熊を撃つ
平山文人
第1話 熊を撃つ
電話を切った後、野島三郎はしかめっ面でくすんだ白色のコードレスフォンの液晶画面を見つめていた。やがて座っていた食卓から立ち上がり、充電器に戻した。庭に面する掃き出し窓から射してくる午後の穏やかな光が三郎の白髪まじりの頭を包む。隣の和室から妻の洋子が顔を出す。
「あなた、どこからですの」
「ああ……市役所からだよ。まったく、困ったお願いをされた」
「市役所から? どんなお願い?」
「熊の駆除の手伝いをしてくれないか、だとよ。猟銃免許を持っている人間に片っ端から依頼してる、みたいな感じだったな」
「ああ……そういえば物置の奥にありますね。最近、熊が出没するニュース増えてますけど……兵庫県も?」
「うちでの報道は見ないけどな。でも、出たらしい、参田にも。ウッディアタウンの駅近辺だそうだ」
「そうなの。それで、どうしますの? あなたまともに猟銃撃ったのって何年前ですか」
「うー、分からん。もう十年以上か、もっと撃ってないわ、免許更新の時以外は。義理で持ってるだけだからな」
三郎は居間の灰色のソファに腰を下ろしながら首を捻った。足元には三毛猫のみそらが伸びて横になっている。
「熊退治なんか断ったほうがいいですよ。報酬も安いんでしょう」
「殺害したか、捕獲したか問わず一日3万円だそうだ。命を張る割には安いわなあ。いや、断るよ」
そう、と洋子は安心したように返事して、隣室に洗濯物を畳みに戻っていった。みそらがウニャンという声を上げながら三郎の膝に乗ってくる。後少ししたら白ネギに水撒きに行かないといけない。もうすぐ収穫の時期だ。毎日の農作業の中で、猪や鹿は見かけたことは幾らでもあるが、熊は意識してこなかったな、と三毛猫の頭を撫でながら思った。参田市は山林や田畑の多い、典型的な田舎町ではあるのだが、近年は大型開発や工場誘致などで、かなり都会化しているので、熊が出没するのはほとんど考えられない。
しかし、最近のテレビニュースなどを見ていると、熊はもう学校やらファッションモールやら、酷いと幼稚園の中にまで入ってきている。完全に人間の生活圏に侵入しているので、危険極まりない。これがもし可愛い孫娘2人の幼稚園だったら、と思うと身の毛がよだつ思いがした。……一応確認しておくか。三郎はよいしょ、とかけ声をあげて、みそらをソファに置いて、ニャウニャーという鳴き声を背にして庭にある大きな物置へ向かった。
薄暗い物置の一番奥のガンロッカーの中にレミントンM870ウイングマスターは眠っていた。鍵を差し込み、扉を開けた時に埃が舞ったので三郎はむせてしまった。仕方ないか、この封印を解くのは2年ぶり、この前に免許申請の時以来だからな。猟銃を包んでいる布を取ると、見覚えのある黒い鉄棒が出てきた。ウイングマスターは持ち手の木目が美しいんだよな。彼は物置を出て日光のもとでしげしげと両手で猟銃を平行に持ちその姿を眺めた。が、これを構えて撃とうという意志は全く湧かない。
もう亡くなった父親が自衛意識の強い人間で、農家は猟銃を持っておかねばならん、という信念を持っていて、息子である三郎にも遺言状で必ず猟銃で家族を守る事、と残したものだから、三郎は渋々それを守って、律儀に3年に1度警察署に赴いて猟銃保持資格を更新しているというわけだ。引き金を人差し指で押さえると、重い。全くメンテをしていないのだから当然か。どうせまた来年は更新だから、最低限発射出来る状態にはしておかねばならない。いい事を思い出させてくれた、と、とらえるか。三郎はガンロッカーから工具やスプレーを取り出して、ウイングマスターのメンテを始めることにした。ほとんど雲のない秋空は青く澄んで、その中を四十雀が軽やかに飛んでいた。
白ネギの畑に水やりを終えて、三郎は鴉の鳴き声が聞こえてくる暮れなずむ農道を歩く。膝がまたちょっと痛いな、と思いながら石ころを蹴って家路を歩きながら、ふと畑の向こう側に広がる雑木林を見る。やや冷たい風に乗って、獣の咆哮のようなものが聞こえた気がしたからだ。チェッ、気のせいだよ。三郎は鼻をこすり、微かな泥の匂いに、何かしら自然の尊厳のようなものを感じて、背筋が張った。……最後に猟銃を撃ったのはもう十数年も前で、はっきりいつとは思い出せないが、確か鹿が4匹ぐらい来て、うちのネギ畑を荒していた時だったか。大声を上げたぐらいでは何も応えないので、スコップを振り回したが、いなくなってもまた戻ってくる。味を占めたのか、と腹が立った三郎は走って家まで戻り、レミントンM870ウイングマスターに1発だけ弾を込めて戻ってきた。相変わらず白ネギを食べているので、三郎はこらあっと叫んだあと、空に向かって猟銃を撃った。ズドォオォと轟音が辺りに響き渡り、鹿たちは大慌てで逃げていった──。
殺さなくてよかった。殺していいのは食べる時、生かしてもらう時だけだ。少しだけ微笑む彼の顔を、やって来た夜にあわせて点灯した街頭が仄かに照らしていた。
だいぶ傷が入っている年季の入った木製の食卓に、洋子が作った夕ご飯が並んでいる。三郎は熱い味噌汁が大好物で、特にあさり貝が入っていると満足で、三日に一度は野島家の台所の流しではボールに入ったあさり貝が砂をはいているのだった。三郎が悦に入った顔であさり入りの味噌汁を飲んでいると、洋子がお茶碗を持ちながらこういう。
「さっき綾子から連絡があってね、また来週の日曜日、麻衣とひかりが王地動物園に連れて行ってほしいって言ってるんだって」
「またか、2ヶ月ぐらい前に行ったばかりだろう」
とは言うものの、既に三郎の相好は崩れている。孫娘の麻衣とひかりは双子で、今5歳なのだが、祖父と祖母に大変懐いており、折に触れ2人は元気いっぱいの孫2人をあちこちに連れて行くのだが、その中でも動物園は双子の大のお気に入りで、もう何回連れて行ったか分からないほどだ。
「あれだ、ゾウが見たいんだろう。マッキーとズーゼが大好きだものな」
「ええ、そうでしょうね。ゾウ舎の前から離れませんもんね。どう返事します?」
了解した、また家までおんぼろのハイエースで迎えに行くと言っておいてくれ、と三郎は告げた。洋子は分かりました、と言って食事を続ける。すぐそばでみそらが文字通りのねこまんま、ごはんに味噌汁やイワシを混ぜたものを一生懸命食べている。夜は静かに更けてゆき、そびえる山も広がる森も穏やかに眠りについてゆく。誰かが散歩している犬の吠える声が遠くから聞こえてきた。
「いた! ズーゼちゃん!」
三郎が肩車した麻衣が朗らかな声を上げた。秋晴れの日曜日の午後の王地動物園は家族連れでごった返して、人気のあるゾウの放飼場の前には人だかりが出来ていて、まだ5歳の双子の身長ではお目当てのアジアゾウが見えない。そこで、三郎が麻衣をひょいっと肩車したのだ。その横で、洋子と手をつないでいるひかりが、ずるい、私も、とねだっているが、流石に65歳の洋子に肩車は無理だった。三郎はやさしく言った。
「ひかり、待ちなさい。少ししたら麻衣と交代するから」
麻衣は手に持ったデジタルカメラのシャッターをせっせと押している。この動物園のアジアゾウのズーゼは、愛想がいいのか、時々お客さんに向けて長い鼻を上げてくれたりするのだが、今は一心不乱に青草を食べている。隣にいる妙齢の女性がズーゼちゃーん、と呼んだ。その声に反応して、大きな体をこちらにむけ、少しだけ鼻を上げた。それに麻衣が反応して大きく手を振った。ひかりは我慢の限界だという風に足を地団駄しはじめる。そこで三郎は麻衣を降ろして、代わりにひかりの足に顔を入れて、よっと立ち上がる。まだまだ軽いので大丈夫だが、一体何歳まで肩車出来るだろうか、と彼は少し痛い膝を撫でながら考えた。ひかりも甲高い声でズーゼちゃん、お鼻振って、と呼んでいる。それに反応して、やや面倒くさそうにズーゼが鼻をあげる。ひかりは大喜びだ。隣にいる麻衣は洋子と一緒に撮ったばかりの画像をチェックしている。
「うまく撮れてる! こっち見て笑ってるみたいな感じ」
「そうね、ズーゼちゃん笑顔に見えるね」
どこで見たか忘れたが、子どもが好きな動物園の動物はキリン、ライオン、そしてゾウだそうだが、麻衣とひかりは本当にゾウが好きだな、と三郎はしみじみと思った。ユーモラスな大きな体がいいのだろうか。それとも鼻が長いところだろうか。三郎がひかりにまだ見るの? と尋ねると、うんと返事が返ってくる。ふと気づくと、麻衣と洋子が上手く人垣の隙間に潜り込んで最前列にいるのに気づいた。ふう、これならひかりだけ肩車していればいいか。しかし、だんだん疲れてきた。よし、あの手を使うか。
「ひかり、そろそろ一旦離れてソフトクリームを食べに行こうか」
「ソフトクリーム! うん、食べたい」
何も言わないと永遠にゾウを見る双子を離れさせる秘奥義がこれなのだ。麻衣と洋子にも声をかけて、一旦ゾウの放飼場を離れ、ひかりを下ろし、手をつないで飲食店が並ぶエリアへと4人は歩く。今頃綾子は洋平さんと2人羽を伸ばしているだろうな、と三郎は想像した。初めての出産で無事元気な双子を産んだ綾子だったが、当然ながら2人なのでお世話も2人分、通常の2倍である。洋子は農作業の隙間を見つけては愛娘の子育てを手伝いに行き、三郎は慣れない自炊をしてべちょべちょのご飯を炊いたりしたものだ。こうして双子を動物園に連れてきたりするのも、綾子にリフレッシュしてほしいとの親心なのだった。
「おいしい、ここのソフトクリームは本当においしい」
とひかりが白い口紅をつけながら言う。わたし、王次動物園大好き、と麻衣も続ける。孫のそんな無邪気さを見て、三郎は心の底から愛らしいと思った。子供より孫が可愛いのはなぜだろうな、と一人考えていると、何かが吠える声が聞こえた。売店前のテラスのテーブルに4人は座っていたが、後ろから聞こえた声に三郎は思わず振り返った。どうやら向こうにあるクマの放飼場から聞こえたようだ。
「ちょっと俺は離れるよ、すぐ戻ってくる」
3人に声をかけ、立ち上がって通路を横切って、熊舎の中に入った。見物客はまばらで、ゾウと大違いだ。ガラス越しに見える広めの放飼場の中に、ツキノワグマが1頭いて、のんびりと歩き回っている。その動きはどちらかというとユーモラスに見えて、怖さなど全く感じはしない。……なぜ人里に降りてきて人を襲うようになったのか。彼は後ろにある長椅子に腰かけて、腕組みをして熱心にツキノワグマを見つめる。熊は雑食だが、主食はドングリや筍のような木の実で、動物の死肉も食するが、基本的に捕食動物ではない。単に人間を敵と見なして攻撃しているだけなのか。しかし、ニュースでは人を殺して人肉を食べているという話だった。よほど飢えていたのか、今年の森林はドングリなどが凶作なのだろうか……三郎の思案は尽きない。
「お爺ちゃんクマを見てるの」
気づけば、3人も熊舎に来ていた。不意を突かれた三郎は驚いて、あ、ああ、とだけ返事した。
「クマさん怖い。人を襲うんでしょう」
麻衣が眉をひそめながらいって、三郎の横に座る。
「どうしてそんな事知っているんだい。テレビで見たの?」
と三郎が問うと、その横に座った、同じ顔のひかりが
「そう。人の顔をざっくりえぐってたの。怖かった」
というので、三郎は改めてまじまじと放飼場を歩くツキノワグマの前足を見た。何を言うべきか迷ったが、分からなかったので、そうだね、でもここの熊はそんな事しないよ、とだけ返事した。双子は口を揃えて、ふうん、と言った後、またゾウを見に行こうよ、と言って立ち上がった。はいはい、と三郎も立ち上がる。俺の体よ、肩車に耐えてくれ、と思いながら。
翌日の夕方、白ネギの収穫の準備を終え、しくしく痛む膝を引きずりながら夕陽に照らされた小さな2階建ての自宅に帰ってくると、居間の電話が鳴っている。ほいほい、待てよ、と言いながら通話ボタンを押す。
「お忙しいところ失礼します、参田市役所生活安全課の西田と申します、野島三郎さんはいらっしゃいますでしょうか」
「はい、私が野島です」
「先日もお電話させていただいたのですが、どうしても害獣駆除の依頼を受けてくれる銃砲所持許可を持っている方が見つからないのです。実は、本日午後、参田駅の近くにある山本小学校に大柄の熊が入り込み、校舎入り口のガラス戸を破ってから逃げたのです。幸いけが人は出ていないのですが、生徒たちが恐怖に怯えてしまって……野島さん、何とか協力していただけないでしょうか」
西田の声には悲壮感が滲んでいた。このままでは犠牲者が出る、と思っているのだろう。三郎はしばし瞳を閉じて沈黙した。浮かんできたのは愛らしい麻衣とひかりの顔だった。同じだ、他の小学生たちも。子供を殺される訳にはいかない、子供は大人が守るものだ。
「分かりました、協力します。一体何をすればいいですか」
電話の向こうで西田が喜んでいるのが手に取るようにわかる。大変お手数ですが、参田市のHPにあるメールアドレスにメールを送ってくれれば仔細を伝えます、ともかく明日、私たちと現場周辺をパトロールしてもらいたいのです、日当も支払います、と早口でまくしたててくる。手元のメモ帳に待ち合わせ場所と時間を書き込みながら、三郎はその字が震えることに苛立ちを覚えた。
「そんな、危なっかしいじゃありませんか。あなたまともに銃を撃ったの何年前なんです。本当に当たるんですか」
と、話を聞いた、買い物から帰ってきた洋子が遠慮のない質問を浴びせてくる。
「いや、でもな、実は警察での射撃テストでは結構的に当ててたりするんだよ。ちょっと今から飯食った後練習してくる」
洋子は肩をすくめて口を開こうとしたが、しかし、夫婦は一心同体ではないが、このところの三郎の様子から、何かを決意していると感じていたので、それ以上は何も言わず、台所に向かった。三郎は2階へ上がり、荷物置き部屋に入り、使っていない古い家具や掃除用具の間をすり抜け、押入れを開き、小さな金庫を開き、保管している弾丸を取り出した。12発ある。1発がそれなりの重量がある。命を奪う重さ、と考えると少しうんざりとした。独特の金属の鼻を突く匂いがする。……今日は2発だけ使うか。小さな巾着袋に全部入れて、階段を下りながら、どこで撃つかを考えていた。
翌日の午後一時、三郎の家にステップワゴンに乗った西田が迎えにやってきた。助手席にいるもう一人、小柄だが人の好さそうな青年が、猟銃を入れた皮バッグを肩にかけて乗り込んだ三郎に、生活安全課の職員の武藤です、と挨拶した。西田は眼鏡をかけた色の白い、いかにもホワイトカラーといった感じの40代ぐらいの男性で、電話口の通り腰が低かった。今日は暖かく、空は雲一つない青空で、今から熊退治に行くなど、およそ相応しくない日に三郎には思えた。
「まだ今日は今のところ出没情報はないのですが、昨日出没した山本小学校周辺をこの車で巡回します。もし見かけたら殺処分をお願いします。捕獲はしません。」
「わかりました、もう弾を込めますね」
後部座席に1人座った三郎は急いで黒い皮バッグと、背中に背負ったリュックを下ろした。これには熊撃退スプレーが2つ入っている。ニュースを見て不安になった洋子が通信販売で入手していたものだ。三郎は手際よく銃弾をレミントンM870ウイングマスターに込めた。
「かっこいい銃ですね。あと、意外と長いのですね」
と、武藤が話しかけてきた。
「そうですね、ほとんどの人は猟銃を見たこともないですよね。これはレミントンM870ウイングマスターという古い銃なんですが、持ち手のここが綺麗なんです」
と、持ち手の木目を見せると、武藤は名前を復唱した後、興味津々といった表情で体を捻って後ろを向いて見つめている。西田がやんわりと、窓の外を見て熊を探せ、と言った。彼はいけない、と言わんばかりに肩をすくめ、前を向いた。車は2車線の周囲を雑木林に囲まれた県道を走っている。ここを抜けると、住宅街になり、やがて駅前の商店街に辿り着く。駅の北側に伊木山という横に広いなだらかな山があって、熊が下りてくるとしたらそこからだろう、と三郎は見当をつけていた。それにしても、とため息をつく。田舎町とは言え、ここまで人がいないものなのか。参田市の人口は10万人ちょっとで、年々減少しているが、熊退治に出せるのが素人としか言えない公務員と、10数年ほとんど銃撃をした事のないネギ農家の爺さんだけとはな。三郎は首を振って雑念を払った。今から最悪殺し合いにすらなるんだ。鬼になれ。
景色が一気に変わってきた。あちこちに太陽の光を浴びた一軒家が立ち並び、商業用の大きなビルも林立している。やがて、左手に大きなショッピングモールが見えてきた。参田市唯一の大きなファッションマートでもあり、イオンやスタバやGUと言った都会的なショップが多数ある。その時、武藤があっと叫んだ。
「あそこ、熊がいませんか?!」
彼の指さす先を三郎も凝視した。キッパーモールという名の参田駅前のショッピングモールの入り口は、階段を下りたところに憩いのスペースがあって、ベンチや花の咲いた植木鉢が並び、客が休憩できるようになっているのだが、そこに確かに大きな黒い塊がいる。周囲には誰もいないが、みんな気づいて逃げた後なのかもしれない。西田も目視で熊を確認したのち、すぐに車を歩道に寄せて止めた。まなじりを決し、三郎と武藤に告げた。
「行きましょう。野島さん、街中です。無理はされないでください。市民を撃てば大ごとになります。最悪追い返せればいいので」
三郎は唾を飲み込んで、ただ頷いた。3人は一斉に車を降りて、急ぎ足で熊のいるベンチ周りへと向かった。ウイングマスターの射程距離は最大200mなのだが、とてもそんな距離から当てる自信はない。しかも散弾銃なので、一定の距離以上になると、弾が文字通りばらけてしまうので、こういう街中にはそもそも全く向いていない銃なのである。三郎は角度を考え、2人を誘導し、例え当たらなくとも散弾がショッピングモールの壁に当たる場所に移動し、膝立ちになって狙いを定めた。距離およそ25m、この距離なら当たる。周囲には人は誰もいない。西田と武藤は同じように後ろに膝立ちになって、祈るような思いで三郎の後ろから大きな熊の姿を見ていた。熊は何かを食べているようで、こちらには全く無関心だ。今だ、引き金を引け、と三郎は指に命令した。しかし、撃てない。静かになって、何も聞こえなくなった。恐ろしいほどの静寂が辺りを支配した。三郎の目に映る熊は、ヒグマだろうか。なぜお前はこんなところにいるんだ。人が住む町に来てしまったんだ。これじゃ、殺さなくちゃしょうがないじゃないか。山にいたらよかったんだ、どうして、なぜ。いやだ、撃ちたくない、殺したくない。三郎は痛めている膝が震えだすのを感じた。同時に、後ろからの期待というものも感じていた。西田と武藤が早く撃て、殺してくれ、と念を送っているのだ。もしあの熊がまた暴れだしたら、とても人間の敵う存在ではない。怪我人で済まず、死者が出るかもしれない。三郎の額から汗がにじみ出る。その時、三郎の視界に小さな女の子が飛び込んできた。その後ろからは母親であろう若い女性。2人は階段を下りたベンチのところに熊がいるなんて思ってもいないのだ。
三郎は撃った。ドズォーン、という轟音が街に響き渡った。熊の脳天に当たり、真後ろに勢いよく倒れた。
「やった!!」と武藤が叫んだ。西田もおおぉっと声を上げた。しかし、三郎はまだ安心していない。立ち上がり、勢いよく走りだした。親子連れは驚いてその場に立ち止まっている。倒れた熊を見下ろす。やはり、まだ生きているか。追いついた西田が
「まだ生きています、とどめを!」
と興奮して大声を出す。三郎は頷いて、もう一発、正確に脳天を貫いた。再び轟音が炸裂し、レンガ調の地面に赤い血がべっとりと流れ出した。三郎は汗を拭った。息が荒くなり、視界が時々白く見える。武藤が周囲を見渡すと、いつの間にか多くの人が集まって、拍手をしたり、スマホで熊の死体を撮影したりしている。俺の仕事は終わった。三郎は何も言わず、車へと引き返す。顔を紅潮させた西田は警察や市役所へと次々に連絡をしている。
彼らに背を向けて歩く三郎に武藤が声をかけたが、返事はなかった。三郎はただただ虚しく、悲しかった。涙が溢れてきた。ごめんよ、ごめんな。何度も心の中で謝った。手に持った長い鉄の塊が邪魔で仕方なかった。俺は、もう2度と銃を撃たない。そう決めた三郎の姿を、先ほど歩いてきた小さな女の子がずっと見つめていた。この人のことを忘れてはいけない、というように。(完)
熊を撃つ 平山文人 @fumito_hirayama
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