第17話 実況のある前半9ホール

 コンペ前日の金曜の夜。


 経理フロアの片隅の小会議室で、俺は三メートルのパットを黙々と打っていた。会議用の長机の片側にパターマット、反対側には電卓とノートPC。社内で一番「経理っぽい練習場」かもしれない。


「はい、あと十球」

「……もう十球やりましたよ」

「じゃあ“延長十球”。これを外したぶんだけ、当日のスコアに上乗せされると思って」

「プレッシャーのかけ方がブラックなんですよ」


 宮城さんは笑いもせず、ただ数字を書き込んでいく。何球目が入って、何球目が外れたか。


「でも、パットは“数字で見たほうが伸びる”からね。今日は三メートルを三十球。目標は“半分以上入る”」

「……今のところ、16/24です」

「お、十分。じゃあラスト6球で20/30行けたら花丸」

「ハードル上げないでください」


 当日までの平日は、そんな感じで、夜にちょっとだけ会議室を借りてパットとアプローチを触る程度に留めた。ゴルフ場には行かない。体をいじめるより、「静かな18ホール×2」の感触と、コースブックのイメトラを重ねるほうを優先した。


 金曜の深夜、スマホが震えた。阪神データ女子からのチャットだ。


『試合、見てました?』

『九回、きつかったですね……』

『きつかったですね。でも、“選手が一番しんどい日”に、ファンが茶化すのは違うと思うんです』

『はい』


『明日社内チャットで軽く流します。“こういうときに阪神ネタで遊ぶの、やめたいですね”って』

『伏線、ですね』

『阪神を守る伏線です』


 画面に「既読」の文字がついた直後、別の部署の阪神ファンの名前が会話に追加された。ファンコミュニティの合図のようなやり取りが、ゆるく始まる。


『あの負け方の翌日にコンペ来るファンは偉いですよね』

『“昨日の負け方をネタにするのは違う”って空気、作っときたいです』


 ——明日の朝、タイガーが「昨日の負けや〜」とネタにしようとした瞬間、この会話が彼の背中を軽く押し返してくれるだろう。


 そんなふうに想像してからスマホを伏せると、不思議と心が静かになった。


 コンペ当日の朝。


 クラブハウスに入ると、受付前には「熱中症対策のお願い」と大きく掲示が出ていた。水分補給の推奨、帽子着用、カート利用のススメ。会社のロゴ入りの紙が三枚並んでいる。


「お、ちゃんと貼ってくれてますね」

「“水飲むのは禁止や”って言われた日が、遠い昔のことみたいですね」

「実際そんな昔じゃないけどね」


 宮城さんが、少しだけ肩をすくめる。


 ロビーの端のほうでは、営業の若手たちがストレッチをしながら話していた。


「今回はちゃんと“水飲んでください”って総務に言われましたよ」

「“走らせないでください”もな」


 ちらっと視線がそちらに向いた瞬間、「ワイはタイガーや〜」という声が聞こえた。


「おう、来とるやないか、新人くん」

「おはようございます」


 虎谷は、相変わらず派手な虎柄のヘッドカバーをぶら下げていた。キャップの横には小さな虎のワッペン。


「鍛え直したか? 今日は“退職願いダフリ”の汚名返上やな〜」

「退職願いは、とりあえず机の奥にしまったまま来ました」

「はは、うまいこと言うな〜」


 虎谷は笑ってみせたが、その目はほんの少しだけ周囲の反応をうかがっているように見えた。


 営業の若手二人は、以前のように「うわー出たー」と大きく笑うことはしない。代わりに、「あー、あのときのやつですね」と、どこか距離を置いた返事をしていた。


「では皆さん、お集まりください」


 スタート前の説明が始まる。総務の高橋さんがマイクを持ち、淡々と読み上げていく。


「本日のコンペですが、安全衛生委員会の決定に基づき、以下の点をご確認ください。

 一、水分補給は各自こまめに行ってください。“我慢”は不要です。

 二、カートは疲労度に応じて積極的にご利用ください。“若手だけ歩く”などの取り決めは行いません。

 三、プレー中の発言について、ハラスメント研修で扱った“将来や人生イベントを茶化す言い回し”は控えてください」


 その一文のところで、空気がぴんと張った。高橋さん自身は、特に誰を見るでもなく、スライドを見ながら淡々と読み上げている。


「例:内定返上、昇給見送り、婚期〜、などです。

 プレーの結果を表現する場合は、“事実”と“技術的なポイント”にフォーカスした言い方にご協力ください」


 虎谷の肩が、目に見えて一度だけピクリと動いた。


「……ちゃう言い方、考えなあかんな〜」

「いい機会ですよ」

「今日は“ポジティブ実況”で行くわ」


 自分に言い聞かせるようにそう言うと、彼はスタートホールのほうに視線を向けた。


 組み合わせ表が貼り出される。


 第1組:虎谷、営業若手A、営業若手B、社長付き秘書。

 第2組:宮城、佐倉、西條琴葉、施設のレイ。


 タイガーとは別組。だが、同じコース、同じ天気、同じ時間帯で回る。スコアは後でまとめられる。


「じゃ、うちらは“静かな18ホール+実況環境”やね」

「実況環境」

「コースは静かやけど、隣の組からは聞こえるっていう」


 スタートホールに立つと、風が正面から吹いてきた。


「今日の目標、決めとこうか」


 宮城さんが俺を見る。


「自分的目標スコア」

「……110切り、できたらいいなと思ってます」

「うん、いい目標。じゃあ“110切りのために守ること”は?」

「“150ヤードを真っすぐ”“ボギー/ダボ許容ホールを守る”“やっちゃダメリストをやらない”」

「もう一個」

「“自分を実況しない”」

「完璧」


 深呼吸をして、1番ホールのティーショットに向かう。プレショットルーティンをなぞるように、後ろからラインを見て、仮ターゲットを決めて、構えて、素振り一回、深呼吸。


 ——音だけを聞け。


 そう心の中でつぶやいて、クラブを振り抜いた。


 ボールは、狙いより少し右に出たが、フェアウェイにしっかり残った。


「ナイスショット」

「今のは?」

「DR 180、右フェアウェイ。目標範囲内」


 自分へのコメントは、それだけにした。


 2番、3番……前半9ホールは、ほとんどモンタージュのように過ぎていった。


 ショートホールでは、コースブック通りに花道を狙う。パー4では150+150でグリーン周りまで運ぶ。ときどきミスショットは出るが、「あー、右」「ちょっと手前」という事実だけ口にして、「最悪」「ダメだ」といったラベルはつけない。


 代わりに耳を澄ませれば、隣の組から虎谷の声が、ときおり風に乗って流れてきた。


「はい出ました〜……“ちょっともったいないショット”」

「ここは“次に期待ライン”やな〜」

「“退職願いレベル”って言いかけてやめたね、今」


 レイさんが、こっそり肩を震わせる。


「“婚期ロスト”も飲み込んでたよ」

「飲み込むだけ偉いじゃないですか」


 営業の若手たちも、以前のような大笑いはしない。代わりに、「あ〜、そうっすね」と薄い相槌だけ返している。その“笑わなさ”が、虎谷のテンションをじわじわ削っているようだった。


「周りが乗ってこない実況って、こんなにスベるんですね」

「“笑いが起きない実況”は、ゴルフ以上にメンタル削るからね」


 前半のハイライトは、7番のパー3だった。池越え、横風。


「ここ、“冷やし中華の皿”」

「こぼさないように、真ん中狙いですね」


 PWで花道狙い。ボールは少し左に出たが、池をしっかり越えてカラーに乗った。


「ナイス。これで“退職願いホールのまたいとこ”クリア」

「親戚多すぎませんか」


 2パットのボギー。


 9番ホールを上がったとき、スコアカードを見て息をのむ。


「……54」

「前回が59だったから、5打縮んでるね」


 宮城さんが、ペンで数字をとん、と叩く。


「トリ以上のホール、何個?」


 カードをなぞる。7、6、7、6……


「一個もないです」

「それが一番偉い」


 高橋さんが、麦茶を飲みながら笑った。


「“大事故ホールなしで前半54”は、立派な110切りペースだよ」

「……ほんとに110切れそうな気がしてきました」

「気のせいじゃない」


 隣のテーブルでは、虎谷の組もスコアカードを確認していた。風に乗って、断片的な声が聞こえてくる。


「……46か。まあまあやな」

「ナイスです、課長」

「後半もこのペースで行ったら、90台前半も見えますよ」

「任しとき。“ワイはタイガーや”の本気、見せたるわ」


 声だけ聞けば、まだ余裕はある。だが、その顔には、どこか研修と掲示物の記憶が影を落としているように見えた。


「前半46ってことは、普通にうまい人ですね」

「実力はあるからね。ただ、“実況してる自分”を守るために打ってる」


 宮城さんが、紙コップをくるくる回す。


「後半、蟻地獄と谷越えで、その差が出る」

「こっちは、後半何点なら110切れます?」

「前半54だから、後半は55以下でOK。つまり、“大事故ホールを一個でも減らすゲーム”」

「……蟻地獄でトリ打たなければ」

「そう、“蟻地獄はダボ狙い”」


 パッティンググリーンの向こうから、虎谷の声がまた聞こえた。


「よっしゃ、後半はバーディ量産モードや〜」

「……バーディ量産モードって、フラグにしか聞こえないんですけど」

「バーディ量産って言う人、だいたいボギー量産するからね」


 宮城さんの言い方は軽いが、目だけはどこか冷静にコースを見ていた。


「さ、後半行こうか。蟻地獄と谷越えが、こっちを待ってる」

「“退職願いダフリ”のときは、“何が待ってるか分からない十八ホール”でしたけど」

「今日は?」

「“どこに罠があるか分かってる十八ホール”です」

「それが、一番の武器」


 俺はコースブックの後半ページを開きながら、ティーグラウンドのほうへ歩き出した。


 ——後半九ホール。

 ——蟻地獄バンカー、谷越えパー3、そして最終ホール。


 実況付き十八ホールの、ほんとうの勝負は、ここからだった。

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