第2話 白の屋敷
馬車の車輪が、白い石畳の上で静かに止まった。
城壁を思わせる高い外壁が連なり、白を基調とした建築が曇り空の下でもくっきりと浮かび上がる。
アストレア家の屋敷。
外観は華美ではない。
だが、整った直線と磨かれた石の質感が、長く続く家系の確かさを示していた。
扉が開き、クラリス・アストレアが馬車から降りる。
白の衣装が薄い光を受けて静かに揺れた。
続いて、カレンも降りた。
足音はほとんどしない。
視線は前方に固定され、表情は変わらない。
玄関前には、数名の使用人が整列していた。
その顔が、カレンを見た瞬間に揺らぐ。
「……あれは……」
「まさか……本当に連れてくるなんて……」
「お嬢様……どうして……?」
声は低く震えを含んでいた。
誰もカレンに近づこうとはしなかった。
一歩どころか、半歩さえ前に出ようとしない。
カレンは反応しなかった。
表情も視線も変わらず、歩く以外の行動は存在しない。
クラリスは一度だけ使用人へ視線を向けた。
その眼差しは静かだが、その場を制するには十分だった。
「わたくしが決めたことです。心配はいりませんわ」
その一言で、使用人たちは口を閉じた。
クラリスは大扉へ向かって歩き始める。
カレンはその後ろを無音でついていく。
足取りに迷いはなかった。
不安を隠せない使用人のひとりが小さく尋ねる。
「……お嬢様。本当に、このまま……?」
クラリスは振り返らずに答えた。
「問題ありません。彼女は、わたくしが連れてきた子です」
クラリスの一言で、使用人たちの動揺はすぐに静まった。
アストレア家では、主が選んだ者を否定してはならない。
古くから続くその慣習は、今もなお屋敷に根付いていた。
“子”と言った。
“兵器”ではなく。
“元DOLL”でもなく。
クラリスは淡々と歩き続ける。
カレンを従えて。
屋敷の白い大扉が開く。
清潔な空気が流れ込み、廊下の奥には光に近いほど薄い白が広がっていた。
カレンはその光の中で立ち止まることもなく、ただ歩みを進める。
カレンの外套は深い黒で、光を受けても色が変わらない。
裾には、闇市で吸った
靴も黒く、磨かれていない金属のように鈍い光を返していた。
その無機質な黒が、屋敷の白を切り取るように浮かび上がっていた。
その姿は“黒”そのもの。
白い世界の中に置き去りにされたような黒。
だが、クラリスは柔らかな声で告げた。
「ようこそ、わたくしの家へ。これからは、わたくしがあなたの主です」
カレンは返事をしない。
応答が必要だとは理解していなかった。
それでも、クラリスはその沈黙を拒まない。
屋敷の廊下は、白の壁と白い床が連なり、足音の反響までもが整っていた。
クラリスは一定の歩幅で進み、カレンはその後を静かに従う。
途中、使用人たちの視線が何度かカレンへ向けられた。
そのどれもが、驚きと警戒を含んでいる。
カレンはその視線を認識せず、歩調も変えなかった。
クラリスは屋敷の奥にある一室へ入る。
白い家具が整然と並び、窓から薄い光が落ちていた。
静かな空気が満ちている。
「ここは、メイドたちの支度部屋ですわ。まずは服を整えます」
クラリスはワードローブを開ける。
その中に吊られていたのは、ひときわ深い黒の布地だった。
漆黒のワンピース。
エプロンとブリムは純白で、黒との対比が強く、凛とした印象を持っていた。
クラリスは一着を取り出し、カレンの前に差し出す。
「あなたに似合うと思いますわ。着替えなさい」
カレンはわずかに瞬きをし、淡々と答える。
「了解」
だが、服を手に取ることもなく、ただクラリスの前で静止していた。
着替えという行為の意味を判断できないまま。
クラリスは小さく息をつき、柔らかな声で言った。
「……こちらへいらっしゃい」
カレンは命令として認識し、足を進めた。
クラリスはワンピースを広げ、その袖口をカレンの腕に通す。
動作は乱れず、優しく、上品だった。
カレンの肩へ布が落ちた瞬間、黒が一気に輪郭を作る。
腰の位置を整え、背中のボタンを留める。
カレンは微動だにしない。
人間であれば自然に揺れるはずの体重移動もない。
袖を通す間も、カレンの身体はまるで
次に、クラリスは純白のエプロンを持ち上げた。
胸当ての布をそっとカレンの肩へかけ、背後で紐を結ぶ。
白い布が、黒を切り分けるように乗せられていく。
「動きは苦になりませんでしょう。重くはありませんわね?」
カレンは短く答える。
「支障なし」
クラリスは微笑み、白いブリムを手に取る。
光を含んだ純白の布。
それをカレンの頭へそっと添え、形を整える。
その瞬間、カレンの視線がわずかに揺れた。
ほんの一呼吸だけ。
触れられた箇所の感覚を確認するように、反射とは違う動きが生まれた。
クラリスは気づいたが、言葉にはしなかった。
ただ、静かに見つめた。
「……ええ。よく似合っていますわね。とても、きれいです」
「了解」
カレンの返事は無機質。
表情も変わらない。
それでも、クラリスは満足したように頷いた。
カレンの黒い服は、この白の部屋の中でくっきりと輪郭を持ち、まるでここに置くために造られたように見えた。
クラリスは扉へ向かい、振り返って言う。
「では、次に参りましょう。屋敷の案内と、お仕事の説明をいたします」
カレンはすぐに従う。
白と黒が並び、廊下へ消えていった。
廊下に出ると、白い空間の奥から、使用人たちの気配がゆっくりと集まってきた。
足音は抑えられているが、緊張が混じる。
数人の使用人が、柱の陰からそっと顔を出す。
視線はクラリスではなく、その後ろに無音で立つカレンへ向けられていた。
「……動いている……」
「目を合わせるな」
「本当に家に入れたのか……?」
囁き声は小さく、怯えが混じっていた。
カレンは気づかない。
歩幅も速度も、変化しなかった。
クラリスだけが足を止め、静かに使用人たちへ視線を向ける。
「
強めの語気で、凛とした声が屋敷に響いた。
その一言に、空気が引き締まる。
使用人たちは、誰も逆らわず、黙って頭を下げた。
カレンは直立したまま反応しない。
命令されていない限り、視線を動かす必要もなかった。
クラリスは再び歩き出し、黒いカレンが続いた。
翌朝、屋敷の庭は白い光に満ちていた。
低い雲がかかり、陽の輪郭ははっきりしない。
だが、刈り揃えられた芝は濡れ、花々の色が淡く浮かんでいた。
花の香りを、カレンは“情報”として受け取っただけだった。
匂いが良いかどうかを判断する感覚は、最初から与えられていない。
年配のメイドが、カレンの前に立って説明する。
「ここを、この向きで……そう、ゆっくり。無理に力を入れないでね」
カレンは指示だけを読み取り、同じ動作を繰り返す。
だが、その手はぎこちない。
枝を払う角度も、布を持つ強さも安定しない。
「違うわ。もっと軽く……そう、優しく」
メイドは丁寧に教えるが、カレンの動作には自然な加減が生まれない。
それでも、メイドは諦めずに手本を示し続けた。
やがて、クラリスが庭へ現れる。
白いドレスが朝の光を柔らかく散らし、淡い金色の髪が風を受けてふわりと揺れた。
陽を吸ったような光沢が、白い庭の空気に混ざり、ひときわ静かな存在感を放っていた。
「お疲れさま。カレン、こちらへいらっしゃい」
カレンは即座に動きを止め、クラリスのもとへ向かった。
庭の奥には小さな丸テーブルが置かれていた。
白い鉄製の脚。
上にはポットとティーカップが並んでいる。
クラリスは椅子に座り、穏やかに言う。
「座ってかまいませんわ」
カレンは命令として受け取り、従って座る。
背筋はまっすぐで、動きに乱れはなかった。
クラリスはポットを持ち上げ、静かに紅茶を注ぐ。
淡い香りが立つ。
テーブルを挟んだ向かいで、カレンは動かない。
クラリスは紅茶のカップをカレンの前へ置く。
「どうぞ」
カレンはカップに視線を落とす。
「飲料摂取行動は必要ではありません」
クラリスは少しだけ息をのみ、すぐに柔らかく微笑む。
「ええ、無理には勧めませんわ」
朝の風が再び通り抜ける。
花の匂いがかすかに混じり、芝を揺らした。
クラリスの金色の髪も、その風に乗ってわずかに流れ、光を含んだ線が静かに揺れた。
クラリスはそのまま風を受け、目を細める。
「気持ちがよいですわね」
カレンは風の当たる感覚を確かめているだけだった。
だが次の瞬間、視線がわずかに横へ揺れた。
それは反射でも命令でもなく、初めての刺激を捉えきれなかった小さな乱れ。
クラリスは気づき、静かにカップを置く。
「……少しずつでいいのです。あなたはまだ、ここへ来たばかりですもの」
その声は慰めではなく、事実だけを伝える優しさだった。
カレンは返事をしない。
風の中で、ただ座っていた。
それから数時間、屋敷の時間だけが進んだ。
(つづく)
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