨が苦笑する。

「会社も対策してるみたいだな。貸与番号で管理とか」二人は笑い合った。

 全ての制服の上着とズボン、シャツ、帽子のタグに番号が振られている。破損した場合にも申請していたから、現在、何枚制服を所持しているのか、しっかり管理されている。それは新しい制服も変わらない。本社の管理部署の手間も大変だが、悪用を避けるための気合の入り方が本気過ぎだ。

「まあ、マニアの人には宝物なんだろうな」汐海はそう言いながら、古い上着をハンガーから外した。

 新しい制服は、肩のラインが少し変わり、ポケットの位置もわずかに上がっている。生地の匂いは新品特有の硬さがあり、袖を通すとまだ馴染まない感触がするだろう。それでも、胸のエンブレムだけは以前と同じだった。

 着替えを済ませて鏡の前に立つ。胸のエンブレムを眺めながら、そこだけは、会社の“歴史”が途切れずに続いているように思えた。

「その制服を着るのも後3か月だな」

「新しい制服が、まだピシッとしすぎてるから、馴染むまで時間がかかりそうだ」そう言って笑い合う。

古い制服は、数えきれない放送と、何千回ものドア扱いを共にした相棒だった。

 汐海はロッカーの扉を静かに閉めた。古い制服を着た自分が、少しだけ背筋を伸ばしたように感じる。

これからまた、いつもの時間が始まる。


【古い制服の夜】

 夜の詰所は、終電を終えた後の静けさに包まれていた。窓の外には誰もいないホームが伸び、照明の白がガラスに映っている。壁掛け時計の秒針が、律儀に時を刻んでいた。

 汐海は、古い制服を畳んだ袋をロッカーの上からそっと降ろした。明日には回収箱に入れる予定だった。しかし、最後にもう一度だけ、袖に触れておきたかった。

 生地は少し柔らかくなり、手触りも穏やかだ。襟の裏には、数えきれないほどの汗と、雨の日の湿気と、冬の冷気が染み込んでいる気がした。


 ドアの開く音とともに、山梨が控室に入って来た。デカフェの缶コーヒーを二本持っている。

「まだ起きてたんだ?さっき移動したと思っていたよ」

「ちょっとな。これ、明日出そうと思って」

 汐海が手に持つ袋を見て、山梨は「もう返すんだな」と言いながら缶を差し出した。二人は長椅子に腰を下ろした。

 蛍光灯の光が明るい部屋を照らしていた。

「なんか、変な話だけどさ」汐海は指先で袋の端をなぞりながら言った。

「この制服、見習いの頃から一緒だったんだよ。初めて指導車掌に付いて乗った日も、初めてお客様に怒られた日も、いつもこれを着ていた」

山梨は少し笑って、「相棒、だよな」と言った。

「そうかもしれないな」

缶を軽く鳴らして、一口飲む。微かに苦味が残る。

「この前、テレビの収録の時、照明が暑くて汗だくだったんだよ。それでも放送が終わって控室に戻ってきたら、この制服の襟の匂いが落ち着いたんで『ああ、現場に戻って来たな』って。ちょっとほっとしてた。変だよな」

「いや、それ分かるよ」山梨は頷いた。

「うちの嫁がよく言うんだよ。人って“仕事の服”の匂いが、その人らしさになるって」

 二人の間に、静かな間が落ちる。

 窓の外で、遠くの線路を保線車がゆっくり通り過ぎていった。その音が、まるで古い時代の列車の響きのように思えた。

 汐海は、もう一度袋の中を見た。

濃灰色の上着のポケットに、古びた硬券の切符が一枚入っている。多分、乗客からもらった記念のものだろう。

「…これだけは、取っておこうかな」そう言って、そっとポケットから抜き取った。

山梨が小さく笑った。

「会社には清算も報告も全部終わってるんだろう?」

「報告まで全部終わってる」

二人の笑い声が、夜の詰所に淡く溶けていった。

「俺はそろそろ移動するよ」と山梨が言った。

「ああ、お疲れ様。コーヒーありがとう」

「どういたしまして」


 制服が変わっても、線路の音は同じ。袖口の布が新しくなっても、マイクを握る手の動きは変わらない。

汐海は、袋を静かに閉じて立ち上がった。

帰り際、ロッカーの扉に指をかけて、軽く叩いた。

「お疲れ様」

誰に言うでもなく、つぶやいたその声が、金属の中で柔らかく反響した。


【新制服での初乗務の朝】

 まだ空の色が白む前、駅の構内に冷たい空気が流れていた。

始発前のホームには、放送の音も人の気配もなく、ただ遠くの換気音だけが響いている。

 自分のロッカーを開けると、袋から出して、着られるように準備して吊るしておいた新しい制服が、蛍光灯の光を受けて静かに佇んでいた。少し緊張したように見えるのは、自分の気のせいだろうか。

 上着を手に取り袖を通す。

生地はまだ硬く、肩の縫い目に少しの違和感がある。それでも、鏡に映る自分の姿を見て、背筋が自然と伸びた。

「…よし」小さく息を整える。

 ロッカー室に山梨が顔を出した。下り線の始発に乗車するので既に制服を着ていた。

「新しいやつだな、似合っているよ」

「そっちもな。やっぱりまだ新品の匂いがする」

「しばらくは、この匂いが続くんだな」山梨が黒い鞄をロッカーから出すと、笑って出て行く。

 汐海はその背中を見送り、ネクタイをきゅっと締め直した。

黒い鞄とタブレットを持ちロッカー室を出ると、構内の照明が少しずつ明るさを増している。

 運転士達が点呼を受け、出発準備に向かう足音が響く。制服の生地が擦れる音が、妙に新鮮に感じられた。廊下を歩くたびに、背中の布がわずかに鳴る。古い制服ではもう聞こえなかった音だ。

 その小さな音が、まるで新しい一日の合図のように聞こえた。


 車両基地に並ぶ電車の列。

朝霧の中にライトが点き、車体の銀色が薄明に浮かび上がる。汐海はドアの鍵を差し込み、乗務員室の扉を開けた。

 冷たい空気が乗務員室に流れ込む。

放送マイクを手に取る。この感触は変わらない。何度も握ってきたその重みが、少しだけ安心をくれる。

「おはようございます。本日もご乗車ありがとうございます。まもなく、発車いたします」

 マイクに乗る自分の声が、車内に静かに響いた。制服が変わっても、声は同じ。でもその声を包む空気が、ほんの少し澄んで聞こえる気がした。


 ドアを閉め、ホームをゆっくり見渡す。

「乗降よし、発車!」

夜明け前の光が、ホームの端に差し込み始める。

汐海は深く息を吸い込んだ。生地の新しい匂いと、油と鉄の混ざった匂いが胸に満ちる。

——また、ここから始まる。


 列車が動き出す。

新しい制服の袖口が、朝の光を受けて、わずかに光った。


【初乗務を終えて帰庫する夕方】

 夕方のホームに、低い太陽の光が差し込んでいた。朝とは違う柔らかい橙色の光が、車体の側面をゆっくりと滑っていく。

 新しい制服の袖も、その光を受けて少しだけ温かく見えた。本日の乗務を終え車内を一通り点検し、汐海は列車が回送線に入るのを見送った。いつも通りの動作。

 発車ベルも鳴らない静かなホーム。けれど、今日だけは少しだけ慎重だった。

——新しい制服で迎えた一日。

 午前中は少しぎこちなかった。ポケットの位置も、袖口の硬さも、まだ身体に馴染んでいない。だが、不思議なもので、昼を過ぎた頃にはそれが気にならなくなっていた。制服が自分に合わせて呼吸を始めたように感じた。


 ロッカー室へ向かうと、すでに数人の同僚が制服の襟を緩めながら笑い合っていた。ロッカーのあたりに、いつもの生活の匂いが戻っている。

 山梨がこちらに気づいて手を上げた。

「お疲れ様!どうだった?制服一日目」

「まあ、思ったより落ち着いていたよ」

「なんか“新しい自分”って感じだったよな~」同僚が、からかうように笑う声に、汐海も苦笑した。

 ロッカーの前に立ち上着を脱ぐ。肩から袖へ指を滑らせると、朝よりも少し柔らかくなっているのが分かった。わずかに体温を覚えたその生地に、今日一日の時間が染みこんでいる。

――制服って、結局“布”なんだけど。

 袖を通す人間の呼吸や、声や、動作の積み重ねが、少しずつそれを“自分のもの”に変えていく。それを知っているからこそ、この仕事が好きなのかもしれない。


 古い制服を思い出す。

もうロッカーにはない。けれど、自分の中にある記憶の層は確かに続いている。それは、車掌として積み上げてきた年数の証でもあった。

 帰り支度を終え、駅のホームに向かうと夕暮れの風が頬を撫でた。

 発車メロディが鳴る。

空は群青に染まり、ホームの照明が一つずつ灯り始める。

汐海はしばらく立ち止まり、線路の向こうを眺めた。

私服のポケットに手を入れると、硬券の小さな切符が指先に触れた。先日、古い制服から取り出した一枚だ。

「……また、明日もよろしくな」

小さくつぶやいて、ポケットを軽く叩いた。

線路の先で、出庫する列車のライトがひとつ光った。


おわり

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新しい制服の日 蓮田蓮 @hasudaren

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