第22話 侵入者たちの静寂
境界を越えた瞬間、外の匂いが断ち切られた。
湿った土の気配も、風の流れも残っていない。
空気が切り替わったというより、外界そのものが遮断された感覚だった。
音も匂いも、ここでは役割を持たない。
足を踏み入れても、反響が返らない。
床は金属のはずだったが、足裏に伝わる感触は曖昧で、 歩いているという実感だけが薄れていく。
通路は直線的で、照明は最小限だった。
光は均等に配置され、影を作らない。
距離感が掴みにくく、進んでいるはずなのに、 同じ場所を歩き続けているような錯覚が残る。
「……音がしないな」
ヘルマンが小さく言った。
「換気も、稼働音もねぇ。止まってるって感じじゃない」
クラリスは一度だけ頷いた。
「静か、というより……必要な音だけを、消しているように見えます」
カレンは何も言わず、先頭を歩く。
立ち止まらない。
振り返らない。
進路を選ぶ素振りすら見せず、角を曲がり、通路を抜け、次の区画へと迷いなく進んでいく。
地図を確認する動作はなかった。
「……案内がいるみてぇだな」
ヘルマンはそれ以上、続けなかった。
地上階層は、五階分が連続していた。
階段と通路、管理用の小部屋。
用途ごとに区切られた構造は、人が常駐することを前提に作られている。
「地上は管理区画だ」
ヘルマンが言う。
「記録、制御、技術者の詰所。実験区画は、全部下に集められてた」
説明は短いが、迷いはない。
デスクには端末が並び、椅子も整然と配置されている。
倒れたものはなく、破壊された痕跡も見当たらなかった。
紙の書類は一枚も残っていない。
端末はすべて初期化され、ログも空白。
電源は生きているが、稼働音がない。
換気の風も感じられなかった。
非常灯だけが、一定の明るさで点灯している。
その下にひとつだけ開いたままの端末があった。
画面は暗転しているが、電源は落ちていない。
脇に置かれた入力デバイスも、そのままの位置に残っている。
クラリスは一瞬だけ視線を向けた。
端末の横には、小さな工具が並んでいた。
分解用の器具。
清掃用の布。
どれも使いかけで、
乱雑さはない。
だが、片づけられてもいない。
「……途中ですね」
クラリスが言った。
「ああ
ヘルマンが短く応じる。
「緊急撤退じゃねぇ。壊したわけでもない」
必要なものは揃っている。
業務は、いつでも再開できる状態だった。
「“終わらせた”んじゃない」
ヘルマンは、視線を外さずに続ける。
「……止めただけだ」
誰かが、
この場所の時間を、意図的に止めている。
ここは、人が働くための場所だった。
だが、人の存在だけが、丁寧に取り除かれている。
クラリスが呟く。
「放棄ではなく。時間をかけて、片づけた」
「……ああ」
ヘルマンが低く息を吐く。
「急いだ痕跡がねぇ。だから、余計に厄介だ」
カレンは周囲を確認すると、通路を抜け、次の区画へ足を向けた。
天井に、カメラが設置されている。
一基ではない。
通路の角、出入口の上。
要所ごとに、無駄なく配置されていた。
レンズは動いていない。
だが、向きは整っていた。
こちらを向いている。
壁の内側から、微細な音が聞こえた。
作動音ではない。
待機状態にある機械が、低く振動している。
「見てはいるが……反応しねぇな」
ヘルマンが足を止めた。
「俺が知っている頃なら、この時点で警告が鳴ってた」
クラリスはカメラを見上げる。
「侵入を、拒否していない?」
「……歓迎もしてねぇ」
ヘルマンは首を振る。
「ただ、何も判断してない」
拒絶も、誘導もない。
ただ、観測されている。
その場で、誰も動かなかった。
カレンは立ち止まり、クラリスは言葉を探さず、ヘルマンは視線を天井に向けたまま、呼吸だけを整える。
時間にして、ほんの数秒。
だが、
次に何かが起きるには、十分すぎる長さだった。
警告音は鳴らない。
遮断壁も降りてこない。
カメラは、ただそこにある。
「……見過ごしてるんじゃねぇ」
ヘルマンが言った。
「最初から、“今は何もしない”って判断だ」
クラリスは、ゆっくりと息を吐いた。
「何も起きないこと自体が、異常なのですね」
「……ああ」
ヘルマンは視線を下ろす。
「だから、嫌な予感しかしねぇ」
カレンが、わずかに歩き出す。
それを合図に、三人は再び進み始めた。
次の通路で、カレンが止まった。
一瞬の停止。
視線が床に落ちる。
「……近接防衛だ」
ヘルマンが理解する。
床下に埋め込まれた、地雷型の防衛装置。
侵入者を感知し、起動するはずのもの。
カレンは迷わなかった。
一歩引き、わずかに位置をずらし、別の進行ラインを取る。
説明はない。
身体が、正解を知っている。
カレンが通過した瞬間、 微細な音が一度だけ鳴った。
起動ではない。
識別に近い反応だった。
「……通したな」
ヘルマンが呟く。
クラリスは何も言わない。
「壊れてるんじゃねぇ。解除もされてない……保留だ」
ヘルマンが続けた。
防衛機能は残っている。
判断だけが、先送りにされている。
「待っている、ということですか」
クラリスの問いに、ヘルマンは答えなかった。
否定もしない。
入口のフロアから5階フロアまで、すべてが同じ状態だった。
各区画は整然としていて、いまにも稼働しそうだが、沈黙を保っていた。
防衛機能も停止している気配はないが、作動しなかった。
大した収穫を得られないまま、クラリス達は入り口のフロアに再び立っていた。
反対方向の通路にカレンが足を向ける。
その通路の先で、カレンが足を止めた。
それまでと同じ速度で歩いていたが、止まった足音だけが、はっきりとした違いとして残る。
カレンは壁面に視線を走らせ、一見すると継ぎ目にしか見えないラインの前に立った。
「……こちらです」
低い声だった。
カレンが一歩踏み込み、壁際の影に隠れるように設けられた開口部を示す。
下層部に続く階段。
意図的に目立たない位置に配置され、照明も最小限に抑えられている。
人を導くための構造ではない。
クラリスは一瞬だけ、その階段を見下ろした。
「地下、ですね」
「十階分あります」
カレンは即答した。
数える必要はない、という口ぶりだった。
ヘルマンが、わずかに眉を動かす。
「……いや」
階段に視線を向けたまま、低く息を吐く。
「俺がいた頃は、こんな降り方じゃなかった」
それは説明ではなく、過去とのズレを確かめるような独り言。
カレンが先に階段へ足をかける。
照明の色が変わった。
白から、冷たい青へ。
一段降りるごとに、空気が変わる。
温度が下がり、乾いた匂いが鼻に残る。
消毒薬。
金属。
そして、微かな生体処理の残滓。
地上の管理区画とは、明確に性質が違っていた。
「……配置が違う」
ヘルマンが続ける。
「階段の角度も、踊り場の位置も、俺の知ってる地下じゃねぇ」
声は小さい。
「全部、作り直されてる」
降下が進むにつれ、カレンの動きが変わっていく。
歩幅は変わらない。
だが、余分な動作が消え、視線と身体の向きが自然に先を読んでいた。
周囲を警戒している、というより、知っている構造をなぞっているように見える。
クラリスは、その変化を言葉にしなかった。
ただ、視線を外さずに追っている。
踊り場で、カレンが再び足を止めた。
通路は左右に分かれている。
どちらにも表示はなく、構造上の違いもほとんど見えない。
カレンは一瞬だけ周囲を見渡し、そのまま、右側の通路へ視線を向けた。
「……こちらです」
理由の説明はない。
確認を求める様子もなかった。
ヘルマンは、思わず足を止める。
「覚えているのか?」
「記憶は不明瞭ですが、問題ありません」
カレンはそう答え、すでに通路の奥へ一歩踏み出している。
クラリスは、その背中を見てから、短く頷いた。
「進みましょう」
カレンだけが、進む方向を知っている。
ヘルマンは、その背中を見ていた。
「……ここから先は」
言葉を選び、続ける。
「人が踏み込んでいい場所じゃない」
それでも、カレンは前に出た。
静寂の奥へ。
(つづく)
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