第2話 転生前:病床のプロレスファンの最期の願い
わたしこと渡辺鷹乃は、生まれたときから病弱で不健康というわけではなかった。
物心つく前の記憶は、ただ明るい光と、走り回る足の軽やかさで満ちている。
近所の公園で泥まみれになって笑い、幼馴染と鬼ごっこをして息を切らす。
あの頃のわたしは、自分の足がどこまでも運んでくれると信じていた。
世界は、無限に開かれた遊び場だった。
身体は意志に従い、大地を蹴って宙を舞う。
それは、当然のように与えられた、わたしにとって最も貴重な「自由」だった。
しかし、その「開かれた世界」は、小学校に上がる頃、突然、閉じられた。
体調の異変に両親が気づき、病院を転々とした末に下された診断は、小児には稀有な進行性の難病だった。
身体中の筋肉が少しずつ、確実にその力を失っていく。
立ち上がる動作、歩く動作。
それまで空気のように意識しなかった身体のすべてが、突然、わたしを裏切り始めた。
入退院を繰り返す日々。病室の白い天井と、消毒薬の匂い。
一度転んだだけでも大ごとになり、小さな風邪でも命の危機に直面する。
外の世界は、もはや恐怖の対象となった。
両親はわたしを抱きしめて涙を流し、その過保護なまでの愛情は、わたしの行動範囲をさらに狭めた。
「安静にしていなさい」
それは、優しさという名の、呪いの言葉だった。
活発だった頃のわたしが知っていた世界は、病室の窓ガラスの向こう側に、遠い景色として貼り付けられてしまった。
わたしは、世界から隔絶された、動けない傍観者となった。
そんなわたしに、両親が与えてくれたのがタブレットPCだった。
それは、物理的に身動きの取れないわたしにとって、唯一、世界と繋がる窓となった。
指先一つ動かすだけで、わたしはどこへでも行けた。
知識を深め、物語を読み、ゲームの世界を攻略する。
閉塞した病室から、無限に広がる情報の世界へと踏み出したわたしは、少しだけ自由になった。
幼馴染達から教えてもらったソーシャルゲームや、流行りの電子書籍。
わたしは貪るようにあらゆるコンテンツを摂取した。
特に夢中になったのは、いくつかの乙女ゲームと転生もののウェブ小説だ。
なぜ夢中になったのか。
きっとそれは、そこにある「自由」と「運命への抵抗」に他ならなかっただろう。
乙女ゲームの主人公は、いくつもの選択肢から自分の運命を選び取る。
間違った選択をすればバッドエンドが待っているが、正しい手順を踏めば必ずハッピーエンドが保証される。
病気の進行という、わたしにはどうすることもできない避けがたい運命の前に無力だったわたしにとって、明確なルールと、それに対する正しい戦略が存在する世界は、何よりも魅力的だった。
そして、転生ものの小説。特に「悪役令嬢」もの。
事故や病気で失われた人生から、新しい、自由な肉体と人生を得た彼女たち。
周囲の悪意や、理不尽な運命に抗い、ドタバタとしながらも自分の意志で道を切り開く姿は、病室のベッドの上で寝たきりになっていくわたしにとって、眩しいほどの憧れだった。
「もしわたしも、あんなふうに、自由に、新しい人生を生き直せたらなぁ」
そんな空想は、わたしにとって唯一、心の自由を保つための特効薬だった。
悪役令嬢に転生してしまったキャラクター達は、華麗にまたはドタバタと、さまざまなアプローチで死亡フラグや破滅フラグを回避する。
乙女ゲームの主人公は、大概が悲劇的なポジションから努力を重ねてフラグを回収していく。
立場は対極だけど、どちらもハッピーエンドを目指す前向きさがまぶしく、そして楽しかった。
◆◆◆
新作のRPGタイプの乙女ゲームの攻略に没頭していたある日、攻略動画を探そうと世界的に有名な動画サービスで、わたしは偶然、その映像を目にして、攻略動画を探していたことなど忘れて心を持っていかれた。
それがプロレスだった。
短い数分の動画から関連動画を辿り、わたしの意識は病室の白い天井から、その四角いリングを囲む熱狂の世界に入り込んだ。
画面の中には、筋肉ムキムキの男たちが、汗と血と熱気を撒き散らしながら、互いの肉体をぶつけ合っている。
殴り合い、投げ飛ばし合い、そしてマイクを握って叫ぶ。
それは、わたしが知っていたどの世界から、あまりにもかけ離れた「生のエネルギーの塊」だった。
痛み、力、そして激しい感情のぶつかり合い。
病気に縛られ、日に日に衰えていく自分の身体。
少しの運動でも息切れし、痛みを感じるわたしの身体とは、全くの別物だった。
プロレスは、わたしが最も渇望する「肉体の自由と激しさ」を、画面越しに叩きつけてきた。
そして、彼らを囲む観客たち。
歓声が、拍手が、選手の名を呼ぶコールが、決め台詞を大合唱する声が、何もかもが刺激的だった。
興奮に身を震わせる観客たちを前に、レスラーたちは、その肉体とマイクで、彼らの感情を自在に操っていた。
わたしは、あっという間にプロレスに夢中になった。
なにしろ、病気に縛られた退屈な人生だ。
習い事も部活動もない。
勉強は続けていたけれど、それでも時間は有り余っていた。
プロレスへの熱狂は、わたしの病室という閉塞した世界を、一気に埋め尽くした。
両親は「なんでプロレス……?」と疑問符を浮かべたものの、楽しそうにプロレスの面白さを語る娘の明るい表情を喜んでくれた。
長時間の外出、それも車椅子での介助が必要になる会場での観戦は、病状を考えれば困難だった。
だからこそ、両親はわたしに様々な団体の動画配信サービスへの加入を許してくれた。
彼らの愛情を燃料に、わたしは新たな世界への扉を大きく開かせたのだ。
わたしは、そこでプロレスを観るだけでなく、分析し始めた。
なぜ、あの選手はあんなに憎まれるのか。
なぜ、あの反則技は、レフェリーに見逃されるのか。
なぜ、あの卑怯な行為が、観客の憎悪を最大化し、熱狂を生むのか。
わたしは、ただのファンではなく、病床のままプロレス研究家となった。
プロレスの面白さの本質は、
真の面白さは、
もちろん善玉同士の試合だって最高に面白い。
けれど、世界中のプロレスを観れば、そこには「勧善懲悪」という共通テーマが根底にあった。
プロレスの中でも、特にわたしが強く惹かれたのは、
彼らがパイプ椅子を使おうが、レフェリーの目を盗んでロープブレイクを無視しようが、基本的には反則負けにはならない、プロレスにはレフェリーが数える5カウントまでなら反則が許されているからだ。
レフェリーが何度もカウント4までを数えては攻め手を緩め。また反則攻撃を繰り返す。失格スレスレの攻防。
観客の憎悪が最高潮に達しているのに、レフェリーはその5カウントルールの解釈上、悪役を裁けない。
もしこれを簡単に反則負けにしてしまえば、その試合は一瞬で熱を失い、白けてしまう。
それは、それはプロレスという興行にとって最悪の事態だ。
彼らはあらゆる方法で悪事を働き、対戦相手も観客も煽り、そして大きな流れの結末としては、大体の場合――これ以上なく豪快に敗戦する。
傍若無人な悪役が、それ以上に傍若無人な経営層を相手取って好き放題に暴れ回るという、なんとも痛快なパターンもないことはないのだけれど、多くの場合の悪役は最後に負けるのだ。
観客を煽り、嫌われ、ブーイングを浴びるために、身体を鍛え、練習を重ねてリングに上がり続ける。
一連の流れからビッグマッチを向かえて見事に散っても、プロレスは続いていく。
物語の悪役のようにそこでお終いではないのだ。
次のターゲットをみつけては難癖をつけ、試合に乱入したりバックステージで襲撃したりして噛みつき、そしてまた同じことを繰り返していく。
全てはプロレスを、試合を盛り上げるために。
なんて――なんて傲慢で、なんて自由で、なんて痛快なんだろうか。
病気だから、身体が弱いから、なにかあれば大事になるから……そうして安静でいること、どうしようもない不自由を強いられているわたしとは全く違う存在だ。
だからこそわたしは彼らに強烈に憧れた。
もっとあがこう。
やりきって試合に負けるのはいいけれど、わたしの人生にどんな盛り上がりがあったというんだ。
衰えていく身体に、息苦しさに、眠れない夜に、そんなものに追い詰められたからといって、わたしはあがいてきただろうか。
負けることが役目だとして、命がいつか終わるのがさだまっているとして、それをただただ受け入れるのは違う。
噛みついて、目潰しや急所攻撃をして、ロープブレイクをギリギリまで無視して、凶器をもちだしたっていい。あがくんだ。
プロレスラーの存在は、わたしの闘病生活、主にリハビリへの姿勢を劇的に変えた。
電子書籍で色々なレスラーたちの自伝を読んだ。
電子書籍になっていないものは両親に頼んで古書店から取り寄せてもらった。
彼らが少年時代にどのようなトレーニングをしていたか、デビューまでの厳しい練習の日々、そしてプロレスラーという人生を歩み続けるために日々鍛錬を欠かさないという、その生き様に強い影響を受けた。
わたしは、自分の日々衰えていく一方の体を少しでもと、リハビリに前向きになった。
鍛錬によって、人間がどれほどの力を得られるのか。
肉体の限界を追い込む彼らの姿は、ベッドの上で動けないわたしにとって、最も尊いものだった。
リハビリは、わたしにとっての入門テストだった。
心は折れていない。魂は燃えている。わたしも、あの四角いリングで戦う彼らに近づきたかった。
でも、身体は、それを許さなかった。
17歳になると、立ち上がること、手すりにつかまって歩くこと、そんなことでさえ、わたしには難しくなっていた。
リハビリに前向きになっても、病の進行がそれを許さないという、どうしようもない非情な現実の壁がそこにはあった。
そして、18歳を迎える前に、わたしの人生は、あっけなく幕を下ろした。
最期の瞬間は、よく覚えていない。
ただ、呼吸をするのも辛くなっていく中で、一つの映像がフラッシュバックしていた。
それは、わたしが熱狂的に応援していたレスラーが、ビッグマッチの前哨戦で、善玉を叩きのめして高笑いしている姿だった。
あぁ、あの続きが見たかったな……本戦はどういう試合になったんだろう……。
最近はすっかりプロレスへの熱量におしこまれていたけれど、愛読していたWeb小説の、悪役令嬢たちが運命に争ってハッピーエンドを目指してドタバタと活躍する姿も、もっと楽しみたかった。
そして、最後に、強く、強く、心の中で願った。
病気に縛られ、常に安静という名の鎖に繋がれていた人生。
もう二度と、誰にも、何にも、行動を制限されたくない。
もし生まれ変われるなら……
もっと自由に、もっともっと傍若無人に見えるくらい。
もっともっともっとわがままに好き放題やっているように見えるくらい。
何にも縛られず、自分の意志と力で、自分の人生を思うままに支配する。
そんなふうに生きてみたいな、と。
その熱狂と、自由への渇望を最後に、渡辺鷹乃の短い人生は終幕した。
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