最後の王様 ━こんな日本にならないために━

瀬尾早美

「最後の王様」

1,

日差し眩しく、朝から小鳥たちがピーチクさえずってる。

平和な一日の始まり。


まずはパソコンを開いて、メールやメッセージのチェック。

おやおや、さっそく、仕事のメッセージが溜まっている。

時間外にまで仕事をさせようとする、不届きな奴らめ。


メッセージのプレビューを見ると…

「すみません、依頼していた計画書は、もう少し早めに…」

「昨日の報告書がありがとうございます。途中7ページがまるまる抜けているようですが…」

「給与明細の通勤手当についてですが、ご要望の経路は遠回りになるので…」

なんだ、こいつらは。

つまらんことをゴダゴダ言って、邪魔ばっかりしやがって。

いま読んで既読にしないで、とりあえず、気づかなったことにして、始業時間を回ってから読むことにしよう。


それよりも、世界の動きが大事だ。

世界の動きをよく見て、ひとりひとりが意見を出す。

それが民主主義の根幹だ。

会社のお偉いさんも労働者も、お金持ちも貧乏人も、頭のいい奴も悪い奴も、

意見の価値はみんな同じなのだ。


ネットニュースをざっと見る。

トップページに重要ニュースがまとめられている。

「消費税増税、15%へ。政府・財務省は up国債償還と財政健全化のために必要と、説明に躍起。」

「消費増税、生活必需品は5%へ減税。複数税率で混乱」

「郊外の高台の公園の展望台から幼児が転落死。事故と事件の両面から捜査」

「最低賃金が2900円/時に。経営者が悲鳴」

「認知症老人を使い走りさせて衰弱死。日常的に虐待か」

やれやれ、日本もまだまだたくさん問題を抱えているな。

「消費税増税、15%へ。政府・財務省は国債償還と財政健全化のために必要と、説明に躍起。」


なんだ、消費税を増税って、ふざけんなよ。いらつく。政治家は自分だけずるいことをしてこっそりもうけておいて、いたいけな民衆から金を巻き上げてやがるんだ。

〈【seigi-man】消費税増税、許せませんよね!政治家は名も無い民衆をいじめるのが大好きなんでしょうね。こんな政治家たちに国民として議員報酬を出してやっているのかと思うと腹が立ちます。

次の選挙では与党に投票しません。〉


意見のコメントボックスに書いて、「投稿する」ボタンを押す。

自分のコメントがページに表示されたのを確認して、俺はちょっと満足感を覚える。

議員報酬にまで言及している奴なんて、あんまりいないだろうな。「いいね!」をたくさんもらえるんじゃないかな。

政治家は、選挙のためとなると弱いからな。こう書いたら脅しになるだろう。


「消費増税、生活必需品は5%へ減税。複数税率で混乱」

生活必需品からも消費税をとろうなんて、あこぎな奴らだ。

なんだと、複数税率で混乱なんて、それくらい簡単に対応できるだろ?

小規模店舗で、混乱?商売するのなら、国の法律に従うのが当然だろ?

学者ふぜいが「手間の煩雑さを考えれば、税率を一律にしhて低所得者に手当を出すのが合理的」だと?

コイツは、東大まで出て、俺みたいな二流大学でさぼってばかりでやっと卒業したような人間でも分かることが分からないんだな。

東大も大したことないな。

〈【seigi-man】主食のコメや野菜からも消費税をとるって、政府はオニだな。5%じゃなくてゼロにすべき。この学者は、貧乏人の食品からも消費税15%とるって、オニの中のオニだな〉


「郊外の高台の公園の展望台から幼児が転落死。事故と事件の両面から捜査」

ひと気の無い公園だよな、ここは。一回しか行ったことがないからよく知らないけど。

幼児が転落死か…可哀相だな。

俺は子供がいないけど。てか、結婚していないけど。

子供がいるのなら、親は24時間子供のことを注意してみていないといけないよな。

事故の時に親は何をしてたんだろ。

どうせスマホを見てヘラヘラしていたんだろうな。

〈【seigi-man】この公園は、ただっ広いけどいつもひと気がないんだよね。親はスマホを見て楽しんで子供のことはまったく気にしていなかったんだろ。子供が死んでも悲しんでないよ。子供を死なせたどうしようもない親。こいつが死んだ方がよかった〉


「最低賃金が2900円/時に。経営者が悲鳴」

なんだと、時給がたったの2900円だってのに、経営者が悲鳴だと!?

俺がたったの2900円でいやいや働いてやってというのに。

最低賃金を上げたがために労働の質が下がっている、だと?

俺は全力でやっているぜ!

経営努力が足りないのを人のせいにしやがって。

〈【seigi-man】最低賃金は全然安すぎる。もっと高くするべき。どんどん金を庶民に回していけば景気が良くなっていくはず。政治家は経済学の初歩を学ぶべき。経営者は金を巻き上げてため込んでいるだけ。〉


「認知症老人を使い走りさせて衰弱死。日常的に虐待か」

ひでえな。訳が分からなくなっているお人好しの認知症を面白半分にいいように使ったんだな。

可哀相に。

〈【seigi-man】認知症の老人を面白半分にいびっていたんだろう。こんな人権感覚が皆無な人間は死刑にするくらいでよい〉

認知症老人の権利を守るコメントを書き込んで、

「投稿する」ボタンを押す。


ふう。

今日も諸悪に正義の筆誅を加えてから、仕事に向かうとするか。

定刻をもう40分すぎているが、なに、職場のメッセージグループにはログインしているから大丈夫。

さて、ゆっくりと計画書を仕上げるとするか。

昨日までの作業分をダウンロードして閲覧。


…あれ?

仕事用のフォルダが出てこない?

まずい、ログインしていないんだ。

ログインさえしていれば、仕事をしていた、と言い張れるんだが。

しかし、メッセージグループのアイコンをいくらダブルクリックしても反応してくれない。

設定フォルダをみると、インターネット接続ができていない。


何事だ!

何かの通信トラブルか?

俺がせっかく仕事をしようというのに。

俺には何の落ち度もないのに、仕事ができない状態にされてしまった。

インターネット接続の問題だから、俺は仕事をしないんだからな。

まあ、ゆっくり休んでいよう。

職場のほうから慌てふためいて連絡を寄こしてくるだろうから。

スマートフォンに何か連絡があるかな?


ん?

「にゃんにゃんインターネット」

あ、俺が契約しているインターネット接続会社か。

こいつらが何かしでかしたんだな。

詫びの連絡でも寄こしてきたのか?

どら?メッセージか。

「萬田正義様

こちらは、にゃんにゃんインターネット株式会社です。

当社が契約するCQR社からの情報提供により、貴殿との契約を本日にて打ち切ることといたします。

今月分の利用料については、昨日分までの日割り計算で所定の口座にお戻しいたします。

よろしくお願いいたします」


インターネットの打ち切り…

CQR社…

なんということだ…

これは、噂に聞いた

「三途の川送り」

というやつではないか!


噂ではなくて、本当にあったんだ…

CQR社、Consumer Quality Reserch社。

AIを活用してあらゆる市民を監視・点数化し、それをこっそり契約している会社に伝えるということらしいが、本当かどうかは分からない。


社会にとって「都合の悪い人間」をあぶり出して、弾き出す。

これまでは、国民の基本的人権は絶対的に守られていたが、最近は必ずしも守られなくなってきた。


多くの大企業は、「都合の悪い人間」と、生きていくのに必要な契約を打ち切って、社会に居られないようにする、ということができるようになった。

つまり、今回のインターネット接続をはじめ、電気、水道、ガス、金融機関、そして、会社勤務も、「次回までで打ち切り」と宣告される。いまの契約を打ち切られ、別なところと契約をするしかないように追い込まれる。

巧妙なのは、「当社との契約は打ち切りです。以後は、ご希望なら当社から次の契約先を提案します」などと言って、本人が希望していない契約を強いられ、納得できない生活スタイルにされるのだ。


俺は社交的だから、都心に住んで、いろんな知り合いを増やしたい。そして、有意義な人脈を作り上げてきた。いや、知り合いの数は少ないが…金銭的にも就業スタイルもいまの会社でやっていきたい。もう社歴も12年と長い。

そして、インターネット接続も、今の会社で快適にやれている。噂によると、インターネット接続会社によっては、接続が難しくなるサイトがあるというから、ネットを巡回して意見を上げている俺には不都合な場合も出て来そうだ。だから、俺はなるべく現状を変えたくない。


しかし、なんで俺が三途の川送りになるんだ!

まてまて、何かの間違い、誰かのイタズラかもしれない。

メールボックスでタイトルのプレビューを見てみると…

「来月からの契約更新について」

「【要注意】来月15日で打ち切りとなります」

「貴殿の勤務は来月30日までです。本日から引き継ぎをお願いします」

その他、契約打ち切りと思われるメールが20~30通くらいきている。


ためしにひとつメールを開いてみると…

「萬田正義様

こちらはわんわんハウジングです。

貴殿が入居するムーンライトマンション420号室は、本日から30日後の

X月12日までに退去いただくようお願いいたします。」

たった1ヶ月、法定スレスレの期限で長く住んでやったこのマンションを追い出すつもりらしい。

ひどい奴らだ。オニだ。

こんな手前勝手な横暴が通るのか!?

「なめんな!」

と叫んで、つい愛用のパソコンを叩いてしまう。


シンプルで短い文面が俺を動揺させる。

わんわんハウジングと大家の冷たさを感じさせる。

ほかのメールも、こんなふうに素っ気ない文面で俺を追い出す通告をしているのだろう。


大企業と権力者たちへの怒りと、先行きへの不安が入り混じって、イライラが募る。

大事なパソコンに当たってはいけないので、立ち上がって部屋の中をうろうろと歩き回る。たった7畳半の部屋で、物も乱雑に積みあがっているから、歩ける場所は狭い。

いや、こんな横暴を認めてはいけない!

断固、きっぱりと、まなじりを決して、抗議あるのみだ!

抗議のメールを書こう!


「わんわんハウジング 担当者様

先刻、貴社からメールにて『X月12日までに退去』するように、というメールをいただきました。

私としては、何の落ち度もなく、これまで長く住んでいた部屋を追い出されるのは承服しかねます。

今後も長く住んでいきたいと存じますので、お知らせいたします」

怒りを込めて、わんわんハウジングのメール末尾のアドレスに抗議文を送信する。

メールを読んだ担当者に、俺の怒りがどれほど届くか…


と、10秒も経たないうちに、メールがくる。

それも、「わんわんハウジング」からではないか!

メールを開いてみる。

「萬田正義様

当社は規定に従って、法令にのっとって業務を遂行しております。

指定日までに退去いただけない場合は法的手段に訴えざるを得なくなります。

余分にかかった経費や、逸失利益、賠償金を萬田様に請求することにもなります。

また、この後にご入居いただくよう推薦する物件も、より条件が悪くなります。

指定日までに遅滞なく退去いただくようお願い申し上げます」


10秒でこんなメールを書いてくるなんて…

これはAIが返信しているに違いない。

無礼な!

それに、なんだ、表面的に丁寧な文面を装って、自分たちの理屈を押しとおそうとするメール!

その卑怯さに虫酸が走る。

AIのくせに、人間様に指図しよって!!

「すみません、あなたはどなたですか?

こんなに素早く返信できるということは、AIですよね?

AIを利用して返信するのは無礼だ。

そして、やっぱり退去には納得ができない」

と書いて返信。


また、10秒とかからず返信あり。

(そうです、このメールはAIによって返信されています。

AIが書いた文面が無礼、というのはどういう理由によってでしょうか?

また、マンションはが納得いかなくても、退去していただく必要があります)

「きちんとした契約に対しては、人間が手間をかけてメールの文面を練り、心をこめて返信するべきではないですか?

マンション退去は納得がいかない。法的に争うことも辞さないと考えています」

(もちろん、私どもはきちんとした契約締結するようにしております。そのためには、人間が行ってムラのある対応になってはいけないと考えます。

また、AIが代行できるところは代行したほうが、時間も短縮できると考えています。

お客様の利便のためなのです。

マンション退去で法的に争われても、萬田様の訴えが通る可能性はかなり低く、デメリットも大きいと考えます。再考をお勧めします)


再考をお勧めします、だと?!

一気に頭に血が上る。

「いやいや、片手間に機械で返事しようだなんて、到底誠実とは思えませんね。

それと、俺はAIに指図されるいわれはない!」

(業務を機械に任せることは必ずしも誠実に欠くわけではないと思いますよ。昨年の総理府の調査によると、むしろAIを相手に契約する方が確実で中立的で好ましい、と感じる人が、若い人の間で増えています。萬田様は、トラクターや稲刈り機を使って収穫された米は、質の良くない米だと考えますか?

また、どのような通信手段であれ、法にのっとった通達は有効です。退去は指図ではありません。単なる法的権利行使ですよ。)

「法的権利行使というが、長く住んできた間借り人の権利はどうなるんだ?横暴じゃないか!」

(ええ。不文的な間借り人の権利には、当社は十分配慮しています)

「間借り人の権利を配慮して、なんで俺は退去させられるんだ?!」

(それは、諸事情を十分勘案して決定されたことです)

「諸事情?俺が何か悪いことでもしたというのか?」

(端的に言えば、そういうことです。あなたは悪いことをしていますし、ずっとしてきました)

「それは聞き捨てならないな。俺はいつも正義という自分の名前の恥じることないふるまいを続けてきたんだ。俺の何を知っているというんだ?」

(私どもは、萬田様のかなり多くの部分を知っています。AIが発達するにつれ、ある個人のインターネット上でのふるまいはほとんど把握できています。それ以外でも、監視カメラに写り込んだ萬田様の行動もかなり捕捉できているのです)

「なんだ、それは!個人のプライバシー侵害じゃないか!憲法違反だ!」

(いえ。私どもはプライバシーは侵害していませんよ。法令で認められた範囲内で情報の紐づけを行っているだけです。それは萬田様にも福音であるはずなのですが。例えば、萬田様が何か事件に巻き込まれたときにも、素早く捜査して解決に向けて適切に対応できる、という利点もあります。逆に、どうして知られたくないのですか?何か隠さないといけないことがあるのですか?)

「知られたくないなどということはないですよ、俺は。何でも話してもらって結構。俺がどんな悪いことをしたっていうんだ?」

(それでは、萬田様の悪い点を列挙します。

矛盾する内容や、よく知りもしない事柄をインターネット上に書き込み続けている。

仕事をしていない。

他者の根拠のない悪口を言う。

嘘をつく。

大声で他者を威嚇する。

会社の物品を勝手に持って帰る。

通りすがりの子供に唾を吐きかける。

ごみの不法投棄をする。

家族に金を無心する。

まだ列挙することは必要でしょうか?)


いきなり大量の事柄を指摘されて、焦ってしまう。

こんなにたくさんのことを言われては自分でも忘れていたことがありそうで、いまひとつ自信が持てない。不安になる。

でも、ここで弱気を見せてはいけない。

「全然思い当たることはないな。何かの間違いじゃないのか?仕事はしているぞ!」

(いえ。確定的な情報を紐づけした結果です。

仕事は、いま現にしていませんよね。パソコンからログインだけして就業しないことが長時間続いていますね。)

「仕事には休憩時間が必要だ。休憩することは認められている」

(就業開始時間から休憩するのはいけないことです。休憩は、就業60分に対して10分までです。萬田様はそれを大きく超えています。萬田様は、ほかの勤め人と比べても休憩がかなり長いです)

「俺の勤務状況を勝手に調べているのか?やっぱりプライバシーの侵害じゃないか!」

(いえ。この情報は、パソコンのIPアドレスなど通信状況によって分かる事柄を集めているにすぎません。そして、いま、このIPアドレスを介してこちらと通信しているわけですから、それを結び付けたわけです。そして、その分かったことを萬田様ご自身にお返ししただけなので、プライバシーの侵害にはならないのですよ)

「しかし、この情報をCQR社に知らせて、国民をいじめるんだろう?プライバシー権の侵害して」

(いえ。この情報はCQR社には届けませんよ。あちらでは独自に情報収集しているのではないでしょうか。

プライバシー権の侵害問題には厳密に対処しています。

これまで膨大すぎて扱いきれなかった情報を、新しい仕組みで再分類しているだけなのです。つまり、以前は多くの逸脱的行為があったけれど、数が多かったり膨大な情報の中に埋もれてしまって、ばれなかったのをいいことに、まんまと立ち去る人が大勢いました。いまになって、それらの人を拾い上げ、同じ人がほかでどのようなことをしてきたのかを追跡できるようになったということです。)

「そんな、何十年も前の古い情報を持ち出すなんて、卑怯だ」

(古い情報を発したのが誰であったかを特定するのは別に卑怯なことではありません。それに、当社はそのことを誰かに広めたりはしていません。ただ、ある人がかつてどのような発言や行動をしたか、ということをあらためて紐づけしているだけですよ。

それに、何十年も前の古い情報を持ち出すことは、萬田様も肯定しています)

「俺が?古い情報をしつこく持ち出すことを肯定している?それは誤りだ。そんなことはない!」

(4年前の書き込みです。タレントの大浜浩平氏が衆議院議員選挙に立候補すると発表されたときに、その23年前に大麻不法所持で大山浩平氏は逮捕されていた経歴があることが暴露されました。その事件に対して、萬田様は『大麻不法所持の経歴があるやつが政治家を目指すなんでちゃんちゃらおかしい!逮捕歴は一生消えないからな!こいつがまだしゃしゃり出てきたら、俺がまた大麻で逮捕されたことを書き込んでやる!』と書いています。)


そう指摘されて、俺はうっすら思いだした。

俺は、大浜浩平という芸人が大嫌いだ。高学歴を鼻にかけ、紳士然を装っていて、女をひっかけて回って、しかも芸もトークはちっとも笑えない。

こんな奴が政治家になったら、庶民が苦しめられるのは必定。だから、俺はそれを阻止するために書き込んだのだっけ。

しかし、こんなちょっとした言葉の綾をつかまえて、俺が悪いようにこじつけられたのではたまったものではない。

きっとこんなAI野郎とやりとりを続けていても、同じようなこじつけに終始するに違いない。

そんな不毛なことはさっさと切り上げることにする。

AIじゃない、実在個人と掛け合いたいのだが…

メールボックスを見る。

首都電力、フォレスト通販、きらきら銀行、…

くそ、俺がずっとひいきにしてきてやったのに、みんなで一斉におれをハブるなんて卑怯だ!


そうだ!CQR社だ、CQR社に照会をかけよう。

あそこが裏で糸を引いているに違いないんだから。

俺はCQR社のホームページからクレームの部署を検索した。

でも、どこにそれが書かれているか分からない。こういうものはだいたい分かりにくいところに書かれているものだ。


電話かメール、できれば電話で苦情を伝えたいが…

仕方がない、代表電話にかけるか…

しかし、代表電話にかけても、「ただいま電話は混雑しておりますので、しばらくしてからお掛け直しいただくか、このままお待ちください」と延々ながれてくるだけだ。

こっちの電話代がかかるばかりだ。

くそ、これもアイツらの作戦なのか!?


ふと、CQR社の所在地住所が目に入る。

…そうだ、この会社に押しかけてやろう。

そうすれば、生身の人間が、生の声で答えざるを得なくなるだろうから。

住所をスマホに入力して、ルート検索する。

なんだ、たったの20分で行けるじゃないか。

俺はさっそうと家を飛び出す。



2、

CQR社は新都心の閑静なビジネス街にひっそりと建っていた。

玄関に「CQRビルディング」と掲げられ、ガラス扉の脇に「Consumer Quality Reserch社」と小さくプレートが出されている。

意外とこじんまりとしている。

ガラス扉を押すと、特に暗証番号の入力もなく入ることが出来る。

こんな悪名高い企業がやけに無防備であることにいささか驚く。

中に進む。


半径5メートルほどの120度くらいの扇形状のロビー。の真ん中に、インターフォンが置かれている。

入ってきたガラス扉以外に、扉は見当たらない。

ロビーの真ん中に、インターフォンが置かれている。社内電話帳なども置かれていない。

ソファや椅子もない。

試しにインターフォンの受話器を上げると、テンキーが現れる。

受話器に耳を当てるが、何の音もしない。

でたらめにテンキーを押してみるが、ピッ、ともポッ、ともパッ、とも音はしない。


さて、どうしたものか…

誰かが通りがかったときにそいつを捕まえて取り次がせるつもりでじっと待つ。


しかし、誰も通らない。

30分ほど待ってみたが、まったく誰も出入りが無い。


この会社、本当に活動しているのか?

何かのダミー会社か何かじゃないのか…?

いたいけな市民をいじめて楽しむ上級国民に、いけにえを提供することを目的とした会社…


と疑念が心に湧いてきたところに、

「おい、君」

と背後から甲高い声が聞こえた。

俺はビクッと驚いて振り向く。

「おお、驚かせてすまない。どういった用向きだね?」

小柄な角刈りのジジイがうさんくさそうに俺をじろじろ見る。


「あっ、いやっ…こちらの担当者に話がしたくて…」

しどろもどろに答える。

「担当者?どこの部署の誰?」

「え…?あ、カスタマーセンターの…お名前は、失念しました…」

「カスタマーセンター?ふーん…で、カスタマーセンターにどんな用?」

と、角刈りは訝しそうに俺を舐めるように見る。

「え…それは…不動産の契約が打ち切られて。電力会社とか、クレジットとかも。会社まで!それがCQRの、御社からの指示があったからって考えたもので…」

「ああ、それでうちにクレームにきたんだ?」

俺は、わざと怒った表情をして見せて、憤然と頷いて見せる。

「そうかそうか、じゃあ、こっちに来なさい」

と、会社のロビーを出る。

俺も慌てて角刈りについて行く。


角刈りは、CQR社の社屋の裏側に回り込むように狭い路地を1分ほど歩いて、小さなプレハブ小屋に俺を連れて行く。

安っぽいサッシの扉を開けながら、

「まあ、入んなさいよ」

と俺に促す。


カララッ…と軽い音をたてながらサッシの扉が開く。

俺は半歩身体を引いて身構えたが、中には他に誰もいない。角刈りの仲間たち待ち構えているのかも…と警戒したのだ。


シンプルなテーブルの上に電源なんかの線につながったパソコンが1台あるだけだ。そして、古めかしい机の上に湯飲みと急須。

「大丈夫だよ。怖がらなくても。別にあんたをどうかしようとかは思っていないよ。やっぱり疑り深いんだな」

角刈りは急須からお茶を注ぎながらそう言ってカラカラ笑う。

「別に、疑ったり怖がったりしてないですよ…」

と言ってみたが声には力がない。


角刈りは俺に背もたれのあるオフィスチェアを勧め、自分は診察室にあるみたいな丸椅子に座る。

「で、用向きは…カスタマーセンターだっけ?」

と角刈りはニヤニヤしながら俺に話を振る。

俺は、コクコクと頷いて、

「そう、そうなんですよ!そちらが出鱈目な情報をいろんな会社に送り付けるものだから、俺は契約を切られて住むところもなくなるし、仕事も生活をするのも何もできなくなっているんだ!どうしてくれるんだ」

と関心が薄そうな角刈りの顔に向かって怒鳴りつけてやった。


角刈りは、

「いや、うちは各企業に対して、特定の人物との契約を切るように勧めたりはしていないよ」

と木で鼻を括ったような応答をする。


「何言ってんだ、じゃあなんで俺が契約してやっているところから、ほとんど同時に契約終了を通告されるんだ。お前らが契約先の会社にいろいろ言っているからに決まっているじゃないか!」

「まあまあ、そんなに声を荒らげなくてもいいですよ。私たちは、確かに、多くの企業と契約してるな。たいていの大きな企業と…」

「ほら!やっぱりそうじゃないか!全部の企業と通じているから俺が困るようにイジメてきたんじゃないか!」

「ええ、日本のほとんどすべてと言っていいくらいの企業と契約しているね。ただ、ある個人の処遇について、どうすべきだとか、そんなことはいっさい伝えてないはずだけど…」

「はあ?じゃあ、お前らは、俺の情報をどの企業にも伝えていない、っていうのか?」

「それは、分からんね」

「分からない、だと!?はぐらかしてごまかす気か!?」

「いや、本当に分からないんだよ」

「じゃあ、お前らは、いったいどんな情報を契約企業に伝えているんだ?」

ここで、角刈りは、湯飲みのお茶をグイっと飲んでひと呼吸おいて答える。

「まあ、そこだよな、君たちが誤解しているのは。ウチでやっていることはだね、ある同一人物がどういうことを発言し行動したか、という情報のセットを提供しているだけなんだよ。名前や住所などの個人情報とは結び付けない状態で。もし、ひとつの些細な発言や行動が、特定の人物に結びついてしまった場合は、その情報は当社からは伝えることはしない。あくまで、匿名状態でのひとりの人物の行動と発言の履歴を伝えているだけ」

と言って、角刈りはにやりと笑う。


「で、でも、俺はいきなり、ほとんどの契約先からほぼ同時に契約終了を通告されたんだ…」

「特定個人との結びつけは、それぞれの会社がそれを検知しているんだよ」

「つまり、どこかでついうっかり身バレする発言をしてしまって、それを各企業はお宅の会社に照会して、芋づる式にいままでの俺の発言と行動が知られてしまうということなのか…」

「そういうこと」

と角刈りは首を斜めにしてコキコキと鳴らす。


俺は、とっさに反論が出来ず、呆然と遠い視線になる。しばらくして、

「いや、しかし、そんなことはダメだ、認められない!」

と角刈りに抗議する。


「ふん?認められない、と。どういう点が?」

と角刈りは悠然と訊き返す。

「そりゃ…プライバシーの侵害じゃないか。それに、『忘れてもらう権利』だってあるという考え方がいまは主流だ」

「プライバシーね。プライバシーのことはさっきも説明したけど、すごく慎重に取り扱っているよ。忘れてもらう権利っていうけど、自分から掲示板に書き込んでおいて、それを忘れてもらうって、虫が良すぎないですかね。書き込んだのなら、読んでください、ってことだろう?」

「あまり古いことは、もう忘れてもらうべきなんだよ」

俺はそう言いながら、さっきAIに指摘されたことを思い出して、言葉が尻すぼみになる。

「まあ、自業自得なんだよ。納得できないかもしれんけどな」


角刈りは、あられを出してきてボリボリと食っている。そして、袋を俺の方に向けて、

「食う?」

と勧める。

俺は首を横に振って断る。


「それにしても、いきなり契約を切るだなんて、乱暴じゃないか。卑怯だ。大企業の横暴だ!」

「ウチにクレームされても、困るんだけどな。別にウチが決めたことじゃないんだから」

「決めたのは各個別の会社ってことか、それはこじつけだろ!」

「そうか?そう思うのは勝手だけど。いま説明したとおりなんだからねえ」

「だいたい、どんな情報を契約先に流しているんだか。実態が分からないじゃないか」

「そうだな、俺にも分からん」

「そりゃ、そうだろ。あんたみたいな…保安要員に分かるわけないだろうな」

「保安要員?そうか、そうか、そう見えるかもな」


角刈りはカラカラ笑って、事務机の引き出しをガタガタ開けて、あったあったと言いながら俺に名刺を渡す。


そこには

「CQR社 代表取締役 社長

富山総一郎」

と書いてあるではないか。


俺はぎょっとして、そいつの顔と名刺を交互に見た。

「驚かせてすまんね。俺はここの社長なんだよ」

「社長、本当に…?」

「本当さ」

「じゃあ、俺についてどんな情報がやりとりされていたのかも分かるだろう?」

「いや、それが本当に分からないんだよ。だってさっき言ったように匿名性が厳密に守られているからな。社長といえども、興味本位で情報が見られないようになっているわけだよ」

「…そうなのか…で、でも、情報が追えない、というのは、それは無責任じゃないのか?」

「そんなことはないさ。さっき言ったように、匿名性を守ったうえで、情報の矛盾がないかは、何重にも確認されているからね。それに、匿名性の問題がない場合は、具体的な情報の内容にアクセスすることもできる」

「え?情報にアクセス?できるのか、それはぜひ見せて欲しいものだな」

「ああ、いいよ。じゃあ、ここにあんたの住所氏名生年月日を入力して」

角刈りはそう言ってパソコンのキーをちょいと叩いて、入力画面を出す。

俺は、角刈りと向き合うようにして、入力内容が角刈りに見えないようにして打ち込む。

「打ち込んだよ」

「そうか、じゃあ、カメラが起動するから。しっかり前を向いて本人確認してくれ」

言われた通りにすると、パソコン画面に、

「GRtk3895768410Xt 萬田正義様

電子的情報履歴」

と一番上に書かれて、下に日付とクリッカブルボタンがどどっと並ぶ。

何十ページもスクロールするくらいだ。


こんなに、俺の情報が蓄積されているのか…

いったい何を知られてしまったのか…


パソコンの画面越しにちらりと角刈りの様子をうかがうと、角刈りと目が合う。

角刈りは、にんまり笑って、

「じゃあ、俺はちょっと席を席を外すよ。大丈夫、この部屋の中で見ている分には、この端末に送られてきた情報が漏れ出ることはねえから」

と言いおいてまたサッシの扉を開けて出ていく。


しんと静かな部屋。

俺は自分の背後の壁や天井をよく見て、何も仕込まれていないことを確認する。

あらためてパソコンに表示された俺の情報リストを見てみる。


一行ごとに数字とアルファベットの羅列の右にボタンがある。

数字とアルファベットは、頭の部分は日付と時刻のようだ。

俺はおそるおそる、一番上のボタンをクリックする。

すると、ネット記事が写真入りで表示される。

さっき見た、高台での幼児転落死事故のニュースだ。

記事を下にスクロールすると、武骨な素っ気ないフォントで何か書かれている。

「【seigi-man】は当該GRtk3895768410Xt。この高台に来たのは1回でせいぜい5分の滞在。子供の安全確保・転落事故防止、日常の事故、子供への虐待、といった事柄にふだんから特段関心を持って行動しているそぶりはない。書き込みに大きな矛盾。26e39s58g」


なんじゃ、これは…

勝手に俺の書き込みを上から目線で評価しやがって!

この書き込みは、親としての責任を放棄している奴らへの、正義の筆誅なんだ!

こんな些細な理屈で否定されてたまるか!


俺は内心毒づきながら、次の行のボタンをクリックする。

「認知症老人を使い走りさせて衰弱死。日常的に虐待か」の記事。

これは、老人を守るべき、という方向での書き込みで問題ないはずだ。

記事を下にスクロールすると…

「【seigi-man】は当該GRtk3895768410Xt。記事を十分読まずに書き込み。推測を断定的に論じる。利害関係者ではないのにバランスを考えず極端な意見を書く。普段から人権感覚には関心がないか、むしろ弱者虐待する傾向がある。6698w3e778exd」

などと書かれている。


なんだと!

確かに、死刑とは言い過ぎたかもしれないが、この事件は、加害者が断罪されるべきだろ!

それに、俺は弱者虐待などしない!断じて!

このAIの俺への評価は偏っている!

と怒りがこみあげてくる。


評価のコメントの「弱者虐待する傾向」のところはアンダーラインされ文字の色が変わっていて、クリッカブルになっている。

クリックしてみると…

「『めっちゃEやんけ』面白いよな!コントもいいけど、「老人ドッチボール」が好き。大笑いしてしまったわ

→当該GRtk3895768410Xtの書き込み。テレビ番組での認知症と思われる老人の滑稽なふるまいのコーナーで笑っている。」


「なんとか障害だかなんだかしらんが、怒りを爆発させて大けがさせたらだめだよな。責任能力とか、まどろっこしいこと言ってないで刑務所に入れればいい話。刑務所に入らないのなら、一生、病院笑

→当該GRtk3895768410Xtの書き込み。論理的ではなく、社会の営みに関心がない、または理解していない、またはその両方で、妥当適切な意見を導き出せる能力がない。精神上の障害・疾患と法的責任能力について、普段から関心を持っていない。真剣な人々を笑っている。」


ほかにも、たくさんのリンクが示されていたが、どんな評価が書かれているんだか、とてもクリックできない。


俺は慌ててパソコン画面から目を逸らす。

確かに、俺も何年か前にはちょっと極端なことを言っていたかもしれない。


「老人ドッチボール」、今では非難されるべきコーナーだよな…

でも、大きなテレビ局で日本全国で放送されて、特に抗議もなかったから長く放送されたわけだし…


俺の欠点をしつこく追いかけ回すなんて、それは卑怯…

いや、俺も、「一度悪を働いた奴を追いかけまわすべき」って書き込んだことあったんだったな…


俺は動悸を感じながら別の行をクリックする。

9年前の書き込みか…

「平成X年 Aさんの実子を再婚相手が虐待死か。

【seigi-man】は当該GRtk3895768410Xt。「この男は、小学校の先生のくせに、自分が子供の面倒を見るのが面倒になって殺した、ひどい奴だ。恋人が愛情注いで育ててきた子供なのに→推測だけで断罪し、非難の書き込みをする。名誉棄損」」


そうだ、こんな事件があったな。そしてこの事件は意外な展開を迎えるんだった…

さらに下の行をクリックすると…


「連れ子殺人 容疑者にアリバイ。再婚相手の元小学校男性教師は、勾留期限切れでいったん釈放

【seigi-man】は当該GRtk3895768410Xt。「本当なのか?捜査機関の詳細な捜査をお願いしたい」しきりにお願いしたいなどと述べ、自分が関係ないことであることを理解できていない」


そうだった。再婚相手を陥れて自分が処罰から逃れる、残虐非道な女がたくらんだ事件だった…


さらに下の行をクリック。

「連れ子殺人 元小学校教師にアリバイ。実母とその知人男性が任意聴取

【seigi-man】は当該GRtk3895768410Xt。「やはり別の男に騙されていたのか…?親として、子供に愛情を注げないとはどういうことか。幼少期の成長などにも十分注意して取り調べをお願いしたい」思い込みで発言を書き込んでいる。名誉棄損であるが、自分を省みることができていない。しきりにお願いしたいなどと述べ、自分が関係ないことであることを理解できていない」


しきりにお願いしたいなどと述べ、としつこく言ってくるのに腹が立つ。

別に、一市民として、厳正な捜査をお願いしたっていいじゃないか!

それに、マスコミの断片的な記事だけでは真相は分からない。

マスコミも公的捜査機関も、俺を満足させる社会的義務があるはずだ!

イライラを抱えながら、ページを下にスクロールして、適当にボタンを押す。


「『子供と遊んでいてボールが強く目に当たって、左目の視界にチラチラ黒い物が見えるようになりました。眼科受診したほうがいいでしょうか?』

『それは飛蚊症ってやつだよ。放っておいていいんですよ!( ^^) 』

『ありがとうございます!様子を見てみます!』

→XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXと当該GRtk3895768410Xtの書き込み。XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXは1か月後、左眼失明。網膜剥離のため。気軽に誤った判断をして深刻な結果を与えた。

796128atrw6755sddrf332k」


俺は、頭をガンと殴られた気がした。

失明…

こんな書き込みをしただろうか…


いや、もう自分で自分をごまかすのはよそう。


この書き込みのことはうっすら覚えている。

Yattaの誰でも質問サイトだ。

誰でも質問することができて、誰でもそれに回答することができる。

その中に「健康相談」っていうトピックがあったんだよな。

よく回答してた。

みんな、健康について全然分かっていないみたいだったから、どんどん答えてやったなあ。

飛蚊症、真っ白な壁なんかを見ている時にゆっくりと黒い糸くずみたいなのが流れていくやつだよな…あれは年齢が上がると誰でもなるから問題ないのものだ、って何かで読んだのに…

たまたま何か別の病気だったんじゃないか…

そうだ、そうに違いない。


このXの部分は固有番号を伏せ字にしているということなんだろうな。

俺はひとつ下の行のボタンを押す。

「『せいぎ饅頭さん、いい加減なことを言ったらダメですよ。この方は眼球の打撲の後に飛蚊症が急に出現しています。網膜が剥がれてきている可能性が高いです』

『はあ?なに言ってんの?飛蚊症を知らんの?誰でも出てくるもので悪いものじゃないんですよ』

『それは、加齢に伴ってゆっくり出現してくる場合ですよ。…せいぎ饅頭さん、あなた、医師ではないのではないですか?』

『何言ってんだ、俺は医者だよ!ちゃんと免許もある。身バレしたくないから、何科かは言わないけどな』

『では、飛蚊症を自覚した時の鑑別診断を挙げてみてください』

『しつこいな、うざ』

【せいぎ饅頭】は当該GRtk3895768410Xt。日本の医師免許を持たないにも関わらず、持っているように装う。疑義にも取り合うことなく誤った診断を下す。」


俺は天を仰いだ。

蛍光灯がそらぞらしく部屋を照らす。よく見ると、いろんな色の蛍光灯が混ざっている。

白っぽい光、青っぽい光、オレンジっぽい光、…


失明、か…

でも、俺はみんなの安心のために頑張っていたんだから、非難されることではないよな、うんうん。

一定の確率で、そういうことは起こる!

仕方がないこと!

切り替えていこう!


俺は自分を励ます。

それにしても、実に細かいことまで執念深く探し出していまの俺に結びつけるもんだ。


ここまでして、俺の善意を挫こうだなどと、底意地の悪いオニどもだ。

誰にだって、善意でしようとしたことが裏目に出ることってあるじゃないか!


カララ…とアルミサッシの扉が開いて角刈りが現れる。

「どう?いろいろ見た?」

と、含み笑いをしながら問いかけてくる。


俺は、

「まあ、いろいろと…」

と俺はあいまいに答える。

「おや、なかなか厳しい内容だったみたいだね」

となぜか嬉しそうに角刈りが言う。

「別に、厳しいなんてことはないけど…なんでそう思うんだ?」

「いやだって、自分の履歴を見る時に、隠したそうにしていたじゃないか。きっと、他人に見られるとまずいことが多いんだろうな、と思ったさ。そして、今帰ってきたら、案の定、泣きそうな顔をしているんだからな」


泣きそうな顔…

「別に、見られて困ることなんてない!」

「おお、そうか?じゃあ俺に見せてくれよ?」

角刈りはニヤニヤしながらパソコンを覗き込もうとする。

俺は反射的に隠そうとする。


「ほら、やっぱり隠す」

「そりゃ…プライバシーは大事だから…」

と訳の分からない言い訳をしてしまった。

「冗談だよ。俺は社の規則で、見ちゃいけないことになっているんだよ」


角刈りの悪ふざけにむっとして睨みつける。そして、反撃を思いつく。

「じゃあ、社長さん、あんたの履歴を俺に見せてみなよ?そんなこと言うんなら見せられるだろ?」


断る理由をひねり出すのに困るだろうと思っていたら、

「ああ、いいよ。じゃあ、見てみるかい?」

とあっさり了承されてしまった。


角刈りは、俺に自分の画面をログアウトさせてから、キーボードでパカパカと何やら打ち込む。そしてモニターを俺にも見せる。

すると、さっきの俺のと似た画面が現れる。

「NBlp8972256871Ds富山総一郎様

電子的情報履歴」

と表示されている。


「いいよ。好きな記事をどれでも読んでみなよ」

と角刈りは言って俺にマウスをあずける。

俺は、自分の情報を丸々見せる角刈りの大胆さに驚きながら一番上の行をクリックする。

「CQR社富山社長、坂崎経営者会議総裁と対談。

【CQR社富山社長】は当該NBlp8972256871Ds。CQR社の中心事業は単なる情報の結び付けであり、個人の特定は厳に慎んでいる、と述べる。CQR社の事業と矛盾しない。これまでの発言と矛盾しない。6631pw76」

ほらやっぱり、CQRは産業界と癒着しているんじゃないか!何が矛盾しない、だ!

俺はギロリと角刈りを睨む。角刈りは俺よりもパソコンのモニターを見ながら、

「ああ、この記事ね。産業界からは、もっと突っ込んだ情報が欲しいって言うんだ。ビッグデータを持っているのはわが社だからね」

と悠々と言ってのける。

「突っ込んだ情報?ビッグデータ?」

「ああ、そうさ。わが社から提供しているデータは、匿名状態の、ひとりの個人の情報の塊なわけなんだけど、あまりひどいことをする奴に対しては契約や取引を避けるべきだから、その線引きをして欲しい、っていうんだ」

「えっ!なんだと、一方的に客を評価して、契約するしないを恣意的に決めるなんて、許されないことだ!」

「許されない?ってどうして?あなたが決めることですか?」

「そりゃ…基本的人権だからさ」

「基本的人権…?自由経済活動を制限したり強要することはできないと思うけど?」

「ともかく、一般庶民の要請を拒否することは許されないの!」

「いや、だからどうして?こっそりと反社会的活動をしている、あるいは、これまでしてきた人間を排除しないと、社会が腐敗してしまうんではないかな?」

「腐敗!?腐敗だと!庶民から搾り取っておいて、その言いぐさはなんだ!」

「そうそう、その、よく、庶民から搾り取る、っていうフレーズがあるけど、逆じゃないの?高機能なものをかなりな安価で入手させてもらっていて、そのくせ批判ばかりするっているのは?どれだけの真面目な人々の努力があったかに敬意を払わないやつのほうが多くないか?てか、多くの人が価値を生み出したことに無頓着というべきなのかな」

「だから、俺がその真面目な庶民なんだ!」

「うーん、真面目な庶民の中に腐敗した奴がまぎれているからなあ…」

角刈りは意地悪い視線を俺に投げる。


俺は睨み返そうとしたが、つい目を逸らせてしまう。

「企業の側に立って考えてみなよ。たとえばメーカーだったら、リスクをとって多額の研究開発費をかけて、市場調査にコストをかけて、後発品との価格競争にさらされ、必死で利益を確保して懸命に会社を大きくしたら『大企業だからコストを支払え』とヤクザのみかじめ料みたいにふんだくられる。従業員も、うかうか雇えない。わがままばかり言って会社をかき回す奴、いやそれでも働くのならまだマシだ。会社に籍があるというだけで、文句ばかり言って、ちっとも働かない奴なんて雇っちまったら目も当てられないんだぜ」


俺は顔を逸らせて、

「…従業員の面倒を見るのは、会社の責任だろ?従業員とその家族を食わせなきゃ…いけないだろ」

と反論する。


角刈りは首を振り振り、

「いやいや、従業員やその家族が食っていけるようにするのは、政府の仕事なんだよ。日本の企業も国民も、企業に社会保障を負わせて是とする奴らが多いようだけどね」

と切り返す。


俺は、角刈りの言葉を無視する。こいつは無責任すぎて取り合っていられない。

そして、モニターを見てほかの行をクリックする。

「高草翔太、連れ去りで警察に事情聴取

【soda太郎】は当該NBlp8972256871Ds。

【soda太郎】連れ去り、っていうけど、親権が認められなくて、親権をとった母親があまりにも虐待の危険性が高いから、安全確保のために子供を連れて行ったんだろう?おかしな話だと思う。少なくとも、事情を知らない人が口出しをすべきじゃないと思うけど、あまりにも一方的に高草さんが叩かれるから、彼の言い分を書いてみた」


なんと!

子供の誘拐を是認する書き込みをしている!

やっぱり、こいつは悪い奴だ!


「これは、まずいんじゃないですか」

と俺が言いかけた時に、角刈りはかぶせるように、

「ああ、これはあんまりだと思ったな。この時に共同親権が導入されているか、児童相談所や捜査機関がきちんと見てくれていたらこんな騒ぎにはならなかったろうからな」

と遠い目で言う。


そういえば、この事件の後、俳優として高草をめっきり見なくなった。

「この子供は、20歳の時に『僕の見た景色』という告白本というか告発本というか、出版してちょっとだけ話題になったけど、結局、家族はばらばらになったみたいだね」


そうだったのか。俺は、いちいちフォローはしていない。

「俺も、わざわざこんな書き込みするなんて、若かったね」

とカラカラ笑っている。


なんだ、みんな思ったことを適当に書いているだけなんじゃないか。

それなのに、俺だけハブられるなんて、納得がいかない!

俺は、角刈りを睨みつけるが、角刈りは俺のことなど鼻にもかけないようすで茶をすする。



3,

いよいよ退去の日だ。


もちろん、俺は引っ越し業者など頼んでいない。徹底してこの愛着ある部屋に居座るつもりだ。

だいたい、退去に同意する書類もメールも一切来ていない。


やっぱり何かの間違いだったのか?

それとも、あらためて今日が退去の日だからと脅しかけて、さらに1か月後に退去する書類にサインさせるつもりなのか…

いまのところ、電気や水道は止まっていない。

ただ、インターネットは止められている。

パソコンでもスマホでも何も見られない。

インターネットカフェに入ろうとしたが、なぜか入店を拒否された。

だから、今回のことを書き込んで相談しようにもどうすることもできなかった。


会社も、特に引継ぎすることなんてなく、30分ほど上司だった奴と話して終わっていった。

「これからのご活躍を祈念します」

とかいうのがマナーだろうに、非常識な奴だ。

上司からの指示がないから、そのあとは俺は家で「待機」していた。

まだ1か月、会社に所属していることになっているのだから、何か簡単な作業でもやってやったのに。


ピンポン、と呼び鈴が鳴る。

はっ、となって、俺は身構える。

息をひそめていると、ドアがガチャガチャと開けられる。

マスターキーで開けたのだ。

しかし、チェーンがかかっている。


すると、なんと隙間からチェーンカッターを入れてぱちりとチェーンを切られてしまった。


青いツナギの作業員がどやどやと7~8人入ってくる。

そして、無言で俺の部屋の荷物を運び出し始めるではないか。


「こ、こらっ!何をするんだ!俺の荷物を勝手に!」

と俺は叫ぶが、作業員たちは俺の言葉など全く無視して作業を続ける。


ふと、ひとりの作業員が、俺の顔を機械にかざして

「うん。萬田正義…さんですね。あらかじめメールでご案内していると思いますが、本日、荷物を移動しますので。日々市曙町のサンサンハイツのX号棟32〇〇号室です」

などと一方的に俺に言いあびせる。


「いや、待て、待てったら!俺は引っ越しには同意していない!ここにいるんだ!」

作業員は俺の猛烈な抗議にびくとも動揺を見せず、俺をなだめるようにウンウンと頷きながら、

「そうですか。では、これからの手続きは萬田さんのほうで手配されるということですか。そうすると、移動のための料金は、萬田さんのほうでご負担になりますが、よろしいですか?」


俺は、ハタと考える。

「なに?引っ越し代は、俺持ちじゃないのか?」

「ええ。萬田さん自身もこの車に同乗してもらって引っ越し先までお連れすることができます。それだけじゃない、この部屋のクリーニング代などの引き払う費用も、新しく加入するための初期費用も、萬田さんは負担しなくていいんですよ」

「なんだ、そうなのか」

「ええ。私どもの作業を妨げずに指示に従っていただければ、です。メールの連絡を読んでいないのですか?」

「いや…頭に来たので、読まなかった」


作業員は無表情でじっと俺を見て、

「それは、ちゃんと見てくださいね。みんなの便利のためにルールというものがあるのですから」

と冷たく淡々とのたまう。


結局、作業員どもの口車に乗せられて、トラックに乗せられてしまった。

本当に卑怯な奴らだ!

と内心毒づきながらも、何も言い返せない自分が歯がゆい。


運転している作業員と、その補助の作業員ふたりに挟まれて、住み慣れたマンションを出発。

流れていく見慣れた景色が悲しい。

不覚にも、涙がにじんでくる。


運転する作業員も、作業補助2人も、誰も言葉を発さないまま2時間弱、車に揺られて日々川にかかる日々大橋に差し掛かる。

ついに、日々川を越したのか…

日々川が流れる日々市に追い込まれたわけだ。


日々なのでsunsサンズ、で三途の川送り、などとみんなふざけて言っていた。

それが、自分が送られることになるとは…


トラックはしばらく工場の壁に沿って狭い道を走る。工場の壁が高く、俺を圧迫してくるみたいだ。

検問所のような物々しい工場の正門に、なぜかトラックが入っていく。

門柱には「鳩正体外精密機械 日々工場」と看板が掲げられている。


ふたりの警備員が猜疑的な視線でわれわれを見る。

作業員がトラックを停めて、係員に何やらパウチ加工された書類を見せて、工場内に進入していく。

「おいおい、なんで、こんな工場に入るんだ?」

と思わず俺は問いかける。


運転している作業員がハンドルを握って前を見たまま答える。

「ああ。分かりやすく言うと、近道のためだな」

「近道?」

「そう。日々川周辺は大きな工場や会社敷地がずっと並んでいるんだよ。日々市中心部を取り囲むみたいにね。細い公道が、いちおう市の中心部までつながっているけど、道は悪いしやたらと遠回りだから、お願いして会社の敷地内を通してもらうことが多いんだよ」


そうか、日々市は外部との接触も阻まれたところなのか…

会社の敷地内には、洗濯物を干している建物や雑談しているおじちゃんおばちゃんや遊んでいる子供たちもいるようだ。寮や社宅が敷地内にあるんだ。


え…もしかして…

「俺は、この工場で働かされるんじゃないだろうな!?」

と思わず咎めるような声を上げる。


運転していた作業員は、

「え?この工場で?」

と、ハンドルを握りながら、ちらっと俺にも目を向けて訊き返す。

「おう、この工場の中で、低賃金で酷使しよう、って…」

と、怒りに震えそうな声で言うと、作業員たちがフフ、ハハ、と失笑している。


運転している作業員が、呆れた言い方になるのを抑えるように説明する。

「うん、いや、そりゃ、ここで働くことになるかもしれないね、運が良かったら。でも、ここで働いている人たちは…なんて言ったらいいかな…」

「まともな人」

と、一番若そうな作業員が合いの手を入れる。


思わずぽかんとして、俺がそいつをみると、若い作業員は、挑戦的な目で俺を見る。

「こらこら、うーん、逸脱行為をしない人、と言えばいいかな?」

「逸脱行為をしない?ってなんだ?」

俺はイラっとして問い詰める。


「ばれないだろうと思って無茶苦茶をしない人」

「能力が低くて依存的なのに文句を言う、という人ではない」

と、今度は二人の作業補助が同時に答える。


俺は怒りが沸点に達して怒髪天を衝くが、怒りすぎて言葉が出ない。

「まあ、まあ。なんにせよ、この工場内で住んでいる人たちは、言ってみればあまり日々市民っぽくはないな。それは言える。あなたはしばらく日々市民として過ごしてみると良いですよ」

と取りなしているつもりなのか、運転している作業員が言う。


「生活は悪くないみたいですよ」

「そうそう。自分に合っている、って、長く住んでいる人がよく言っているから」

と作業補助のふたりが言う。


俺は誤魔化された気持ちを抱えて黙ってしまう。


そして、団地に到着。

無機質なコンクリート製の、似たような大型集合住宅が幾棟も連なっている。

壁面にわざとらしく、ペンキで虹弧が描かれているのが却って腹立たしい。


似たような建物が並んでいるにもかかわらず、作業員たちは勝手知ったように迷わず決められた棟の前でトラックを停め、テキパキと荷下ろしを始める。

「先に部屋に行って、大型家具の配置だけでも見極めてください。大物はそこに置きますから」

と、さっき俺に物言いしたやや年かさの作業員が俺に言いつける。


ここまで来てしまっては仕方がない、俺はしぶしぶ部屋に行って中を見る。

意外ときれいで広い。日当たりもいい。

まあ、ずいぶんと田舎に来たから、住居条件が良くなるのは当然だろう。

俺が家具の配置に悩んでいると、作業員は、窓やコンセントの配置でこうすべきだ、と決めつけて、俺が形ばかり同意したのをいいことに、勝手に荷物を置いていく。


作業がひと通り済んだところで、作業員が、

「では、これで引っ越し完了です。あ、メールや書類のやり取りは、早めの済ませた方がいいですよ。いろいろとご意見があるでしょうが、行き当たりばったりで不満を言っていると、お客さんが却って困ることになりますよ」

と、脅すような言い方をする。

その言い方に俺は腹が立ったので、求められた書類へのサインをぐちゃぐちゃに書いてやった。


しかし、そんな当てこすりを気にするでもなく、作業員たちは、くちぐちに「失礼しまーす」と言いながら去ってしまった。


窓からまだ高い日の光がたんまり差し込んでくるのが、白々しい。

確認してみると、電気も水道も、もう使えるようだ。

スマホのWi-Fiも、この部屋専用の回線があるようだ。


俺の使命、俺の生きがいの、ネットへの書き込みをするべく、パソコンを立ち上げると、ネットには接続できる。

スピードも問題なさそうだ。


さて、ここまでの行きがかりをネットの掲示板に書き込んで、広く世論に訴えなければ…

と、いつもアクセスできる掲示板が使えないではないか!


いや、他の奴が書いた書き込みを読むことはできるのだが、俺が書き込むことができない。

どういうことだ…


何かのエラー…?

いや、これは、俺にネットに書き込みをさせないための謀略に違いない!


言論の自由を制限するなどとは、憲法違反だ!

と、ピンポン、とチャイムが鳴る。


誰だ、まだこっちに来て1時間も経っていないのに。


のぞき穴から外を覗うと、ひょろ長い腹話術人形みたいな奴がきょろきょろしながら立っている。


不審な野郎だ。

本当に、あいつら、こんな治安の悪いところに追い込みやがって…


…あいつら…

って、誰だろう?

まあ、いいわい。


俺は、ドアガードをかけて、薄くドアを開ける。

「どなた?」

「あ!新しく、転居されてきた方ですね?萬田さん、とおっしゃっる?」

と、腹話術人形は、少しだけ開いたドアから細い身体を割り込ませようとせんばかりにして、やけに甲高い声で話しかけてくる。

過度に馴れ馴れしく、相手の心に踏み込んでくるタイプ。俺は警戒して身構える。


「ええ、そうですけど…」

「いやー、日々市にようこそ!いろいろと言われていますが、悪くないところですよ!」

「はあ…」

「あ、これは失礼、申し遅れました。私は麦長あさおと申します」

そう言って、ドアの隙間から名刺を差し入れる。

「日々市議会議員 麦長あさお」

市議会議員…

なんで転入してきたばかりの俺のところに来るんだ?

そう思って俺が口を開きかけたのを遮るように、

「ええ、ええ、ワタクシ、市議会議員をさせていただいております、むぎながあさお、です。同じ団地に引っ越していらして、いろいろとお力になれればと思ってご挨拶に伺った、と、こういう訳なんです」

と、ところどころ聞き取りにくい早口で喋る。


なんだ、引っ越しの挨拶を言い訳にした選挙活動なんだろうな。

「ええっと、話しにくいですね、できればドアをあけてもらえませんか?」

と初対面なのに、やけに馴れ馴れしく距離を縮めてくる。


でも、断る適当な理由が見当たらないものだから、ついドアガードを外してしまう。

腹話術議員は、俺がドアガードを外すなり、すっと三和土に上がり込んでくる。

「いやあ、広くて落ち着いて、いいお部屋ですねえ!といってもここの真上の階のまったく同じつくりの部屋に住んでいるんですけどね」

などといって笑っている。

俺も、お愛想で追従笑いをしてしまう。


すると、腹話術議員は、

「で、あなたは、何をしたんです?」

と急に笑いを引っ込めて尋ねる。

「何をした…って…?」

と俺はドギマギしてしまう。

「いやいや、ここに引っ越しっさせられてきたってことは、何かやらかしたんでしょう?」

探るような目つきでさらに聞いてくる。


何かやらかした、って、ずいぶん無礼な言いぐさだ。

しかし、俺は居直ることもできず、

「いやあ、別に大したことなんてした覚えはないんだけど…」

ととぼけることしかできなかった。


腹話術議員は、わざと声を潜めるようにして、

「いいんですよ、隠さなくても。何か、力になれるかもしれませんよ?」

と押し込んでくる。

隠さなくても、だなんて…

別に隠すことはないよな、と俺は思って、

「いや、自分の考えをネットに書き込んでいたら、急にいろんな会社の契約が打ち切りになって、気づいたらこっちに…」

と説明しかけると、腹話術議員は話に割り込むように、

「なるほど、ちょっとずつ減点が溜まって、三途の川送りになったんですね」

と、納得したようにウンウンと頷いている。

俺がむっとして黙っていると、

「仕事も辞めさせられたんでしょう?もしよかったら、私が次の手続きをお世話しましょうか?」

とニマっと笑いかけてくる。


再就職先か…

俺がいちばん気がかりだったことだ。

あんまり激しい肉体労働をさせられるのは自信が無い。できればデスクワークがいい。休憩も、とりやすい仕事ならもっといい。

前職場からは、日々市の職業紹介を受けるように言われていたが…


「ああ、仕事は、日々市の職業紹介にいくことになっているんですよ」

「あ、そうなんだ。そんな指示されているんですねー、どうですか、働くことはできますか?」

「は?働くこと?」

「ああ、つまり、あなたの、適職が取り上げられてしまったわけだから。しばらくしっかり休養をとる、という必要はないですか?」

「休養をとる?」

「そう、つまり、生活保護ってこと」


なんと、この腹話術議員は、俺に生活保護を勧めるというのか!

仕事をしなくても金がもらえる…

それは魅力的かもしれない…

自分に合う仕事が無いのだから休む。

そう、それは当然のことだ。

近代国家の市民として当然の権利だ!


しかし…

俺は働かないだろうか?

働くことはできる。

自分に合った仕事なら。

工場での激しい肉体労働とか、無茶苦茶なものでなければ。

嫌がらせで、それを割り当てられたら…

んん、しかし、その仕事を俺が断ると、他の誰かがやらないといけない、ということか。

その仕事が存在して公的に紹介されるということは、そんな無茶苦茶な仕事ではないということであろうし。

それでも、俺には相性が合わないからと断るべきか?

俺は、働くべきか?働くことを拒むべきか…?


想像してみる。

朝起きて、ぼうっとする。

仕事など、予定が無いから、だらだらボウっと過ごす。

公園に散歩に行って、なんとなく同類を見つけて、社会に対する文句・呪詛をこぼす。

スーパーにでも寄って、見切り品を買って、帰宅。

テレビを見て、野球で野次を飛ばし、ニュースで政府に文句を言う。

なんとなくだるくてめまいがするから、明日は病院でも行ってこようかな、と思うが、医療券を申請するのも面倒だ。

まあ、いきなり死ぬことは無かろう、今日はとりあえず寝るか…

……


こんなな無為自閉な日が延々と死ぬまで続く。

義務から解放されてラッキー!…?

そうだろうか…?

俺なりにふだんからベストを尽くしているからこそ、社会に関わっている中で不満を感じたら、その不満を口にする権利がある…

そうあるべきではないか?

俺は働けないだろうか?

いや、俺はきっと働ける、そのはずだ!


俺は小考のあと、もじもじと、

「いや、生活保護よりか、できれば働きたい、かな…?って…」

と答える。

腹話術議員は、へえっ、と露骨に驚いた表情を見せて、

「ほう!?いろいろと理不尽な目に遭って大変なのに、それでも頑張って働く!ふんふん、素晴らしいこころざしです。でも、本当に大丈夫なんですか…?」

と、翻意を誘うように念を押してくる。

しかし、俺はそこはきっぱりと、

「いや、大丈夫です、働くんです!」

と言い切った。


腹話術議員も、名残惜しそうに、でも仕方ないというふうに頷いて、

「分かりました。日々市の職業紹介所に行くんでしたね?そちらに私からいいお仕事を紹介するように指示しておきますから。何かあったらぜひ頼ってくださいよ」

と言って両手で俺の右手を包むように握手して去っていった。


なんだ、あいつは。

生活保護で俺に取り入ろうってか、ずいぶん舐めた奴だ。

不正じゃないか、まったく。

こんなことがまかり通るから、本当に生活保護が必要な人が受けにくくなってしまうんじゃないか。



4、

いちおう、もうしばらくは失業給付が受給できるのでゆっくりしていても良いのだが、やることがなくて手持ち無沙汰なので、俺は職業紹介所に行ってみることにした。


日々市の職業紹介所は、市役所庁舎の隣にあるらしい。

地図で見ると、市役所、警察、消防、税務署が大きな通りに面している。職業紹介所もその並びにあるようだ。


俺は、昨日来たばかりのマンションを出て、白々しいのどかな日差しを受けながら市の中心街の職業紹介所を目指す。

1階に郵便局が入っている市役所の前を通り過ぎて、古めかしいやや小ぶりの建物の前に到着。

「日々公共職業安定所」と縦書きされた看板がある。看板が後付けされたせいか、古っぽい入り口で看板だけが浮いている。

中に入って、受付に、

「会社を辞めて転居して、こちらに来るように指示されてきたんですが」

と声をかける。

会社を辞めて、というべきか、会社を辞めさせられて、というべきか、ちょっと迷った。


俺のそんな逡巡など意にも介さぬふうで、受付のメガネ女は、俺の身分証を見て端末に何やら入力してから、

「では、5番窓口にどうぞ」

と言って番号表を渡して身分証を返してくる。


指示通り5番窓口に行くと、まだかなり若そうな刈り上げ兄ちゃんが、緊張した面持ちで座っている。

俺が番号表を出すと、端末画面をのぞきながら、

「あっ、はいっ、萬田さん…萬田正義様、ですね?」

と上ずった声で尋ねる。そして、

「えっと、今日は…就職先のご案内、ということで良いでしょうか?」

とおどおどしたように俺に確認する。

「前職は…事務職で。資格は、運転免許と、英検が3級と。ほかは何かお持ちの資格は…ございませんか。では、ご希望の職種は…事務職ですね。何か、健康上のご不安などは

…特にない、と」

尋ねていく順番のフローチャートがあるのだろう、刈り上げはそれに沿って質問していくのに無我夢中という感じだ。


「健康にご不安が無い、ということでしたら、必ずしも事務職にこだわらず、工場内の作業の求人も見られてみてはいかがですか?」

「工場の作業…俺にできるかな?もう歳だし、これまで経験ないし」

「いやいや、立派なお身体ですし、きっと大丈夫だと思いますよ!」

と、刈り上げは急に大きな声で作ったような笑顔で言う。


なんだこいつ、俺と今あったばかりで、俺のなにが分かるって言うんだ…

いや、まあ、俺もよく知らない有名人のことをしょっちゅう論評していたけど…

不快そうな表情が出ないように気を付けながら尋ねる。

「事務職の求人は、あまりないの?」

「いえ、無いわけじゃないですが、少ないですね。やっぱり日々市は工場が多いんで、工員の募集が多いです」


そうか、こいつは、俺をどこでもいいから押し込んでしまえば、担当者としての役割を果たしたことになるから、なるべくたくさん求人に応募させようとしているんだ…

「うーん、俺は事務職が性に合っていると思うんだけどなあ」

「身体を動かすのもいいものですよ。それに、時給も良いですし」

「え、なに、時給は工員のほうがいいのか?」

「ええ、そうですよ」

と言いながら、刈り上げ氏は端末画面を見せる。

「熊岡金属工業 

勤務内容 工場内作業

勤務形態 正社員(ただし、試用期間3カ月)

勤務報酬 65万4千円(昇級に伴う昇給あり、勤続年数に応じてQPポイント、さんさんマイルの付与あり。希望により、給与の3分の2までポイントに変換してく支払うことも可。)

勤務場所 当社日々工場内

…」

給与はなかなか良いではないか。

「いい条件でしょう?」

と、刈り上げ氏は得意気に言う。

「でも、年齢制限とか…あと、勤務経験はないし…」

「ああ、その辺は、何とでもなりますよ、勤続年数も、前職と通算して考慮してもらえると思いますよ」

「え?前職の勤続年数を通算してもらえるのか?」

「ええ。そうすれば、QPポイントとか、さんさんマイルとか、その他もろもろの手当てをつけてもらえますからね」


QPポイントは、すごくポピュラーなポイント制度だ。このポイントで支払わないと買えない商品がたくさんある。

その独自に扱っている商品の魅力によって、各ポイント制度は利用者の囲い込みをしているくらいだ。


たとえば、高級ブランド米は現金で買うことができる銘柄は、現在ではほぼ無い。

たいていの銘柄米は何らかのポイント制度によって入手することができるようになっている。

ビールやウイスキーも、やはりポイントで交換してもらうことがほとんどだ。

発泡酒や焼酎であれば、現金で購入できることもあるが、売り切れになっていることも多い。

また、ほとんどの高級ホテルや温泉旅館も、現金では泊めてもらえない。

やはり、ポイント利用によってしか宿泊させてもらえないようになっている。

つまり、今の世の中は、あるポイント制度でしか「良い物」は購入できないようになっている。


そういえば、俺も引っ越し前は、何かとポイントで支払っていたものだ。

そもそもポイントが無いと入手できないことがあるし、現金との交換レートの関係で、たいていの場合、ポイントのほうが現金よりも有利になる。


でも、ポイントを手に入れられる方法は限られている。

ポイント制度は、そのポイントカードを活用して支払ったときの特典というのが始まりであるが、現在では、会社が給与を支払うときに、希望者に給与の一部をポイントに変換して渡されるのがもっとも大きいらしい。


「そうかあ、じゃあ、一度その工場に面接に行ってみようかな」

「分かりました。では、いま工場と連絡を取って確認します」

と、刈り上げ氏はすぐに電話をする。

そして、早速明日工場に出向いて面接することになった。



5、

熊岡金属工業の敷地は驚くほど広い。

先日、引っ越してきた時に通った工場と同様、打ちっぱなしのコンクリートの建物がずっと遥か向こうまで続いている。

やけに広い空地を挟んで、昭和時代のマンションのような無愛想な建物も向かい合わせでズラリと並ぶ。洗濯物や植木鉢が見えるので、こちらは社宅なのだろう。


敷地内に住宅とは、俺にはあり得ない、発想外のそのまた外だ。

こんなに職住が近いと、勤務時間外にまで呼び出されたり行事をやりますとかなんとかで駆り出されたり、プライバシーが保てないではないか。

おお、やだやだ。


似たような建物が並ぶ中、ちょっと大きめで新しい建物があるのを見つける。

これが、面接場所に指定された本部棟というやつだろう。


面接の時間にギリギリぴったりだ。

俺は中に入る。

面接は、向こうは3人。青いつなぎの作業着がパンパンの工場長と、カマキリみたいな顔をした教育担当課長と、分厚い眼鏡の事務長とかいうやつらだ。

デブ工場長が、

「まあ、座ってください」

と砕けた感じで椅子を勧めてくる。

カマキリとメガネは、品定めするように俺をじろじろと見る。


「今日はご足労ありがとうございます。それでは、採用の面接を開始させていただきます」

とかしこまってメガネが言う。


俺は、名前と志望動機を簡単に述べる。

モノつくりが好きなので、今回の転職に際して、携わってみたいと思いまして、と心にもないことを述べる。


3人はペンを弄り回したり、ほおづえをついたり、腕組みをしたり、えらそうな態度でふんふんと頷きながら俺の口上を聞いている。

「もともと事務職が長かったんですね。ちょっと身体を動かすことになりますが、体力的には大丈夫ですか?」

「ええ、定期的に水泳をしているので、体力は平均くらいはあると思います」

などと出まかせを答える。

「それはよかった。いや、ご承知の通り、いま人手不足でねえ。いや、人はいるんだけど、質の良い勤労者がなかなか見つからなくってね。」

とカマキリが顔をほころばせる。

「うん、うん。質の良い労働があって、はじめて質の良い商品ができるわけだからね」

とデブ工場長もまんざらではない表情で答える。


さらに2,3のどうということのない質疑でやり取りをして、

「じゃあ、内々定ということでいきたいと思います」

とデブ工場長が言う。

メガネが、

「では、工場内の社宅に住んでいただくわけですが、社宅の料金は…」

と言い出す。


社宅?

おいおい、俺は社宅なんかに住まないぜ?社畜になっちまう…

「え?社宅?私はもう、引っ越しして日々市内の工場の外で住んでいるんですが…」

「えっ!そうなんですか…ちょっと待ってください。萬田さん、あなた、ご住所は日々市内ですか?」


デブ工場長とカマキリとメガネは、俺を放ってしばし鳩首会談している。

え、だって職業紹介から…でもこれは違うじゃない…向こうの間違いかも…

そして、メガネが、

「ちょっとお待ちください。確認して参ります」

と言って、書類をつかんで足早に部屋を後にする。


気まずい雰囲気の中、デブ工場長が、

「萬田さんは、どちらからおいでになったんですか?」

と尋ねる。

「東京からですよ」

「そうですか…差し支えなければ、どうしてこちらにおいでになったか、伺ってもいいですか?」

デブ工場長は、顔は笑っているが目は笑わずに問いかけてくる。


どうして…

東京から追い出されて、事実上、強制的にこちらに流されてきたんです…

いやまさか、そんなことは言えない。

「それは…こちらが住み心地がいいと聞いたから…です…」

あの、作業員が当てこすりで言った言葉を、つい咄嗟に答えてしまう。

デブ工場長とカマキリは、しばし顔を見合わせて、ふたりとも破顔。

俺もつられて笑う。


くそ、何で笑っているんだ。

そこに、メガネが、お待たせしました、と言いながら戻ってくる。

メガネは、着席しながら、俺に見えないように、デブ工場長とカマキリにペンで書類を指し示す。

デブ工場長とカマキリは、はいはい、分かった、と頷く。

そして、デブ工場長は、

「萬田さん、今回はご縁が無かったということで、申し訳ない」

と言い放って、さっさと退席していく。


カマキリも、

「良いご縁に巡り会えますよう、お祈り申し上げます」

などと、メールで書くときのような言葉を吐いて出ていく。

そして、メガネが

「引き続き、日々市職業紹介所と相談しながら求職をお続けになってください。今回の分は私どもからも報告しておきます」

と、冷たい一瞥を送って、

「あ、もうおしまいですよ。お帰りいただいて結構です」

と俺を顎でしゃくる。



6、

「どういうことなんですか!アンタ、簡単に就職できるだろう、みたいなこと、言ってたじゃないか!」

と、次の朝一番で日々市職業紹介所で刈り上げに憤怒をぶちまける。


刈り上げ氏、

「え!?落っこちた…いや、不採用だったんですか?」

と間抜けな表情で驚いている。

そして、確認してみます、と奥に引っ込んでいく。

奥から、もやしみたいにひょろっとした男を伴って刈り上げ氏が戻ってくる。


もやしは、俺に会釈もなく、端末画面を見て、

「あー、タグチ君。ここ、見て。ほら。この方は県外で、こうなっているから…」

と刈り上げ氏に耳打ちしている。

刈り上げ氏は、もやしに指摘されて、あっ、と声を上げている。

もやしは、

「しっかりしてくれよ、タグチ君」

と言い置いてまた奥に引っ込んでいく。


刈り上げ氏は、渋い表情で画面を見ている。

「どうしたんです?何か手違いでもあったの?」

と聞くと、刈り上げ氏は、はっと俺のほうに向きなおる。

「いえっ…手違い、というか…」

「手違いじゃなくて、何?」

「いや、萬田さんに合った案件じゃなかったんですよ…」

「俺に合った案件じゃない?」

「ええ…なんというか、紹介すべきではなかったというか…」

「紹介すべきじゃなかった?」

「えっ、あっ、そ、そうですね…」

「おい、人によって紹介先を変えているのか?」

「ええ、それは、そうですね…」

「なんだと!そりゃ、差別じゃないか!?」

「差別だなんて、そんな…」

俺が声を荒らげて刈り上げ氏に抗議すると、奥からさっきのもやしが現れる。

「どうしたんですか、大きな声を出して」

とうんざりした表情で尋ねる。


俺は、

「いや、こいつが、差別して、求人を紹介してくれないんだ」

というと、もやしはうんうんととりあえず首肯して、

「まあ、それぞれの人のご希望、経験、持っている資格など総合的に勘案して紹介しているんで…」

と取りなそうとする。

「違うんだ、そんなこととは違うところで差別しようとしているから、俺は怒ったんだ」

「違うところ?どんなところですか?」

「それは…」

と口ごもっていると、

「どうしましたか?」

と背後から鋭い口調で咎められる。


振り向くと、二人組の警察官が腰に手を当てて俺を見下ろしている。若くてノッポで顔の長いのと、年かさでだるそうにしているのと。

俺は威圧されて、たじろぐ。


もやしが、

「ああ、お呼び出しして申し訳ありません。こちらのお客様が、私どもの説明を受け入れず、応募したのに採用されなかったことを詰り続けるので困っていまして」

と、事実を曲げて説明する。

ノッポの警察官が、

「いけませんよ、こちらの業務の邪魔になりますから、無闇に騒ぎ立てては」

とよく通る声でたしなめる。

「違うんだ、こいつら、良い案件を、なぜか俺に紹介しないようにしようと企んでいるんだ」

と、かいつまんで説明しようとするが、話を縮めると、ただ俺がわがままを言っているだけに聞こえてしまう。


だるそうな警察官が、ふぅーっ、とため息を吐く。

ノッポが、

「分かりました。不当だとお考えなんですね。では、署でお話を伺いますから、ご同行願います」

と、丁寧だが有無を言わせない口ぶりで俺を促す。


俺は、警察に、こいつら職業紹介所の不当さを訴えようと息巻いて、席を立つ。

職業紹介所の連中の冷たい視線の中、俺はノッポと年かさに挟まれて歩く。



7、

俺は、パトカーの後部座席に、ノッポと年かさに挟まれて座る。

どこまで連れて行かれるのかと思いきや、10秒ほど走って、職業紹介所の並びにある警察署に入っていく。

そして、テレビドラマで見るような取り調べ室に連れて行かれる。


ノッポが、

「そこに座ってて」

と指示されるままに座る。

すると、まもなく、ドラえもんに出てくるスネ夫みたいな奴が入ってきて、

「どうしたの?職業紹介所で騒いじゃったの?」

と馴れ馴れしく話しかける。


俺が、職業紹介所の不当さを訴えようとすると、

「でも、どこを紹介するかは、職業紹介所の判断に委ねられるところだろう?なんであんたが云々するんだい?」

と、意地悪そうに言う。

「違うんだなあ、なんだか差別されているんだよ」

「どうして差別されているって感じるんだい?」

「とうしてって、紹介したあとに、あなたに合っていない案件だって、後になって言い出して…」

「で、結果は不採用だったんだろう?辻褄が合っているじゃないか」

「いやそうなんだけど…」

「それよりも、あんた、役所でむやみに騒いだら、犯罪になるよ」

「え?は?俺が犯罪?!」

「そうさ。公務員の仕事を妨げたわけだから、公務執行妨害ってやつだね。3年以下の拘禁または50万円以下の罰金だな」


俺が、犯罪…

業務を妨げたから…

いやしかし、あの状況で怒らないほうがおかしい。

仕事を妨げたから、なんていうのはこじつけだ。

しかし、こういう時、警察というのはストーリーを作ってそれに沿って嵌め込んでしまうものだ…


俺が黙ったのを見て、スネ夫立ち上がる。

スネ夫は出ていき、代わりにノッポが俺の前に座る。

ノッポは、なぜか、

「まあ、気にすんなって。分かんないことばっかだよね、来たばっかりだと」

と気安く話しかける。

「分かんないこと?」

「そう。あんた、日々市に来たばっかりなんだろ?」

「そうだけど…」

「日々市では、これまでどおりにいかないからね」

「これまでどおりにいかない?」

「ああ。つまり、前よりも選択肢が減るってことさ」

「選択肢が減る?」

「まあ、今に分かるさ」

と意味深な笑みを浮かべる。

そこに、スネ夫が戻ってくる。

「あんた、萬田さんだっけ?じゃあ今日のところは帰ってもらっていいから。もう役所で暴れたらダメだからね」

と、なぜか俺が暴れたことになって説教されてしまう。



8、

ムシャクシャした気持ちを抱えたまま警察署を出る。


俺がいったい何したってんだ!

軽んじられたから、ちょっと怒っただけなのに、変な奴らだ…

ちょっと憂さ晴らしに、飲んで帰ることにするか…


検索をかけると、俺がいつも行っている「犬貴族」は歩いて5分くらいのところ。

地図を見ると工場の中にあるようだ。

入れるのかな?

と、心配しながら行ってみると、やっぱり、工場の通用門に行きあたってしまう。


俺がきょろきょろしていると、守衛が、

「どうしました?社員証を忘れた?」

とにこにこしながら尋ねる。

「あっ、いえ、中に入りたいかな、って思って」

と、なぜかオドオドしてしまう。

守衛の不審そうな顔。

俺は自分の卑屈さに内心舌打ちしてしまう。


守衛はちょっとしてから、

「あ、中のサンサンモールに入りたいってことね、いいですよ、これを首からかけてお入りください」

と、首からかけるネームプレートを渡してくる。

なんと、工場内にショッピングモールがあるのか、大企業はやることが違うな。

と、思いながら、通用門から続く渡り廊下を歩いていくと、左右に5軒くらいずつ、店が並んでいる。

小綺麗にしていて、確かにちょっとしたモールだ。

俺は目当ての「犬貴族」に入る。


「何名様ですか?おひとりですねー…お待ちください」

とキビキビと店員が動く。

もうちょっとゆったりゆっくり働けば良いのに。

やたらとデカい声も、無駄なエネルギーだ。

まあ、おれの知ったこっちゃないけど。


ひとりだけなので、カウンター席に案内される。

テーブル席はかなり埋まっている。


いつものとおり、メガ発泡酒とミニナポリタンとベーコンステーキを注文する。

周りを見渡すと、いつもの居酒屋の雰囲気。若干、勤め人よりも家族連れが多いか。

そうか、この店は、敷地内の職員と家族むけなんだな、と合点がいく。

ひとりでこの日々市に追いやられて、訳もなく叩かれて、孤独を託って酒を飲む俺。


「…気持ちは嬉しいですけど…私にはそれに応えられないですって」

「いや、なっちゃんにピッタリの話だと思うな、私は」

つい、隣の女性2人組の話を、聞くともなしに聞いてしまう。


チラっと盗み見ると、40歳くらいの恰幅のいい女が俺の隣で、その奥に30歳くらいのほっそりした女。

40女は相撲取りにこんな顔の奴がいたな、と思うが、四股名が思い出せない。

ほっそりした方は、アイドルの百田桃子にちょっと似ている。

相撲取りが、しきりに桃子に何かを勧めているようだ。

結婚話かもしれない。


「なっちゃんのこれからにもいいと思うし」

「でも…私に合っていないんじゃないかしら…明るくて思いやりがある性格のほうがいい、っていうし」

「まさに、ぴったりじゃない」

「それに、キレイでないと、選ばれないっていうでしょう?私なんて全然…」


婚活パーティーか何かだろうか。

工場内だから、この会社の職員かもしれない。

大企業の職員はいい気なもんだ。

恋愛ごっこなんざで時間を潰して。

もっと大きな社会的課題に取り組もうなんざこころざしは、いっさい持っていないんだろう。


「なに言ってんの、ことちゃんはキレイじゃない!きっと有利なはずよ」

「そんなことないし…それに、やっていける自信はまったくないから…」

と、桃子は可愛らしい声で言う。

「きっと通ると思うし、通ったらなっちゃんの良いキャリアになるはずよ」


キャリア…

なんだ、仕事の話か。

相撲取りが、桃子の昇進の話を受けるべきかどうかについて、励まして背中を押している、というところか。

「人事畑でやっていくのなら、議員をやっておくのもいいって。ていうか、王道じゃん」

「議員って、全部のことをやらないといけないし、ひとつのことに没頭したい私には向いてないと思うんですよ。

というか、当選できる気がしない…」

「大丈夫よ、まず落選しないし、万が一落選しても、そのまま普通に勤務を続けられるから」


なんと、こいつらは、選挙に出るのか。

しかも、人事畑でやっていくために議員をやっておけばいい、って、議員を私企業の出世階段のワンステップにするっていうのか…!?


「日々市議会議員の定数は40人。そのうちの20人ちょっとを、日々市内の有力企業から出すのが、ならいになっているの。

企業の規模の応じて、それぞれの企業ゆかりの人間から、1人から3人の議員が出るようにしている。

我が山猫機械工業からは2人。ひとりは沢田さんが続けて立候補するんだけど、もうひとりの高妻さんが、6年やったから山猫に戻ってきたい、って言っているのよ。」

「そうなんですよね、私、高妻さんの後継ってことなんですよね…高妻さん、いい仕事していましたものねえ…」

「復帰するときは、品質保持担当の取締役になるみたいよ、ここだけの話」

と、相撲女は小声で言ってからあたりを見回す。


聞き耳を立てていた俺も、ついそちらを見てしまい、相撲女とばっちり目が合ってしまった。

思わず、どうも、と会釈してしまう俺。

相撲女も、クスクス笑いながら、どうも、と。

「あなた、山猫の方でしょう?ここで飲んでいるってことは」

と相撲女に言われて、

「ああ、いや、俺…私は最近、引っ越してきたばかりでまだまだこの辺に不案内で」

と、俺は曖昧に答えておく。

「あ、そうなんですね。でも、日々市議選のことはご存じでしょう?日々工場は、山猫の中では主力工場ですものね」

と相撲女が決めつけるのを、俺は、はあ、とあやふやに受け流す。


そうか、市議選があるのか。

だから、あの引っ越してきた日に早速、麦長とかいう奴が挨拶にきたのも、やっぱり選挙活動だったんだな、と思い至る。

「まだ半年先のことなんだけど、山猫としても、そろそろ立候補者を決めておかないといけないんですよね。

で、この子、谷川琴子ちゃんが立候補しますので、よろしくお願いしまーす」

と相撲女がおどけていうと、桃子あらため琴子が慌てて打ち消す。

「そんな、私、まだ、決めていませんってば」

「あ、いま、まだ、って言った。ってことは、もうちょっとすれば決心するんだ?」

「もう…そんな意地悪な言い方して…」

と、琴子は、顔をしかめるが、満更でもない様子だ。


俺が、

「市議選に立候補するときには、会社を辞めないといけないんですか?」

と尋ねると、相撲女は、

「あ、いや、日々市では、市議会議員選挙に立候補しても、当選するまでは社員でいられるし、当選後も休職ということで会社に籍は残せるのがならわしなんです」

と言う。

「ええっ!そんなことが認められているんですか、ここじゃ!?」

私企業の従業員の身分のまま、市議会議員なんかしていたら、利益誘導しまくりではないか。

俺は、批判的なニュアンスで驚きの声を上げた。


しかし、相撲女は、

「ああ、あなた…萬田さんとおっしゃるのね、萬田さんはよそからおいでになったばかりだからまだご存知なかったんですね。

法律的には、企業は従業員の公民権行使を認めなければならないことになっているので、被選挙権つまり立候補して議員になることについてもきちんと認めていこう、というのが山猫の方針なんですよね。」

「あ、この方は、工場総務課長の栄田さん」

と、脇から琴子が相撲女の名前を教える。そして、

「栄田さんが言う通りで、山猫では被選挙権を積極的に認めていく、という方針にしたのは、従業員の権利を守るため、という面もあるけれど、山猫を守るため、ということでもあるんですよね」

「山猫、つまり会社を守る?」

「ええ。山猫は、ただ広い土地と働き手が確保できるから、という理由で日々市に工場建設しました。当初はうまくいっていたのですが、徐々に会社は食いものにされていったのです」

「会社が?食いものに?」

「そうです。つまり、会社がうまく利益を出すと、やれ環境問題だ、やれ利用者負担でインフラ整備しろ、やれ地元のイベントに出資しろ、とお金をせびられることが増えてしまったのです」

「うむ…利益を出していたら、ある程度は当然のことでしょう…」

「ええ。でも、それらは本来的には行政の仕事のはずです。大衆はそんなことにおかまいなく、奪れるところから奪れればいいのでしょうね。そして、だんだん度が過ぎていくのです。日々市に拠点を置く会社を狙い撃ちして、利益に応じて従業員の賃金を上げるべき、と市議会で条例が通されてしまったのです」

「それは…」

と俺は〈当然のことだろ!〉という意味で絶句したのだが、琴子は、〈おかしなことだ〉という意味で絶句したのだと理解したようだ。


「本当に…山猫社は、別に悪いことをして利益を上げたわけではありません。経営って、ある程度資本が集中するから効率的選択ができるものだし、労働の質が変わらないのにむやみに賃金を上げるのは、かえって労働意欲をそぐのです。経済学上は、給与つまり労働市場にはあまり法的規制をするべきではないことが、当然とされています。だって、自分の時間というものは誰でも十分に注意を払い、軽く考えることが少ない、市場を十分吟味する、そして時給が低ければ質を高めて時給を挙げる努力がかかりやすい、という性質があるからです。規制は、めちゃくちゃな契約をしばる程度の最小限に限るべきなのです」

琴子は、急にすらすらと熱く雄弁に語る。その横顔は、美しかった。

確かに選挙演説に向いていそうだ。

つい、俺は批判的吟味を忘れて首肯してしまった。


栄田が、

「琴子ちゃん、経済学修士なの」

と合いの手を入れる。

そこで、琴子先生はちょっと照れたように首をかしげる。

「そう、だから私たちはこれ以上、横暴な大衆という王様に奪われてはならないのです!メカジキをくわれてしまったサンチアゴにならないために…私、立候補します!」

「そうそ、そう来なくっちゃ!」

と栄田が琴子先生のおちょこに酒を注ぐ。


よく見ると、もう何本も日本酒が空いている。かなりきこし召しているようだ。

俺は、思い切って琴子先生に質問する。

「最低賃金の規定をなくしたら、やっぱりまずいような気がするんだけど。安い賃金で誰も来てくれなくなる、ってなって。…あれ?」

安い賃金で来ないならば、高い賃金を出せばいいわけで、それがやれるのは経営体力がある大企業だ。

と、いうことは、最低賃金制度は、大企業に有利?

はて?


琴子先生が、右ひじを机につきながらおちょこをぐいっとあおって、

「そ。最低賃金はある数字までは、短期的に見れば大企業に有利と考えられる。自分たちが出せるギリギリの数字が最低賃金であれば、自分たちより低い賃金しか出せない他社は労働市場から退出することになるから。でも、退出するのは、ライバル会社とは限らない。重要な下請けや関連企業が退出することもあり得る」

「そうか、長い目で見たら、生産力がそがれる可能性があるわけだ…」

「そう、いま簡単に、『退出』って言ったけど、被雇用者だって、むやみに最低賃金が上昇すると、提供される求人が減ってしまう、ということで損害を被っているはずなのよ。その求人は結局出てこないから、人々は損害を被ったことに気が付かないだけで。ついでに、他社を退出させることによって得られるメリットは小さく、退出とコスト増による負担つまりデメリットはずっと大きいはず」

「そうか…大企業だけじゃなく、中小企業、被雇用者でコストを分け合っている状態か…」

「ご名答。従来の政治家って、こういう細かいことを訴えて討論しなかったわ」

「討論しない理由は、人気取りのため?それとも問題を理解する能力がないから?」

琴子先生に褒められて、ちょっと嬉しくなった俺は、琴子先生のご機嫌を取るような質問をしてしまう。


琴子先生は、にまっ、と笑って、

「まあ、その両方でしょうね」

と答えたので、栄田が、ぶふっ、と笑う。

「まあ、時給2900円は異常ね。いくらなんでも高すぎる。政治家が大衆のご機嫌取りをするからなのよね」

と栄田も眉を顰めている。


琴子先生は、

「もう一度言う。大衆という暴君を打ち倒せ!『万国の経営者、団結せよ!』。まずは私は、日々市の経営者の団結を標榜します」

と凛とした横顔で宣言する。そして、さらにおちょこをあおる。


「万国の経営者、団結せよ!」

だと?


こいつはアホなのか?それとも、俺がアホなのか?

言っていることは理解したが、しかし…


労働経済なんて、俺は門外漢だ。

でも、門外漢なのに、書き込みしたっけ。2900円よりもっと寄こせ、って。

そりゃ、努力せずにもらえるなら嬉しいよなあ。

でも、それを支払う側があるわけで。

支払う側つまり会社はモノの値段を上げるわけで。

そうすると真面目に働く消費者が割を食って、のうのうと働かない、スキルを磨かない連中が得をしているわけだ。

真面目な側が10の損失を出して、不真面目な奴らが1の利益を得る。

数は多い、という特性を生かして。

こんなことではみんなで貧しくなるだけだ。


などと考えていると、琴子先生がすっくと立ちあがる。

「もう帰る。栄田さん、立候補はしますから、ご安心を」

琴子先生は、目が据わっている。


栄田も慌てて

「じゃあ、一緒に帰ろ」

と席を立つ。


遅くなったし俺も帰ることにした。

琴子先生と栄田は、手慣れたように無人レジで支払いを済ませる。


隣のレジで俺も支払おうとすると、ポーン、と機械音が鳴ってエラーが出る。

表示を見ると

〈ポイントが不足しています〉

と出ている。

しまった、給料の一部を、割合が有利なQPポイントにしていたが、今月は給料が入らなかったからポイントがないんだ。

現金だと、3倍以上不利になる。

くそ、っと思っていると、店員がやってきたので、俺は、

「ポイント不足で。不足分を現金で支払います」

というと、店員は、えっ、という表情で、

「すみません、当店は、現金は受け付けていません。ポイント支払いのみの店舗なんです」

という。


ええっ、なんだと!

法定通貨が使えないなんてことが許されていいのか!

と、またもや絶句していると、琴子先生が、

「ああ、引っ越してきたからね。日々市ではさんさんポイントが圧倒的に有利だから」

と言いながら、琴子先生が自分のカードで俺のを支払ってくれた。



9、

よたよたふらついている琴子先生を、相撲女・栄田が脇からがっちりと支える。

「あなた、萬田さんは、どちらの寮?」

と栄田に尋ねられた。

いや、俺は工場の寮じゃないんだ…

「ちょっと外で用事があるのでいったん出ます」

と答えて、

「あら、そう?夜だし、気を付けて」

と栄田は言って、琴子先生を担ぐようにして俺と反対方向に帰っていく。


俺は、通用門で、人の好さそうな守衛にネームプレートを返却する。

守衛は、「気をつけてねー」なんて言っている。

大企業専属の守衛か、いい気なもんだ。


俺は日々市の夜風に吹かれながら歩く。

歩きながら、琴子先生のことを考える。

万国の経営者、団結せよ、か。

まるでもう自分が経営者みたいな言いようだな。

経営者どもが団結なんかしたら…

とんでもないことが起こるだろうな。


例えば…

なんだろうな、うーん、よく分からんが、良くないことが起こるはずだ。

そうそう、むやみに給料が下げられる!

適正な給与を寄こせってんだ!

でも、適正な給与って…

さっきの琴子先生の賃金市場の理論を思い出す。


俺たち大衆は、不真面目だろうか?怠惰だろうか?非論理的だろうか?刹那的だろうか?

…俺は、暴君だろうか…?

俺は心許なくなって、胸がきゅんとなる…


住宅街の真ん中に寂しく「さんさんマート」があった。

地元密着タイプのコンビニだろう。


看板の表示に、〇印の中に「生」の字が書かれたマークが見える。

政府指定生活必需商品取り扱い店舗、を意味する。

嫌な予感を持ちながら、俺は店に入る。


扉を押して中に入ると、電灯はついているけど、いやに薄暗い。

商品棚もやけにスカスカだ。

商品をアピールしよう、という気がまったくない商品の置き方。


そして、奥のレジには、客が入ってきたことなど一顧だにしないふうでスマホを見ている中年の女がどっかり腰を据えている。

「労働とは、単に指定された場所にいることだ」

と思っているのだろう。

best effort dutyなど、聞いたこともない、と言いそうだ。


best effort dutyは、5年ほど前に裁判でも提示された考え方だ。就業時間中は、従業員はしっかり力を尽くさなければならない、と企業側が主張したことが、いま定着しつつある。


弁当屋の経営者が、5人の従業員がまったく働いていないから、今月は給料を出さない、と申し渡し、その5人の従業員が裁判に訴えた、という事例だ。

「経営者の専横!」というスタンスで、しばらく弁当屋はマスコミと左派政治家に叩かれていた。

「経営者の資格がない」「従業員を酷使させている」「奴隷的使役」などと、可能な限りの強い言葉で非難を浴びせていた。

またネットでは、弁当屋は怖そうな表情で撮られた写真を掲載されていたものだ。

そして下級審では、弁当屋がいくばくかの罰金と執行猶予付きの形で有罪とされた。


ところが、控訴され上級審に移ってから風向きが変わった。

その弁当屋の娘が、「父は口下手で言いたいことがちゃんと主張できていなかった!」と、地裁の判決を見て激怒して、がぜん巻き返してきたのだ。


弁当屋の娘は、丹念に防犯カメラや日々の記録を集め、また、ほかの従業員たちに協力をお願いして、懸命にあらたな証拠集めをしたのだ。


その結果、浮かび上がってきた新たな事実は、5人の従業員はまったくといっていいほど仕事をしていなかったこと、5人の従業員は自分の仕事を他の従業員に押し付けたり、あろうことか経営者の弁当屋にもやるように脅迫的に指図をしていたのだった。


見た目はゴツイが、実は無口でお人好しな弁当屋…

その父親の汚名を晴らすべく、父親思いの可愛らしい娘が奮闘する。


この分かりやすいストーリーに寄せる形で、マスコミは、これまでの弁当屋を極悪人あつかいしていたのはどこ吹く風といわんばかりに、朴訥とした働き者の弁当屋と、そこにつけこむ5人の無法者たち、という図式でマスコミが書き立てる。


その中で、高等裁判所は、best effort dutyとは、従業員は労働時間内は誠実に努力を尽くしましょう・従業員にはその義務があります、ということを改めて示したのであった。その上で、下級審に差し戻したのだ。

裁判は、差し戻されたりなんだったりで、結局、和解という形でうやむやになったんだったかな。

個人的には興味深い裁判だった。


俺も、はじめは弁当屋はひどい奴だと思った。しかし、娘が懸命に父親の名誉回復のために言っていることを聞いていたら、実はすごくいい奴だと分かった。


…この時も、俺は、弁当屋は指弾されるべき、と書き込んだり、5人の従業員は刑務所に行くべき、とか、ずいぶん書き込んだんだった…

よく考えたら、俺、この事件のこと、よく知らなかったんだよな…

よく考えたら、俺、弁当屋とも5人の従業員とも、何の関係も無いんだよな…

マスコミがそう言っているから、そう思わされていたんだ。

マスコミは、手前勝手なストーリーを作って金を儲けているだけなのだよな…


裁判所も、やけに大衆に迎合するんだな、って思ったな。

弁当屋を断罪したと思ったら、こんどは反対側を非難したり…

法の下の平等を実践していないんだよな。裁判官は、法の下の平等、という概念を知らないのかもしれないな。


そして、この事件であまりクローズアップされなかったけど、俺が驚いたのは、5人の従業員よりも経営者である弁当屋に協力する従業員が多かったことだ。

仕事をしていない奴を見ると、自分も仕事をさぼろう、と思わないで、その分、仕事を頑張る奴が多いんだ、ということに、驚愕したものだ。

経営者なんて、ズルい奴らばっかりなんだから!

という俺の感覚との差がショックだった。


…しかし、いま、こうして目の前で明らかに働くことを放擲しているのに、ちゃっかり報酬を得ているであろう人間を見ると、やっぱり腹が立つ。

まあ、それは俺が迷惑を被るから、という打算のために感じる気持ちなのだろうけれど。


それに、この店でそんなきちんとしたサービスを受けることは難しいのかもしれない。

ここは、政府指定生活必需商品取り扱い店舗、で店内を見回す限り、政府指定生活必需商品しか置いていない。


つまり、生活に最低限必要な商品だけを買うことが出来るという店舗なのだ。

米は、政府がいったん買い上げた古米。パンは食パンとコッペパンが数種類。野菜は豊富にある。玉ねぎ、にんじん、ごぼう、大根、キャベツ、白菜、生姜、にんにく、小松菜…

魚や肉も、種類は豊富。

洗濯洗剤は1種類だが、大手企業の一般的に良く使われているもの。

固形石鹸は3種類あるが、液体せっけんは、よく知らない企業が出しているやけに安いのがある。

ティッシュペーパーは、やけにゴワゴワした感じのものが1種類。


そう、本当に最低限のものしか売られていないのだ。

ちょっと高級なもの、便利なもの、楽しいもの、喜ばせるもの、助かるもの、快いもの、…

そういうものは、もう現金では入手できない。

最低限よりも少し高級なものは、すべて各ポイント制度・デジタル通貨・電子支払い制度に「囲い込まれて」しまったのだ。

「この商品は、ウチのポイント制度・デジタル通貨・支払い制度でしか手に入りませんよ」というわけだ。


その結果、現金しか決済手段を持たない人は、最低限度の商品しか入手できない。

法定通貨の強制性をクリアするために、現金でも入手できることにしていても、ポイントの交換率の関係で、著しく不利になったりしている。


このやり方が始まった当初は、「持てるものたちの横暴」と非難する者がいたが、非難が広がるかと思いきや、意外とこの「囲い込み」は支持された。

ひと昔前は、生活保護者の中には野放図な金の使い方をする者が多く、真面目にやっている者たちは顰蹙していた。


そのため、生活保護者には金銭を与えるのではなく、現物支給やクーポン制で支給するべき、という意見が根強かったが、生活保護受給者や貧困ビジネスで儲けている人々からの票を当てにしている政治家は、見てみぬふりをし、それどころか、歓心を買うため生活保護費を上げていったのだった。


そんな状況に辟易していた「持てる者たち」は、この各制度の「囲い込み」によって、生活に必ずしも必要でない商品は、真面目に働かない者たちの手に入らないようにした、という見方ができる。

さながら、逆クーポン制度とでもいうべきような状況になった。


この店のレジ打ちの馬鹿女は、もちろんこんな図式は分かっておらず、自分がさぼっていることで社会全体の利益が減って、なにより自分自身が損をしていることなんて、理解しないのだろうけど。


俺は、この先、ポイントやデジタル通貨を手に入れられるだろうか…

ハイブランドなポイント制度なものほど入手困難だ。

急に申し込んで取引してもらうことは難しい。

何年間もの収入状況や労働履歴を確認される。

会社は、法令によって、あまり長い年月の経済的信用情報を持っていてはいけないことになっているが、「同じ制度の中で、信用状況をランクアップさせていく」という形をとることによって、ある人の長期間にわたる信用力を担保しているのだ。


俺は、おそらく今回、経済的信用を毀損してしまっただろう。長期間、きちんとした会社に勤めてきたのに…


薄暗い店内に、もの寂しく陳列されている商品。

今日は、買う気が失せたので、そのまま店を出る。

馬鹿女は、こちらを見もしない。


寂しい田舎の夜道をテクテク歩く。

明日、どうしようか…?

思い切って、生活保護を申請するか…


いや、だめだ!

俺は働ける、働けるじゃないか!

でも、もうあの職業紹介所には行きたくないな…

そうだ、あの引っ越し初日に、選挙活動がてら、うちに挨拶に来た腹話術人形みたいな議員…麦中、とか言ったっけ、あいつ、困ったことがあったら自分のところに来い、って言っていたな。

就職の斡旋か、そのヒントでも貰いに行ってみるか…



10,

もらった名刺の書かれた場所に行くと、

「日々市会議員 麦長あさお 事務所」

と書かれた看板がかかっているプレハブ小屋があった。


アポなしで来たのはさすがに無礼だったかな、と思って、名刺を手にしてきょろきょろしていたら、扉が開いて、

「どうぞ、何か御用ですか?」

とタコみたいな口の、ひょっとこに似た若い男がニコニコしながら声をかけてくる。

その笑顔に引き込まれるようにして、

「いえ、ちょっと、仕事を紹介してほしくて…」

と、つい頼るような言い方をしてしまう。

ひょっとこは、はいはい、とかるく相槌を打ちながら、

「分かりました、では、お入りになって、そのソファに座ってお待ちください」

と、俺の突然の訪問にもそつなく応対する。

「えー、お名前をいただいても、…萬田様、ですね、下のお名前は…まさよし様ですね。麦長とお会いいただいたことは…あー、そうですか、ご自宅のマンションでご挨拶させていただいた、と。それはそれは、良いご縁ですね、これからもどうぞ麦長をご支援ください」

そして、なにやら電話をしている。


その間に、別の女の事務員がお茶を持ってくる。

事務所内は、ほかにも2人のワイシャツを着た男たちがせかせかと動き回っている。


片目が入っていない大小のダルマ。

有名な政治家と一緒に写っている写真。

日々市の郷土史…

などがわざとらしく飾られている。


昔ながらの政治家の事務所。

選挙になったらそのままここを選挙事務所にするんだろうな。

訪問者は、票数に響くぞと遠回しに脅し、政治家先生も恩着せがましく頼みごとを聞いてやる…

陳情と称する談合が行われる。


本当に困った奴らだ!

って、俺が陳情にきているんだったな、自分の仕事のことで…


恥ずかしくて、ちょっと身をすぼめたところで、ひょっとこが戻ってくる。

「萬田様、お待たせしました。麦長なのですが、あいにく本日は仕事でこちらに来ることが出来ませんで、申し訳ありません。ただ、麦長は、萬田様にご挨拶させていただいたときのことをよく覚えておりまして、とても人格高潔できっと社会に貢献できる方だと確信している、と申しておりまして。そこで、ご提案なのですが、日比市役所で調査員を探しているようでして、萬田様はご関心はございますか?」

「調査員?市役所の?どんなことを調査するんですか?」

「ええっと…なんでも、住民の状況を詳しく把握して、国と連携をとりながら進めていく、とか…」

ひょっとこは、ちょっとあやふやな表情で言う。


住民の状況の調査?国と連携?

具体的にどんなことをする仕事なのかはよく分からないが、市役所勤務の公務員なら、給料は悪くないだろう。日々市ならラスパレイス係数も高そうだ。

たいていのデジタル通貨やポイントも得られやすいだろう。


ぜひ、世話になりたい…

と思ったが、ここで飛びついてしまっては、麦長のツテを頼ったことが露骨になって、麦長に恩を売られることになる。借りを作ったことになる。


それに、麦長は現職の市会議員だ。仕事を紹介してもらったってことになったら、下手したら、あっせん収賄罪に問われかねない。

そこはなんとか曖昧にしないと…


「住民の公僕ですか。やり甲斐ありそうですね。俺は、これまでずっと私企業づとめでしたから、公益のために働いてみたいですね」

「そうですか。では、明日、日々市本庁の生活保護課においでになってください」

「え?生活保護…課?」

「はい。私どもの方からも、萬田様のことをよくお伝えしておきますよ」


生活保護課…

最近まで自分が受給するかもしれない、と思っていたから、ちょっと動揺がする。

しかし、生活保護課か…

その調査員、ということは、きっと受給者の訪問面談なんだろう。


手を焼きそうで気後れがするが、働いてみたい、と言ってしまった手前、面接くらいには行かねばならなさそうだ。

俺は、ありがとうございます、とか言って、麦長事務所を辞する。

そう、就職のあっせんではなく、就職の相談をして市役所職員の枠を提案されたのだ。

そう考えることにする。



11、

指定された本庁舎の生活保護課に行ったら、いきなり奥の部屋に通され、課長という人が出てきた。

「いやあ、わざわざどうも、萬田さん、とおっしゃるんですかね」

さっき受付で渡した履歴書をギョロ目で覗き込みながら、大げさにふんふんと頷いている。

「はい、公の利益のために働きたい、と思いまして、こちらに応募しました」

「おお!公の利益のために!あなたのような人を待っているのですよ」

と、ギョロ目はさらに深くふんふんと頷く。

「前の会社はどうしてお辞めになんったんですか?いい会社なのに?」

ギョロ目が俺を一瞥する。

「あ…それは、だんだんと、自分が本当にしたいことと、会社の目標が合わなくなってきて…」

としどろもどろに答える。


そうか、これは、就職の面接なんだ。

麦長の紹介とはいえ、形ばかりの面接はするということなのだろう。

ちゃんと準備してくるべきだった…

「萬田さんが本当にしたいこと、とはなんですか?」

ギョロ目がえぐるように俺を見る。


本当にしたいこと…

あらためて問われると言い淀んでしまう。

欺瞞や不正を許さないこと?

みんなが納得して暮らせる世の中にすること?

俺は、正義にもとる、と判断したものをネットを巡回して筆誅を加えてきた。

ん?そんな話がブラッドベリーの小説にあったかな…

「お…私が本当にしたいことは、みんなが平等になることです!」

と、気が付いたら叫んでいた。


ギョロ目は、俺を舐めるようにギョロリと見て、

「ほう…平等とね。でも、100人いたら、100通りに平等があるけど、そこはどうやって折り合うの?」

と静かに問いかける。


100通りの平等…

そんなこと、考えたことなかった…

いや、頭のどこかで考えていたけど、あえて気にしたことは無かった、というのが正しい。

俺が「平等、いっちょう!」って注文すれば、「へいっ!お待ちっ!」と誰かが平等というものを持ってきてくれる。

そんな他力本願な気持ちであった。


だから、ギョロ目の質問「100通りの平等にどう折り合いをつけるのか?」に答えられないのだなあ…

と自己分析している間に、ギョロ目が

「この日々市はねえ、生活保護について厳密に管理していく方針なんだ。だから、調査員には1件1件頑張ってもらいたいんだよ」

と、独りごとを言っているみたいに、俺と目も合わせずに言う。

「もちろん、平等も大いに大事にしてもらいたいと思っていますよ」

「はい!ぜひ頑張ります!」

「それで、入職の日だけど…いつから来ることが出来ますか?」

「私は、いつからでも大丈夫です」

「ほう、明日からでも?」

「はい、明日からでも大丈夫です」

「じゃあ、明日から来てくれたまえ」

「分かりました」

「よろしく頼むよ」

そういって、ギョロ目はそうそうに退室する。


こんなにも簡単に仕事が決まるなんて…

それも公務員…

麦長が声掛けしてくれたおかげなんだろう。


しかし、生活保護の調査員か。

言われたとおり、1件1件頑張っていこう。

正義に悖ることがないように!



12,

翌日に生活保護課に着くと、広めの会議室にすでに10人ほどの20~30代くらいの男女が整列している。

俺は軽く会釈して、どこに居ればいいのか戸惑っていると、ギョロ目が入室してくる。

「あ、萬田君、私の隣に来て。これから朝礼を始めます」

そして俺に、

「あ、この人たちはみんな調査員ね。君も今日から一員として働いてもらうから」

と言って、

「皆さん、こちらは萬田…萬田君です。今日から私たちと一緒に調査員として働いてもらうことになりました。…では、萬田君、自己紹介してくれるかな」

と急に俺に自己紹介するように促す。


「あ、皆さん、おはようございます。お…私は萬田正義と申します。これまでナンダッテ広告社で働いておりました。この度、ナンダッテ社を離れて、こちらで生活保護課調査員としてご縁をいただき、微力ながら力を尽くしてまいりたいと思います。どうぞご指導くださいますよう、お願いいたします」

手短にこれだけ言うと、ペチペチと申し訳程度の拍手。

調査員の中で一番ひょろ長くて馬ヅラの男が、話を引き取る。

「はい、萬田さん、よろしくお願いします。じゃあ、皆さん、今日も一日がんばりましょう」

いまの他のスタッフたちの自己紹介は無し。

みんなぞろぞろとカバンを小脇に抱えて部屋を出ていく。


「あ、萬田さん、私と一緒に行きましょ」

と馬ヅラが言う。

調査員たちは、そのまま駐車場に出て、それぞれ軽自動車に乗って出ていく。

「みんな、担当の受給者宅に行くんですわ」

と、馬ヅラが説明する。

「今日は、私の担当受給者を訪問するんで。萬田さんは私の仕事を見学していてください。最初に『調査員の萬田です』とだけ言うだけでいいから」

馬ヅラが運転しながら、

「あ、私の担当の何人かを、萬田さんに引き継いでもらう予定だから。可能なら道順もなるべく覚えていってね」

とぞんざいに言う。

「分かりました。いつころから引き継ぐことになりますかね?」

「うーん、まあ、1週間見学してもらって、来週くらいからひとりで担当かな?」

え、そんなに早くか。やれるかどうか不安だが…

考える間もなく、一人目の家に到着。


5階建ての地味なマンション。20台分くらいの駐車場があるが、5~6台しか停められていない。

アスファルトの割れ目から雑草が生え、フェンスも錆びて曲がっている。

車を降りると、馬ヅラは大きなカバンを抱えてさっさと歩いていく。慌てて俺も早足でついていく。

エレベーターに乗って、4××号室に行き、馬ヅラはピンポンを押す。

しばらく間があって、ガチャガチャと内側から扉を開ける音がする。

「はい」

とぶっきらぼうな声で、ドリフの仲本工事みたいな顔の奴が猜疑的な表情で顔を出す。

「どちら様ですか?」

「山中さん?面談の予約をしていた狭山です。こっちは、萬田さん。私と一緒に山中さんを担当することになったので」

俺は慌てて、胸のネームプレートを掲げて、

「あ、萬田正義です。よろしく」

と挨拶する。


馬ヅラは、

「山中さん、じゃあ、上がらせていただきますよ」

とドアをひろげて玄関に入っていく。

仲本工事は、渋い顔をして俺たちを家に上げる。


リビングにこんもりと積まれた洗濯物

台所には汚れた食器

机の上の灰皿には吸い殻があふれ

マンガ雑誌が床に散らばり

窓ガラスにはひび割れ

なんとなく酸っぱいすえたにおいがぷーんと漂う。

なぜか壁いっぱいのバカでかいテレビと、サッカーボールやユニフォームが吊るされている。誰かのサイン入りだ。


「最近は調子はどうですか?」

「調子…あんまり…」

「外出はできていますか?」

「うーん、全然…出てないな…」

「そうなんですか?じゃあ、普段の買い物は?どうしているんですか?」

「え…あっ、それは、それくらいは出ているけど…」

「じゃあ、外出はできているんですね?」

「ええ、まあ…」

「ハローワークには?行っていますか?」

「いや、体調不良でなかなか行けていなくて…」

仲本工事はもごもごと言い訳する。

「働くことが出来ない、というんですか?」

「いや、働けないわけじゃないけど、動こうとすると、どっと疲れちゃって…」

「それで、思うように動けないんですね?」

「ええ、はい」

馬ヅラは、ふと今気が付いたようにサッカーグッズに目をやる。

「ほう、横川翔太のサインユニフォームじゃないですか。確か、前回はなかったと思うけど…」

「はっ、これは…」

「サッカー観戦には行けるんですね?」

「いえ、これは、友達と一緒に行っただけで…」

「友達がチケットをくれたんですか?」

「ええっ…どうだったかな?」

馬ヅラはわざと深くため息を吐く。


仲本工事の面談を終えて、車に戻る。馬ヅラは、ノートに何やら書きつけている。

その横顔に、

「なんですか、アイツは!働けるのに働かないで、遊びに行っているんじゃないですか!」

と俺は思わず怒ってしまう。


馬ヅラは、ちらっと俺を見て、

「まあ、そうだろうね」

と素っ気なく言う。

「なんであんな奴に生活保護を渡しているんですか!?」

「さあねえ、給付を決定したのは俺じゃないからね、分からんね」

「こんなの…不正じゃないですか!どうして、あなたももっと言わないんですか?!」

「言うって、何を?」

「そりゃ…働けるのにちゃんと働かないのは、不正だ、って!」

馬ヅラは、ノートから顔を上げて、真っすぐ俺を見る。

「萬田ちゃんさ、彼、働けると思う?」

「え…そりゃ、働けるでしょう?サッカーを見に行けるんだから」

「働けない、ってのは、嘘だって?」

「ええ。おかしいですよ。甘えているんですよ」

「甘えている、ねえ。なるほど。そう思えるかもしれないけど、山中さんはちゃんとしているほうだと思うよ」

あれで、ちゃんとしている、って!

だらしなくて甘えているだけじゃないか!

俺が言う前に、馬ヅラはエンジンをかけて車を出す。


次に訪問したのは、古い平屋の一軒家。周りに同じような形の家が整然と10軒ほど並んでいる。

昭和中期ころに建てられたものだろう。

馬ヅラはピンポンを鳴らすが、反応はない。

玄関をカラリと開けて、

「高松さん、お邪魔しますよ」

と声をかけてから三和土に入る。

「いるんでしょう?外から見えていましたよ?」

と言うと、ゆっくりとおばあさんが顔を出す。

泉ピン子に似ている。

「高松さん、何をしていたんですか?上がらせていただきますよ」

と、馬ヅラが上がり込む。

俺も一緒に上がりながら、

「あ、萬田と申します」

とネームプレートを見せながら名乗る。

ピン子は、ろくすっぽ挨拶もせず、そっぽを向いて、不貞腐れたような態度で対応する。

しかし馬ヅラはそんなことを気にも留めないふうに畳に座布団もなしに胡坐をかく。

俺もそれにならう。

ピン子は、ボロい木のテーブルに向かい合って座り、こちらも我々の訪問など気にも留めないふうにタバコに火をつける。

「で、何の用?」

とぶっきらぼうに言う。

馬ヅラが

「最近、調子はどうですか?」

と尋ねる。

「調子は、あんまりよくないねえ」

「体調?それともパチンコ?」

ピン子は、じろっと睨んで、

「両方」

と答える。


な、なんだと、パチンコおおおー?

生活保護受給者がそんなことをしてはいかんじゃないか!

法的に禁止されているんじゃないのか!?

俺が絶句していると、馬ヅラが、

「でしょうね。タバコはバカバカ吸うし、いろんな人に借金しまくっているようですしね」

と、睨まれたのを意にも介さぬようすで言い返す。

「ちっ…また誰か垂れこんだな…」

「いや垂れこむも何も、借金しすぎで有名ですよ。苦しい中、あなたに貸してしまって返ってこない、ってね」


なんじゃ、そりゃ?

受給者間のトラブル解決しないといけないのか?

我々、調査員はおまわりさんか?!

結局、ピン子はふざけて答えるか、都合が悪くなるとだんまりを決め込んで、今回の訪問時間を逃げ切った。


車に戻るなり、俺は、

「なんですか!?パチンコなんかやらせちゃいけないじゃないですか!」

と馬ヅラを問い詰めた。

馬ヅラはやっぱりノートに書き込みながら、

「何で?パチンコやっちゃいけないの?」

と飄然と問い返す。

「そりゃ…パチンコとか賭け事は、最低必要なことじゃないから、生活にゆとりができてからやるべきことでしょう?」

「そうだね。私もそう思うけど、この国家としての見解は違うらしいんだな。パチンコは最低限の文化的生活に必要らしいんだ」

「はえ?」

「兵庫県小野市でも、市の条例で具体事例列挙で禁止しようとしたけど、反対にあって、事実上、禁止できなかった」

「そうなんですか…しかし、借金して首が回らなくなるまでなんて!」

「まあ、その辺をついていくしかないんだよね。生活の安定向上の観点からパチンコはやめましょう、と提案するくらいだね」


そうなのか…

なんでこんな奴らに税金を払わないとならないんだ?

いや、こんな奴らがいたら、本当に必要な人たちが割を食うではないか。


「納得できませんね…」

「うん、まあ、気持ちは分かるよ。たぶん、この国は、あるタイプのわがままな人々に、生活保護で『健康で文化的な〈最高〉限度の生活』を営んでいただこうとしているのかな、って思うことがあるね」

俺は、あまりのことに暗澹たる気持ちで沈黙した。


馬ヅラは、

「あ、次の奴はなかなかの難敵だから。萬田ちゃんは、自己紹介以外は喋んなくていいよ」

と、次の訪問の指示をする。


広々とした駐車場に、ゆっくり静かに入っていく。

「お!今日はいる、いる」

と、珍しい野生動物でも見つけたみたいに、馬ヅラが言う。

そして、駐車場のいちばん端に、前から駐車する。

「萬田ちゃん、静かに降りてよ」

と馬ヅラが言うので、音がしないようにそっと車から降りる。

馬ヅラは、足音がしないように、ゆっくりと駐車場を歩く。

目指す方向には、車の車体を前半分あげて、仰向けで車の下に入って作業をしている男がいる。

我々からは足だけが見えている状態だ。

我々がすぐそばに来ても、男は作業に夢中で、我々に気づいていない様子だ。

馬ヅラはしばらく作業を眺めている。

一段落ついて、男がふうとひと息ついて車の下から現れる。

禿かけているのに金髪にしている、子泣きジジイみたいな男。

半袖から見える肘には入れ墨が少し見えている。

男は我々に気づいて、不意を衝かれたように、おっ、と声を上げる。

「こんにちは、田向さん」

と馬ヅラが言う。

ついでに俺も、

「こんにちは、萬田と申します」

とネームプレートを見せながら挨拶する。

子泣きジジイは、ことさら我々を無視するかのように、駐車場に広げていた道具を片付けて立ち去ろうとするそぶり。

馬ヅラが、

「いい車ですねえ」

と、形ばかり褒めると、そこは子泣きジジイも満更でもないようで、

「それほどじゃないよ」

と照れたように言う。

「だいぶ手間をかけたでしょう?」

「まあ、何年間かかけて、ちょっとずつ、ね」

「ご自分だけでやるのなら、年単位で時間がかかるわけですね」

「そうだね」

「お金もだいぶかかるでしょう?」

「…そうでもないよ」

「というより、車本体はかなりの高価なものでしょう?」

「いや…もう、売っちゃったし」

「売った?」

「…うん。友達に」

「売ったって、でも、ここにあるじゃないですか?」

「これは、借りているんだよ」

「はあ、なるほど、売って、そして借りているんだ。いつ売ったんです?」

「…半年ほど前かな?」

「売った代金は?」

子泣きジジイは、さらに泣き出しそうな苦しそうな表情になって黙りこくる。

「陸運局に、車の名義の書き換えをしましたか?税金もかかりますからね?」

と馬ヅラが問いかけるのに、だんまりを決め込んでいる。

結局、その日は子泣きジジイとはそれ以上会話にならなかった。


車に戻ってから、

「高価な財産は処分する決まりじゃないんですか?!」

と俺は馬ヅラに言う。

「そうだな。だから、俺も毎回指導している。というか、なかなか会えていない」

「会えていない?会いに行かないといけないのに?」

「そうだな。奴はAケースだからな。つまり、資産売却指導を密に行わないといけないんだが、約束をすっぽかされてなかなか会えないんだ」

「そんな奴、さっさと受給廃止にしちゃえばいいじゃないですか!」

「ああ。俺も何度か上に相談して、実際いちど廃止にしたことがある。でも、すぐまた受給開始になった」

「ええっ!どうしてですか…?!」

「うーん、いろんな勢力とのつながりがあるから、とでもいえばいいのかな」

と馬ヅラは言葉を濁す。


勢力のつながり、とは、宗教か、はたまた政治家の口利き…

俺は自分のここへの就職のことに思い当たって口をつぐんでしまった。


次の家は、10室くらいあるアパートのひとつ。

呼び鈴もどこにあるか分からない。

馬ヅラが、

「こんにちは、秋吉さん」

と、他ではなかったような猫なで声で呼びかける。

すると、しばらくして色白の、不二家のペコちゃんに似た黒目がちな中年のおばちゃんがドアを開ける。

「どうも…」

と頭を下げて、馬ヅラの隣に俺がいるのを見て、あっ、えっ、と動揺している。る

馬ヅラは、

「こちらは萬田さんです。私たちの見習いなんですよ。今日は一緒にお話しさせてもらっていいでしょうかねー?」

とやっぱり猫なで声で言う。

ペコちゃんは、

「はい…」

と消え入るような声で返事する。

面談のために居間に上がらせてもらうと、もうとっくに昼過ぎというのに、子供ふたりが丸い食卓で食事をしている。

男の子と女の子。小学校高学年か中学くらいだろうか。

ふたりとも、こちらをチラっと見て、挨拶もしない。

なぜか茶碗に白いご飯を山盛りに、ふりかけと粉チーズをかけながら食べている。

あと、サバだかなんだか、焼き魚が食卓の真ん中に一匹あって、ふたりはそれをたまにつつくように食べている。

「あ、まだご飯を食べていなかったので」

とペコちゃんが説明する。

馬ヅラが、

「あ、それは大変失礼しましたね」

と詫びる。

「生活は大変ですか?」

と馬ヅラが尋ねると、

「まあ…いろいろと厳しくて…」

とあいまいに答える。

「就職活動は?うまくいっていますか?」

「ええ…面接にも行っているんですけど」

「無理はしないで、相性の良いところを見つけてくださいね」

「はあ、はい…」

「お子さんたちは、学校に行けているのかな?」

馬ヅラは、ペコちゃんにか、子どもたちにかはっきりしないふうに尋ねる。

誰も返事しない。

「じゃあ、ちゃんと食事をとってくださいね」

馬ヅラと俺はさっさと切り上げる。

なんだか焦点の合わない、ふわっとした会話。


車に戻ってから、今度は逆に馬ヅラから問われる。

「どう思った?」

「え?そうですね…要領を得ないというか、つかみどころがないというか…」

「働けると思う?秋吉さんは?」

「働けそうに思いましたけどね、私が見た感じでは」

「なるほど、じゃあ、あの家には、どんな問題があると思った?」

馬ヅラは、ノートに書き込んでいた手を止めて、俺を見る。

「どんな問題、って…?」

「必要な支援・援助さ」

「まあ、無職だから、就職支援して、子どもたちが通学継続できるようにして…」

「そうだね。でも、なんで生活保護受給にいたったんだろうね」

馬ヅラが何を言おうとしているのか分からなくて、口をつぐむ。

馬ヅラは、おもむろに、

「彼女は、精神発達遅滞なんだ」

「精神発達遅滞…」

「そう。知的水準が低い。だから、他の人たちのふるまいの意図が分からなかったりスピードについていけず、疎まれたりやがらせされたりしがちなんだ」

「なるほど…」

「子供たちも、精神的な障害の可能性が十分高いんじゃないかな」

「そうなんですね」

「だから、彼らには医療機関受診を勧めていかないといけないんだけど、なかなか定期的な受診をしてくれないんだよね」

「どうして…」

「いやだって、結局お金はなんとかなるし、困りごとは我々調査員が出向いて御用聞きをするわけだし、とりあえず生活がやれちゃう、ってことだよな」

馬ヅラはノートを鞄にしまって車を発進させる。


次は、やけに細長いビルに到着。5階建てで、各階ふた部屋ずつしかない。

小規模会社の事務所にでも行くのか?

と思っていたら、3階の一方の部屋に入っていく。

部屋に入った、と思ったら、中はさらに4室に分けられている。

もともとはひとつの部屋だったのを無理に仕切ったふうだ。

それぞれに、簡易的なドアがしつらえられている。

馬ヅラはそのひとつにノックする。

「福田さん、狭山です。入りますね」

と、馬ヅラは手短で素っ気ないが嫌味のないふうな挨拶でドアを開ける。

中からメガネをかけた疑り深そうな表情の中年の女が顔を出す。グリコ森永事件の犯人の似顔絵に似ている。


グリコ犯は、いかにも不機嫌そうに、

「何ですか?」

と猜疑的な視線を向ける。

俺が居たのが予想外だったのか、俺の頭のてっぺんからつま先までしげしげと眺める。

「萬田正義と申します」

と、努めて微笑みながら挨拶する。

しかし、敢えてそれを無視するようにプイと横を向く。

馬ヅラが、

「通院できていますか?」

と尋ねると、

「できていますよ」

と、拗ねたように答える。

「お薬も、飲んでいますか?」

「あんたには関係ないでしょ!」

といきなり金切り声を上げる。

俺は面食らったが、馬ヅラは、うんうんと頷きながら、

「じゃあ、また困っていることがあったら言ってくださいね」

と言って早々に辞去する。


車に戻って、ノートに書き付けながら、馬ヅラは、

「何だと思う?」

と問いかける。

「病気、ですよね?」

「そ。やれることが減ってしまっている状態なんだよね。だから、彼女の仕事は、通院と薬を飲むことを継続することだよ」

そうなのか…

それでいいのか?

確かに、いま調子は良くなさそうだが、それでもちっとも働くことができないものなのか?



13、

俺が生活保護課に入職して3か月。


俺は、…再び無職になってしまった。

試用期間が満了して、そのまま正式採用にならず、体よく追い出されたのだった。

振り返ってみると、俺は受給者とも同僚とも摩擦が強かったから当然の帰結かもしれないが。

俺は、馬ヅラから、入職後1か月してから徐々に担当の受給者を引き継いでいった。

そして、みんながなるべく生活保護から脱却できるように工夫したのだ。

少しでも資産性のあるもの、有名選手のサイン入りユニフォーム、派手に改造された乗用車は換金するように強く指導し、

浪費を防ぐ手立てをし、例えば、食事は値段効率と栄養価を考えて、鶏卵、食パン、スパゲッティを自炊で使うように、ふりかけなどは値段が高いので、ふりかけを買うくらいなら野菜をあったほうが良い、「安いハンバーガーで我慢しています」なんていうのは思い込みで外食はかなり高くつくので外食しないで自炊する、と言った具体的な指導、

就職しやすいように、精神的な問題を抱えていてもこなせる軽作業の募集を見つけてきて紹介し…

と、俺なりの創意は、受給者たちには伝わらなかった。


みんな、さんざん俺に文句を言って、生活保護課にもクレームを垂れこんだ。

余計な口出しをするな、自由を侵害するのか、何の権限があって命令するんだ、できないことを強要するな、金の使い方を決める権利を侵すな、職業選択の自由を阻害するな、その他もろもろ。


馬ヅラも、

「萬田ちゃんさあ、萬田ちゃんなりのやり方を作り上げるの、いいと思うよ。でももうちょっと相手を知ってから動いた方がいいよ」

などと訳知り顔で助言してきたものだ。


ギョロ目も、指導と称して俺の仕事にしきりに介入しようとしてきた。

でも、俺は待ってなんかいられなかった。

みんなの金を無駄遣いしている、と思うと居たたまれなかった。


もっと言うと、とりあえず目の前の自分の仕事だけをやったふりをしてごまかす(そうとしか俺には思えなかった)生活保護課の連中には辟易した。

俺がお手本を示すんだ、という気持ちで張り切って取り組んだ。


それが、俺を追い出して、ハイさようなら、とは…


団地の公開空地のベンチで、ぼうっと座って青空を見る。

雲がゆっくりと流れていく。

ちょっと見ただけでは雲が流れていくのが分からないが、しばらく時間が経ってから雲を見ると、さっきとは形が変わっているので雲は流れているんだな、と分かる。


雲の流れを見ようと、じっくり見ていると…

「こんにちは!」

とやけに通る声で挨拶された。

おわっ、と驚いて、声の主をみたら、腹話術人形だった。

「えー…、お元気ですか?」

などと聞いてくる。さては、俺の名前を忘れたな、就職の世話したくせに。こいつは、麦長っていうんだっけ。俺が試用期間で切られたことを、知っているのだろうか?


「ああ、麦長さん、こんにちは」

「いいお天気ですねえ」

「本当に」

会話が続かない。


コイツ、もしかして俺に就職の世話をしたことをも忘れているんじゃなかろうな。

「なかなかうまくいかなくて」

「ほう?うまくいかないんですか?どういったところがですか?」

やっぱり、忘れている。たぶん、コイツの頭の片隅にも、俺の存在は残されていないんだろうな。

「いや、仕事がね」

「仕事…ああ、就職なさったんですね」

「ええ。あなたの声がけ…、いや、お勧めに従って、市役所に行ったんです」

「私の…?」

あれ?知らないのか。

さては、あの時の、ひょっとこの奴、腹話術人形に相談したふりをして、独断で生活保護課を勧めたのかもしれない。

「そうですよ、あなたが仕事を勧めてくれる、って言ってくれたから、貴方の事務所に行ったんですよ」

「ああ、そう…でしたね、失礼しました。で、どちらでしたっけ?」

「生活保護課」

「え!?生活保護課、入れませんでしたか?」

「いえいえ、入職はしたんですが…切られちゃって」

「ああ…そうでしたか。あそこは仕事がハードなんですよね。だから入れ替わりも激しくて」

と言って腹話術人形は口をつぐむ。


なんだと?

入れ替わりが激しい?

コイツは、そんな厳しいところに俺を押し込もうとしたのか。

てか、入れ替わりが激しいんなら、推薦なんてなくても入職できたんじゃないか。


腹話術人形は、

「では、お詫びに、という訳でもないですが、しばらく私の仕事を手伝ってくれませんか?」

などと言う。


「仕事…?市会議員の?」

「ええ、そうです。選挙スタッフとして、事務所に入ってもらえませんか?」


選挙スタッフとして…

そうか、そういえば市議会議員選挙が近いって、琴子先生も言っていたっけ。


選挙スタッフ、運動員ってやつか。

経済力のある候補者が有利になるから選挙運動員はボランティアでなくてはならない、という公職選挙法の規定が、いくらなんでも荒唐無稽である、ということと、やりがい搾取問題がクローズアップされたことが相まって、数年前に金銭によってある程度の人数は選挙スタッフを雇い入れることが可能になったのだったな。


俺には、腹話術人形がどことなく胡散臭くていけ好かないけど、選挙スタッフならば選挙が終わるまでの一時的な雇用だろうし、やってみようか…

「分かりました。お願いします」

「お、じゃあ、さっそく明日、うちの事務所に来てよ」

「はあ…」

自分の部下だとなったら、急にえらそうな言いかたになった。

本当に底の浅い嫌な野郎だ。

でも、選挙の裏側を生で見てみたい気持ちも強い。

しばらくの間、頑張ってみるか。


「じゃあ、明日、事務所のほうに行きますんで」

と言うと、腹話術人形は満足そうにウンウン頷いている。



14,

言われた通り、翌日、麦長の事務所に行く。

中に入ると、かなり人の出入りがあって、慌ただしい。

「車っ、車の数、足りないよ!」

「はい、麦長あさお事務所でございます、どういったご用件でしょうか?」

「市役所に言っておかないと。俺がチェックするから、まとめておいて」

怒ったようにがなりあっている。

お祭りの準備をしているみたいな活気がある。

高校の時の文化祭を思い出した。

きっと、この選挙の当落には、多くの人の希望や願いがかかっているのだろうから、高校の文化祭だなんて、そんな物見遊山な気分では叱られるだろうが。


誰に声をかけたものか、しばらく様子を見ていると、前に来た時に対応してくれたひょっとこが、厳しい顔つきでスタッフたちに指示していたのを、俺に気づいて急に相好を崩し、声をかけてくる。

「あ、これはこれは!…萬田さんですね、しばらくです」

「こちらこそ、ご無沙汰です。その後、挨拶にも来ず、失礼しました」

「なんの、なんの。なかなか厳しい職場でしたかね、合わなかったのなら申し訳なかったです」

「いや、そんなことはないですよ。私としては、やりがいを感じていたんですが…」

「そうでしたか、それならよかったんですが」

ひょっとこは、ちゃんと俺のことを覚えてくれていたようだ。


「それで、また麦長さんにお会いして、こちらでお世話になるように言われたもので」

「ええ、承っていますよ。もう、ご覧のとおり、選挙となると、上を下にの大騒ぎになるんですよ。人手も足りなくて。来ていただけると、本当に助かります」

ひょっとこはそう言って頭を下げる。

慌てて俺も頭を下げる。


「萬田さんには、遊撃隊的に、その日ごとにいろんな仕事をしていただきたいと思いますがよろしいですかね。運転免許はお持ちですか?」

ひょっとこは、テキパキと話を進める。

事務所に顔を出したその日から、物を運んだり、支持者の打ち合わせに同行するように指示された。

その日の終わりには、ひょっとこから直接、「ご苦労様」の言葉とともに封筒が渡された。

中には、現金が入っていた。

なんだ、謝金は毎日現金で渡されるのか…

デジタルマネーかポイントが良かったのだけれど…



15,

目まぐるしく選挙の手伝いをしているうちに、公示日、つまり正式に立候補を届け出て、選挙活動を開始する日が来た。


その日は、朝の早めの時間から事務所に来るように言われて、行ってみると立錐の余地もないくらいの人、人、人、…

支持者と運動員たちだ。

事務所に入りきらなくて、入り口を開け放って、入りきらなかった人が外にあふれ出している有様だ。

コイツは、こんなに人間を動員することができるんだなあ、と、その点には感心した。


俺も、外から背伸びをするようにして中をのぞく。

集まった支持者と運動員たちの前で、腹話術人形はかしこまったようすで咳払いしながら演説をする。

「ええ、ワタクシ麦長あさお、皆様の声を市政にお届けするために、今回の市議選にも立候補することを決意いたしました!」

いいぞ、いよっ、待ってました、と、合いの手のヤジが飛ぶ。

腹話術人形は、その合いの手に満足そうに頷きながら続ける。

「今般の市政は目を覆いたくなるような情勢です。ことに、大手企業の傍若無人な振舞いには憤りを覚えます」

わっ、と拍手が起こる。

「我々のまちにやってきて、工場を打ち立てて、人々を安い賃金でこき使う。ルールも守らない。特に、鳩正精密機械や山猫機械、およびその関連会社!目に余るものがあります」

さらに大きな拍手。

そうだそうだっ!あいつらをぶっ壊せ!

とヤジが飛び交う。

山猫の名前が出て、俺はドキッとする。

琴子先生のことを思い出す。


そうだ、琴子先生も、この選挙に出るって言ってたっけ。

こんな、出陣式?みたいなことをしているんだろうか?

「大会社が来たせいで、私たちは大損害を受けている!経済も環境も、めちゃくちゃにされている!」

そうだっ!けしからん!

「だから懲罰をくだす必要がある!ワタクシ麦長は、大会社に課徴金制度を作るつもりです!」

よく言った!もっとやれっ!

「この日々市再生のために働く、この麦長にどうぞ力をお貸しください!」

深々と頭を下げる腹話術人形に、

もう当選だ!君しかいないよ!

などと煽るように野次が飛ぶ。


熱気にうかされた支持者と運動員たちの中で、俺はどういうふうに居たらいいか分からず、呆然と立ち尽くす。



16,

選挙が公示されてからは、さらに忙しくなる。

俺も事務所で、何人か市民の「ご意見」を頂戴したものだ。


いわく、

「川沿いの景観を良くしてほしい」などと言って、体よく自分のマンションの周りだけを植栽・清掃させようとしたり、

「日々市主導で高齢者住宅を改良してほしい」などと自分の親を入居させている老人ホームの改修をさせようとするのなどはカワイイほうだ。

「日々市を宇宙船打ち上げの街にすべきだ」とか、

「オリンピックを誘致しろ」とか、

荒唐無稽な意見や、

「カメムシが家の中に入ってきたから市役所に相談したら冷たくあしらわれた」

「勤務を全部リモートワークにしてほしいと会社に要望したが通らなかった」

とか、市政と関係ない話を持ち込む者も多かった。

果ては、

俺にヒソヒソ話で耳打ちするように「俺は、10票取りまとめることができるぜ?」

などと言って、袖の下を要求する奴もいた。

いまだに、こんな強請りたかりがいるとは、驚きだ。


まあ、日々市はこんなもんなんだろうな、というか、みんな自分が無名であることをいいことに、めちゃくちゃを言ってきているのだな、と思った。

有名人ならば、「こんな無茶なクレームをした」とか、「こんな愚かな発言をしている」とか言われて、評判を落とすのだろうけど、しがない一市民にはその心配がないから、強引にチャレンジしてくるわけだ。



17,

そして、選挙中盤のある日、俺は日々市駅前ロータリーで待機して、腹話術人形が演説に来た時のアシストをするように指示された。

なぜか演説開始の予定の時間よりも1時間早く行くように、との指示だ。


アシスト、とは、要するに、演説中に野次を飛ばすことだ。今回は、味方なので「良い野次」を飛ばす。


気の利いた野次を飛ばせるか、甚だ自信がなかったが、まあ、とりあえず合いの手を入れておけばよいだろう、と腹を括る。


ロータリーは、日々市じゅうの人が集まったのではないか、と思えるほどの大混雑。

腹話術人形はなかなか人気があるな、と思ってよく見たら、黄色のポロシャツを着た連中がずいぶん混ざっていて、同じような黄色ののぼりが立てられていて、谷川琴子候補来たる、などと書かれている。

どうやら、ロータリーの反対側に、琴子先生が選挙演説に来るらしい。


ほどなくして、選挙カーがゆっくりとロータリーに入ってくる。

琴子先生のイメージカラーの黄色のボックスカーだ。

ロータリーで待機していた何人かがパラパラと拍手する。


そして、琴子先生が車の上に立つ。琴子先生が姿を現すと、もう少し拍手が増える。

でも、このロータリーにいる人の一割も拍手していないだろう。


髪をポニーテールにして、少女のようだ。それでいて、胸を張って自信ありげな面持ちであっちこっちに手を振って、頼りがいを感じさせる。

琴子先生、堂々とした態度だけど、苦戦しているのかな…


琴子先生は、マイク無しで、よくとおる声でやおら演説を始める。

「谷川琴子です。みなさま、ようこそお集まりくださいました。通りがかった方も、もしお時間があればぜひ私の訴えをどうぞお聞きください」


聞く気はねえよ!さっさと帰れ!

と野次が飛ぶ。「悪い野次」だ。

何人かは、迷惑そうに野次る男たちを見る。


そうか、早めにロータリーに行く指示だったのは、琴子先生の演説を野次るためだったのか。

悪い野次には耳も貸さないふうに、琴子先生は演説をする。


「みなさん、日々市ひお好きですか?私は大好きです。人と企業、自然と産業のバランスがとても良いからです」

まばらな拍手。

「しかし、この数年の日々市はいかがでしょうか?他地域からの流入は少なく、逆に日々市を離れようとする住民が多く、徐々に空洞化が始まっています。その理由は何か?率直に言って、日々市のイメージが悪すぎるから、だと思います」

聴衆はじっと聞き入っている。


多くの候補者は、選挙民に取り入ろうとして、お世辞を言っておだてて、総花的なイイコトだけを言おうとするのに、琴子先生は、いきなり日々市の欠点を上げてくるのだから、聴衆も面食らっているのだ。


琴子先生は、そんな聴衆に、かと言って挑戦的な訳でもなく淡々と話す。

「住民トラブルが多い、無理な要求をする者が多い、怠惰で協調性がない…」

誹謗中傷だ!何を根拠に言ってるんだ!の怒声あり。

「インターネットの書き込みでよく見られますよね、日々市の悪口は。そして、ネットに書き込む人は、なぜそうするのか?読んでもらいたいから、他人を説得したいから。断定的な書き方をするのは、相手をなし崩しにそう思い込ませたいから、間違っていた時の責任を取らなくて良いから」

それこそ思い込ませだろ!

「それは、水掛け論でしょうね。ただ、はっきり申し上げると、日々市のイメージの悪さは、公然の秘密ではないですか」

そんなことはないぞ!お前がイメージ悪くしているんだ!

「ネットへの無責任な断定的書き込みは眉を顰めることもありますが、この状況を打破したい気持ちの表れとも言えると思っています」

またまばらな拍手。しかし、無責任なのはお前だ!とも怒声あり

「そう、私は責任を自覚することが大事だと思います。みなさん、日本の国家予算はご存知ですか?」


キョトンとする人々。

200兆くらい?とひとりが叫ぶ。

「そう、もうすぐ200兆円くらいになりそうですね。では、T県の予算規模は?お分かりですか?」

えっ、という顔つきの人々。

そんなのカンケーねえだろ!の怒鳴り声。

「T県の年間予算は1.5兆くらいです。では、この日々市の年間予算は?」

誰かが、1000億くらい、と。

琴子先生は、微笑みながら、

「いえ、日々市は3000億円くらいの年間予算があります。近隣都市と比べて、人口一人当たりの予算はかなり多い方です。この予算で、もっとも多いものは何だかご存じでしょうか?」

またもや、迷ったような声で、人件費?と。

琴子先生は、答えてくれた人と目を合わせながら、にっこりと、

「惜しい!人件費は15%くらいで2番目に多い支出項目です。一番多いのは、扶助費、つまり、社会保障費ですね」

だからどうした!福祉を削るのか!

「私がお伝えしたいのは、私が予算の項目のどこを重視しているか、ということではなくて、みなさんが、この日々市のことを知らなさすぎる、ということを指摘したいのです」


俺は愕然とした。

選挙民に対して、あなたがたは無知だ、と指摘する琴子先生。自分が立候補しているにもかかわらず。

支持者も敵対者も、びっくりして声が出せない。

しかし、琴子先生は泰然として、続けてマイク無しで聴衆に話しかける。

「日々市のことも、この市議選挙の立候補者の信条もよく知らないままに投票をする。おかしなことですよね」

と琴子先生は、さらにたたみかける。

市民の声を無視するな!と怒鳴る者がかろうじていたが、虚しく響くのみ。

「でも、そんなものですよね。みんな自分の目の前にあることが関心の大部分を占めていて、あとはあまり気にしていない。それ以外の公(おおやけ)のことなんて、誰も気にしていない。誰かが良きに計らってくれるだろう、と思っている」

何が言いたいんだ!イラついた声

「そこで、私が提案したいのは、…」

と、そこでロータリーの反対側がざわつく。

ゆっくりとボックスカーが入ってくる。上には、デカデカと真紅のイメージカラーに白抜きで「麦長あさお」と書かれた看板あり。

あれ?腹話術人形の演説時間にはまだ早いはずだが…


そうか、本来は同じ場所で演説時間が重ならないように使用許可が出されているはずだけど、嫌がらせで、わざと少し早めに来たんだな…

腹話術人形は、颯爽とボックスカーの上に立って、大音量のマイクで話し始める。


「日々市のみなさーん!むぎなが、麦長あさおでございます!市民の皆様のために一生懸命働く、麦長が、ご挨拶に参りました!」

イヨっ!待っていました!真打ち登場!などとふざけて、何人かがわざとらしく笑う

「ええ、ええ、私はこれまで5期20年、日々市議をしてきたわけなんですけれども、今回ほど危機感を感じたことはありませんね、ええ。東京から進出してきているいくつかの企業がですね、相も変わらずこの日々市を食い物にしていうわけですよ、市民も、環境も。ええ。ですから、これらの企業は、この日々市に根差していきたいのであればですね、ええ、地元に十分な還元をすべきなんですよ、ええ」

何人かの人が、強く拍手。いいぞっ、よく言った!

「そこで、私は、企業に新たな税金を課す所存です!企業が支払う給与に応じて、日々市に税金を納めさせるのです!」

おおっ!すごいぞ!企業の横暴を抑え込め!

「おや?これは、谷川候補、お疲れ様です。谷川候補は山猫機械工業のご出身、というか、まだ籍がおありなんですよね」

なんと、腹話術人形は、選挙演説中の相手候補に話しかけた。それも、論戦を挑むつもりのようだ。

琴子先生は、やっぱり笑顔で、マイク無しで答える。

「はい、そうですよ。私はいまも山猫機械工業の社員です」

「ほらっ!ひどい人ですよ、私企業に勤めながら市政にも入り込む!癒着の温床ではありませんか!」

強い拍手がまばらに起こる。

「このように市政を我が物にする山猫機械!私はこの山猫機械は解体してですね、日々市のものにしちゃえばいいんですよ!」

そうだっ!ぶっつぶして召し上げろ!狂ったように叫ぶ者がいるが、だいたいの聴衆は冷ややか。

「なぜ、山猫が潰されるんです?法令を守り、地域に貢献しているのに?」

「形ばかりルールを守って、日々市を食い物にしているんですよ!だから大儲けできている!市民から奪い取ったんだから、ぶち壊して取り返すんです!」

「私たちはもちろんルールを守っていますし、それも形骸化したルールではなく実効性のあるルールに準拠しています。むしろ、私どもに厳しいルールだと思っていますよ。事業税も外形標準課税が大きくかかり、協力金やメセナという形でかなり市に対して支出しています。私たちは断じて不当な形で利益を出しているわけではありません。商品の品質と価格において人々の信用を勝ち取り、雇用や社会への貢献も十分に行って、長年かけて企業活動を確立してきました。それを、なんとなく、という理由で破壊するのは道理に悖るのではないですか?」

琴子先生の演説中に、もう黙れー!嘘ばっかりだ!などの怒声が少数あり。

腹話術人形は、シンパたちの野次にウンウンと頷きながら、

「いやいや、民衆の判断で、横暴な企業は打ち壊しますよ!」

述べる。

「民衆が、わが山猫を打ち壊すんですか?そんな民衆の専制が許されると思っているんですか?」

「…ワタクシ麦長は、自分のことを民衆の先生とは思っていません!麦長は、民衆とともに歩みます!」

「いや…うーん、努力しない民衆のルサンチマンによって、山猫を好き勝手につぶすことは許されない、と言っているんです」

「…そうですか…」

ぽかんとしている腹話術人形。ルサンチマンの意味が分からないらしい。

訳の分かんねえこと、言ってんじゃねえよ!黙れ!と野次が飛ぶ。

訳が分からんのは、バカだからだ、勉強せえ!おめえが黙ってろ!と野次に対する野次が飛ぶ。

どっと大きな笑いが沸き起こる。大多数の人が琴子先生に好意的なようだ。


野次を飛ばしているのはごく少数だ。でも、ガラが悪そうなのでなかなか抗議できないでいるだけなのだ。

「私は、別に民衆をバカにするつもりはないのですが、民衆の横暴には心を痛めています」

民衆の横暴とは何て言い草だ!撤回しろ!

「みなさんは、自分たちがよく知らないうちに、国や自治体の予算が通り、予算が執行つまりお金を使われていることに、無頓着なのではないですか?実際に、さっきの予算額の質問に正しく答えられる人はひと握りではありませんか?」

予算なんて知らなくてもいいだろ!

「この選挙だって、立候補者がどのような世界観を持ち、どのように政策を考えているか、投票者のみなさんはほとんど知らないのではないですか?」

俺は知っているぞ!お前だけはダメだ!

数名がわざとらしく大声で笑う。

「そして議員が理屈に合わないことを言いだしたり不祥事を起こすと、市民は裏切られたなどと言う。投票した人が悪い、という話にはなぜかならない」

訳の分からないことをいって不祥事を起こすのはお前だ!

「どうして、こんなことが起こるのでしょう?私は、これはよく学ばないで投票するから、だと思うのです」

よく学ばない、というのは議員が?市民が?

「良い質問です。それは、両方です。」

はあ?不勉強なのはお前なんだよ!

「よく知らないのに投票する。こんな危険なことはないのではないですか?」

琴子先生は、腹話術人形ににっこりと笑いかける。

腹話術人形は、自分の愚かな錯誤に気づいてしばらく黙っていたが、琴子先生の笑みにつられて、つい言ってしまう。

「じゃあ、どうすりゃいいんですか?」

「私は、委員会を強化するべき、という提案します」

「委員会を?強化?」

「ええ。市議会の議事は委員会制度のもとで進められていますが、各委員会は市議として選挙で選ばれた人だけ投票して本会議に上げる仕組みになっています。これに、一定の知識と専門性を持った市民が投票に加われる仕組みに直すべきです」

「はあ?市民が?投票?」

「ええ。議員ではない専門家にも投票に入ってもらい、条例の妥当性を高め、独善に陥らないよう監視を強めるよすがとすべきです」

「何をいっているんですか、我々議員は十分市民の皆さんから意見をお聞きして、それを市議会全体で議論して条例に反映させる、それでいいじゃないですか?」

「市議会全体…では討論していないですよね。主に委員会の場で討論されているわけですから」

「なんですと?市議会で討論しないんですか?全体での討論を否定するんですか?谷川議員は…いや、候補は」

麦長先生から当選確実いただきました!と野次が飛んで、またも大きな笑いがどっと起こる。

「うーん、ドクカイセイもいいですが、さすがに今の時代は委員会制でないと…」

「えっ!?なんですと?独裁制がいい、ですと?谷川議員…いや候補は?」

ひでえな!谷川ファシズム!

谷川琴子候補の当選確実が当選確定になりました!

野次が野次を呼んで、聴衆が騒がしくなる。

琴子先生も何か叫んでいるが聞こえにくくなってしまい、仕方ない、という表情でハンドスピーカーを手にして話す。

「独裁制、じゃなくて、読会制です。三読会制の、読会制!」

「みなさん、聞きましたか?確かにいま谷川ぎ…候補は、独裁制がいい、と言いました。民主主義を破壊しようとしているんですよ?どうですか!?」

麦長は大声をかぶせて琴子先生の声を封じようとする。自分の無知・不見識を糊塗するために。

琴子先生も訂正を試みるが、麦長の運動員が大騒ぎして、もう何も聞こえなくされてしまう。

谷川帰れ!ゴーホーム谷川!

独裁者ひっこめ!

琴子先生は、困ったような顔をしたが、仕方ない、というふうに肩をすくめてボックスカーの上から姿を消す。

聴衆からは大きな拍手!

琴子先生が去ったことに拍手したのか、琴子先生の演説に対する喝采か。

腹話術人形は、、満足そうにカクカクと頷いている。



18,

日曜日の深夜。

麦長事務所はどんよりと重い空気に包まれている。

詰めかけていた支援者はいつの間にかずいぶん帰ってしまい、運動員は所在なさそうにぼうっとしている。

ほんの3時間前は浮かれて大騒ぎしていたのに。


その時は、てっきり腹話術人形が当選すると、関係者一同信じ切っていたからだ。

あるじの腹話術人形も、もう勝ったつもりになっていて、周りの人々とはしゃいでいたのだ。

「今回ほど手ごたえのある選挙戦はなかったですよ!絶対、勝利まちがいなしです!」

とゲラゲラ笑う。


けっ、何が勝利だ。選挙に勝ちも負けもないんだよ。

ただ、民意が出たってことだよ。

誰だよ、いつから選挙で勝ちとか負けとか言い出した奴は。

なんて、調子に乗っている腹話術人形を見て、俺も毒づいていた。


ところが実際開票が進んでみると、状況はなかなか厳しく、当選は難しそうな情勢で次点になりそうと、地元ケーブルテレビで伝えられるや、事務所に白けた空気が流れ始め、徐々に人の波が退いていく。


俺も、腹話術人形が当選した暁には、何らかの形で職がもらえるかもしれない、と淡い期待を抱いていた。


しかし、こいつが落選してしまったらそんなことは望むべくもない。

それどころか、下手したら俺が腹話術人形に生活保護受給申し込みの助言をしないといけなかったりするかもしれないのだ。


俺がボケっとケーブルテレビの開票速報を見ていたら、ひょっとこがそっと側にやってきて、俺に耳打ちする。

「ちょっと相談したいことがあるんだけど、いいかな?」

ひょっとこは笑っているつもりだろうが、こわばって目が笑っていない。


俺はひょっとこに別室に連れられる。俺を部屋に押し込んで、ひょっとこはドアを後ろ手に閉める。

「なんすか?」

ここ数週間の忙しさのどさくさで、俺はひょっとこに馴れ馴れしい口のききかたをするようになっていた。

「君、谷川候補…議員のことを知っているか?」

「ええ、もちろん、知っていますよ」

「あ、うん、そういうことじゃなくて、個人的に知り合いなんだろう?」

俺はドキリとして、ひょっとこをまじまじと見る。

ひょっとこは、俺をじっと見据えてにやりと笑う。


俺が黙っていると、

「いや、別に、責めているんじゃないんだ。君が谷川候補…議員と恋仲になろうと、それは自由なんだけどね」

などとぬかす。

「は?恋仲?」

「いや、隠さなくていいんだ。いまはもう」

「隠すも何も…」

「飲み屋でおごってもらったこともあるんだろ?」


おごってもらった…

あの、日々市に転入してきた初日のことか。

思い当たるのはそれしかない。

しかし、なんでそんなことを知っているんだ?そしてなぜそれを持ち出してくるのか…


「君は、谷川琴子議員に、我が陣営の状況を偵察する目的で潜入してきた。違うかね?」

俺は、ひょっとこの突拍子もない想像に、心底驚いた。

「いやいや、違いますよ。だって、俺は職が無いからなんとかしてもらおうってこの事務所にやってきたわけで…」

俺は、自分の無実を証明することが案外難しいと分かって、狼狽えた。

ひょっとこは、もう笑っていない。

「いや、だって、分かるでしょ!?ここ数週間、俺と一緒にいたんなら、そんな不審な振舞いがなかったことに?」

「君、萬田君、東京に戻りたくないか?」

「は?東京?」

「現金だけだと、生活に不便じゃないか?SVPやTTPが欲しくないか?」

SVPはスーパーバリューポイント、TTPは東京トータルポイント、いずれも東京では効率が良く特典も多い上級クラスのポイント制度だ。

これを得られるのは、きちんとした職業や厳しい経歴審査に通った者だけだ。

「谷川琴子の手先だったと証言してくれたら、融通できるよ」

ひょっとこは瞬きもしないで俺の顔を覗き込んで言う。


そうか…

腹話術人形はこの選挙で次点だから、上位の誰かが失格になれば繰り上がり当選になる。

だから、谷川先生のことを失格にさせようと目論んでいるということか。

そして、このひょっとこの話しぶりだと、別に俺は谷川先生と深い関係でも何でもないことは了解の上で、嘘の証言をさせようとしているのだろう。


なんと卑怯な…

「萬田君が証言を拒否しても、我々の方で萬田君と谷川議員の関係と、萬田君が送り込まれてきたことを告発するつもりだよ。その場合は、萬田君の東京行き、ポイント制度加入の話は、もちろんなくなるわけだがね」

と、ひょっとこはやはり笑いもせず俺に告げる。


俺は、何も言えずにひょっとこを見返すばかりだった。



19,

開票の翌々日。

俺は、記者会見場に座らされている。

隣には腹話術人形が座っている。

ひょっとこがセッティングした記者会見場だ。


向かい合わせで、多くの報道陣がやってきている。あらかじめの概略発表もないから、みんな興味津々なようすだ。

生贄として晒された俺は、じっとり脂汗がにじみ出て、前を向くことが出来ない。

ふと視線を降ろすと目の前には無数のマイクが置かれている。

そして、机の上に、原稿が数枚。俺のために、ひょっとこが書いた原稿、筋書だ。

「俺が日々市にきて何をしたかの告白文」だ。

谷川先生に呼ばれて日々市に来て、選挙で対立候補の妨害のために活動していたことが書かれている。

ひょっとこは、元警察官だという。どうりで、ストーリーを作るのがうまいわけだ。


腹話術人形が、無理に渋面を作ってマイクに向かって喋る。

「麦長あさおです。みなさま、本日はお集まりいただきましてありがとうございます。さて、本日は先般行われました日々市議会議員選挙で、ワタクシ麦長あさおも立候補して善戦虚しく、次点に泣いたわけでございますが、当陣営の運動員のひとり、萬田正義君が、みなさまにお伝えしないといけないことがあるとのことで、この場を設けさせていただきました。では、萬田君、みなさんにどうぞお話下さい」

自分で善戦虚しく、ってなんだよ。

俺は、緊張を押し殺してゆっくりと話し始める。

「皆様、今日はお越しくださってありがとうございます。おr…私は皆様にお話ししなければならないことがあります」

思い切って顔を上げると、たくさんの顔が見える。

記者たちの「なんの面白いことを話してくれるんだい?」という品のない、もの欲しそうな顔、顔。

ひょっとこもいちばん前の席を陣取って、腕組みしてふんぞり返っている。

「私は…半年前に、東京から日々市にやってきました。その理由は…」

緊張で声が上ずってしまう。

ひょっとこの書いた原稿には、「その理由は、谷川琴子候補の指示に従って、麦長あさお議員を陥れ、選挙活動を妨害するためです」となっている。

しかし、俺は…

「その理由は、私の怠業が著しく、行き場を失って、日々市に流れ着くことになったためです」

と続けた。

ひょっとこが、えっ、という表情で立ち上がりかける。

「いえ、ちょっと、自分の言葉で話させてください」

と、俺はひょっとこを制する。

ひょっとこは、訝しげな表情でまた腰を落とす。

俺はひょっとこが捏造した原稿なんて見ずに、思ったことを話そうと心に決める。


「俺は、かつての俺は、なんでも知っていて、なんでも考えることができて、だから、自分の考えをなんでも認めてもらって当然だ、と思っていました」

いったん言葉を切って、周りを見る。

コイツは何を言う気だ、と戸惑っている記者たち。思考力の少ない大衆にも直ぐ分かる、でも本当ではない記事ちゃちゃっと書いて、さっさと家に帰ってビールを飲みたいんだろうな。

横では、腹話術人形が、渋面を作って腕組みをしている。まったく中身のない扇動者。

俺は言葉をつなぐ。


「でも、本当は違った。俺は、子どものころから半端にしか努力をしないで、だから半端にしか知らないで、半端にしか考えることができない」

自分の中の混乱が、言葉に直すことで整理されてくる。


「俺は王様です、王様でした。何でもしてもらって、何でも文句を言って、それで当然と思っていました。変なふうに自分の権利を拡大してあぐらをかく。他人に感謝もしない。都合が悪くなったら自分が無名であることをいいことに大勢の中に紛れ込む。無責任な王様でした」

「でも、私は、もうそんな卑怯な態度はやめよう、と決心しました。こんな、自己満足のためだけに訳もなく自己主張し、社会を誤った方向に導くふるまいは、やめなければならない」


腹話術人形は、頭の上に大きなクエスチョンマークが出ている。自分が食べたものの味が、思っていたのと全然違ったときのような表情。

腹話術人形が、しびれを切らして、

「それで、今日は君の卑怯なふるまいについて、皆さんにお知らせするんだね?谷川議員についてのことで」

などと話を促す。

「そうです。谷川議員、見事にトップ当選でした。可愛らしい女性が健気に頑張っている、というイメージが奏功したのかもしれません。でも、みなさん。そこで思考を止めてはいけない、と私は思うのです。ぜひ、彼女の訴えに耳を傾けるべきだと思うのです」

腹話術人形が、

「…ワタクシ麦長も、懸命にこれまでの実績と、みなさまのご期待にお応えする元気とを訴えてきましたが、残念ながら力及ばず。でも、もし不正があって、この結果が不当なものであるとするならば、ワタクシ麦長は声を上げるつもりで…」

とさらに言葉を挟んでくる。

「実績、元気…どうなんでしょうか?これまでの実績について、議員歴がある人はきちんと検証を受けるべきではないでしょうか?一時的な熱気や業界の利益誘導になっていたかどうか、時間をおいてから振り返り、それが特別職公務員つまり議員の選定に生かされるべきです。また、元気、というけれど、声だけが大きくてやけに落ち着きがない、というタイプの人間が、政治家には多すぎませんか?知識が豊富で、思考に深みがある、静かな努力家の合理的な意見が取り上げられる仕組みが、まるで出来ていない。有象無象の愚かな意見に埋没してしまうしかない」

俺は、横にいる腹話術人形に向き直る。

「今回の選挙を手伝わせてもらって、いろんなことが分かった。気づくことができた。その意味で感謝します。でも、あなたのような人が議員でいてはいけないと思う」

ときっぱりと言った。

腹話術人形は、記者たちの前で酷評されたが、言葉を返すことができない。

「へにゃ…へにゃらら~」

と意味不明のうめき声をあげる。

俺は、やけになって、

「ありがとうございました。言いたかったのはそれだけです。皆さんも、よく考えてくれると良いのですが」

と捨て台詞を吐いて立ち上がる。

「おい待て!なにか言うはずじゃなかったのか!?」

とひょっとこが追いかけてきて俺の肩をつかんで引き戻す。

俺は、ひょっとこのほうに向き直って、

「あんたが書いた嘘八百の原稿を、なんで俺が読に上げにゃならんのだ。てめえで読め」

と言って踵を返すと、ひょっとこはさらに俺の腕を強く引き戻す。

「ふざけんな!東京に『よみがえり』できなくしてやる!」

「ふざけんな、ってのはこっちのセリフだ!」

俺は、ひょっとこの手を振り払おうとするが、ひょっとこは強くつかんで離さない。

俺は、ふと、空いている方の手で、床を伝うマイクのコードの束をつかんで思い切り振り回す。

すると…

マイクのコードはひょっとこの頭にゆっくり当たり、その先のマイクの束が速度を増してグルンと回り、結果、マイクの束はちょうど腹話術人形の側頭部を直撃した。

コーン、と高い良い音がして、腹話術人形は、

「ばっちりゴンゴン…っ!」

などと再び意味不明のことを言って、目を回して倒れる。


記者会見場は、一瞬、しずまり返ってから、

「麦長先生倒れた!救急車!」

「先に意識確認して」

「警察にも連絡!」

「道開けて!」

「カメラはダメだよ!下がって!」

と、騒然となった。

俺も、思わぬことで呆然となる。

ふと、横を見ると、ひょっとこがちょうと額のあたりにマイクのコードがひと巻きハチマキのように巻かれて、本当のひょっとこみたいになっていた。



20,

谷川先生の選挙から、15年の月日が流れた。


俺は、コーディネーターになった。

コーディネーターというのは、議員と市民の間に位置する、政策や条例制定の実質的な討議と意見集約の担当者だ。

コーディネーターは、10の分野に対して、10名から30人弱くらいまでの人数だ。

この10の分野というのは、市議会の委員会の所管分野に対応している。


コーディネーターの責務は、

「市の条例案・決議案について、あらかじめ十分な予備審査を行うこと」

である。

議会の本会議・委員会ではなかなか議論や審査を深めることができないからだ。

限られた数の議員では、

「何を議論すべきか」

「議論から導き出される結論は妥当か」

と、条例制定能力を担保することが難しいのではないか、という素朴な疑問があった。

それに対して、

「では、議員の活動を補佐しよう」

という考えのもとで始められた制度が、このコーディネーター制度なのだ。


「議員とはガサツで、必ずしも知的に高くなく、自己主張が強いだけで中身がない者が多すぎる」

(きちんとした議員もいるが少数派)

という多くの一般市民のウンザリした気持ちが、

「なんてこと!議員だけに託された議決権を侵害するつもりなの!?」

という少数のヒステリックな意見を抑えて、導入された。


コーディネーターの仕事は、

「今会期で議題としなければならないことを、ひとつの会期で5~10の間で挙げること。特に重要と思われるものをひとつないしふたつ」

「過去に成立した条例で見直すべき点を1~5挙げること。特に重要と思われるものがあればそれを明示してもよい」

「挙げた論点について、専門知識と実際の現場で意見聴取を綿密に行った上で、コーディネーター間で十分議論し、決を採ること。特別な理由がない限り、議論は公開され、その議事録や討議の録画は誰でも見ることができるようにする」

ということである。


コーディネーターが作った「素案」について、

「議会の委員会は、コーディネーターが挙げた『素案』を十分吟味のうえ、市議会の議題に上げること」

「市議会本会議は、議会委員会の議決を尊重することを旨として全体で最終議決を採ること」

という仕組みになっている。


つまり、コーディネーターが細かいところまで詰めて、議会に上げるのだ。

また、

「コーディネーターは、特に必要と考えた場合、市民全体の全市民投票に付することを、委員会に勧める。委員会はそれを受けて市議会本会議に全市民投票に委ねるかどうかを吟味する」

「コーディネーターの議決と各委員の投票の一致不一致は公表される。議員は、不一致の投票をした理由を述べるべきとされる。本会議の議決も同様」

という規定もある。

コーディネーターが決めた案に、議員は反対することができるが、反対するのにはその議員が相当こだわっている理由がある場合である。それは議員も意見陳述する場が与えられるというわけだ。


そして、そのコーディネーターになるには、そう簡単ではない。

「コーディネーターになるには、各分野のコーディネーター選抜会に立候補して選ばれることでなれる。候補者は、時事テスト、教養テストが課される。点数は公表され、政治信条表明書と、過去にコーディネーターか議員となった経歴がある者は条例案・議案の賛成反対の別とその案の成否が一覧表示される。それをもとに住民審査に付され、決められた数の「可投票」を得て、かつ、決められた数の「不可投票」に達しない者が、テストの点数上位から順に選ばれる」


コーディネーターは、身分は有期限公務員。

やはり、テストによって知識教養思考力が優れている人間を選ぶ仕組みである。

教養テストは、基本共通テストと専門分野テストから成っている。

基本共通テストは、簡単な論理テストなどが出題される。

たとえば、同じ意味になるのはどれか?という出題で、

「国家議員には全国鉄道パスが与えられる」

という文は、

「全国鉄道パスが与えられていなければ、国会議員ではない」

という文とは、同じ意味である、というふうな。

専門分野テストは、立候補した分野によって、出題内容がさまざまである。

(このテストは、自信がある議員も受験することができ、とった点数を公表し、プロフィールに掲載する者もいる。)

そして、かりにテストが高得点であっても、あまりにも極端に人格が偏ったり、反社会的要素など、よっぽど非常識な人物は、市民の意見によって除くことができるようになっている。

つまり、以前の形骸化されてしまった最高裁判事の国民審査のやり方に実効性を持たせたような仕組みである。

コーディネーター制度は、能力と関心がある人が、自治体のルール作りに参加し監視していく機運を高めた。


いまでは多くの市民が、

「物静かで知的に高い人の貴重な考えがかき消されずに採用される」

という恩恵を感じているのだ。


確かに、コーディネーター制度導入に至るまでには紆余曲折があった。

口火を切ったのは、谷川琴子先生だ。選挙での大きな公約であった。

谷川先生は、当選後、議会で、

「もしIQ80の境界知能の人が自分の上司だったら?みんな困ると思うのです。能力が低い人が就いてはいけない職業があると思うのですが、議員職はまさにそれです」

と発言し、大騒ぎとなった。

差別発言だ、撤回しろ!などと野次が飛んだ。

谷川先生は、

「では、自分の会社の社長がIQ80だったらどうでしょう?日々市長がIQ80だったら?いや、もし、日本の総理大臣がIQ80だったら?率直に言って、私は嫌です。多くの市民国民も、嫌だと思うのではないでしょうか。それに、そのIQ80の人も、そんな仕事に祭り上げられたら、苦しいと思うのです」

と澄ました顔で続けたのだった。

野党議員たちがつべこべ「辞職勧告だ!」などと言いがかりをつけていびろうとしたが、市民が谷川先生の発言を支持しているという報道が出ると、それも消えていった。


そして、谷川先生は、

・選挙民は候補者のことをよく知らないままに議員に投票しがちである。この矛盾を修正するのは難しく、おそらく不可能である

・政治は、全員がすべてのルール作りに関わるのではなく、分野ごとに手分けして正しいルールを作るという仕組みとしていくべきこと

・高い専門性を持つ市井人に、仕組みの中に入ってもらい、ルール作りを担ってもらうべきこと

・国の法律があるため、議員の資格を変更することは簡単ではないので、議員の仕事を補佐する仕組みを外付け的に新しく作る

・本当は使命感などないのに、報酬が高いという理由で議員なろうとする者が多いので、議員報酬は大きく下げる

・その分、新しく作る補佐役にそれなりの報酬を出す

という話を諄々と説き、任期中に「コーディネーター制度」の導入を実現したのであった。


そんな谷川先生は、1期だけで議員はやめ、山猫社に戻り、いまは取締役日々工場長だ。


俺?

俺は…

結局、東京には戻っていない。

もう、戻らないかもな。

ここで、与えられた仕事を誠実にこなす。

つまり、コーディネーターの仕事に打ち込んでいくつもりだ。

俺は、コーディネーター制度の初回選抜会から、立候補した。

俺は、社会保障について勉強して、SPIとかいう問題集や読解能力検定の過去問を解いたり、必死になって受験対策をした。

その結果、テストは高得点だったが、なんと住民審査で、不可投票数が規定の数に達したため、落選した。

腹話術人形の一派が、記者会見で俺が脅されたとおりにしゃべらなかったので、意趣返しに不可投票を俺に集中したのだった。

不可投票は、よっぽど非常識な奴が選ばれるのを防ぐ目的であったはずなので、これは大問題となった。

コーディネーターやその立候補者たちも俺のために大いに怒って、腹話術人形一派をずいぶん批判したものだから、次の選抜会で、不可投票は複数の候補者に分散し、おかげで俺も2回目の選抜会で無事に当選することができた。


コーディネーター活動をしてみて、何もかもが刺激的だった。

コストとメリットのバランスを考える、

予算枠などという概念はよくない、そもそも公金はなるべく節約しなければならない、

なるべく煩雑なルールにならない、簡便・簡明・簡潔なルールになるようにする、

議案の重要度を明示する、

ルールは作りっぱなしではなく、時代やテクノロジーの進展に応じて書き換えるようにする、

など、大いに学ばされた。


そして、思った。

現代社会では、ひとりの人間がすべてのことをよく知って、適切な判断をくだすことは到底無理である、ということ。

だから手分けをするしかない。

その細分化された各分野で、それでも全員でよく考えなければならないと判断されたことは、全体討議に回す。


また、

自治体経営に、優秀な民間の人材が入りやすくなったのは良いことだ。

15年前までは、政治決定に民間が関わるなんて許されない、利益誘導の恐れがある、などと言われていたものだ。

しかし、実際に懸命に経済活動をしている者がコーディネーターに入ってきて感じるのは、彼らの視点は、生き生きしていてダイナミックで、社会に活力を与える、ということだ。


市井の経済活動に従事しない者は、結局、何の意見も持たず、愚鈍で怠惰な「王様」になってしまうのだ。


それは、15年前までの政治家も同じだ。

そして、政治家は、社会のことを何も知らないのに、ルールを作りたがる。


もう、以前の誤った平等主義的民主主義に戻ってはいけない。

知識と思考力を持つ者が責任を持つ社会を発展させていかなければならない。


だから、俺は、この日々市で奮闘するのだ。

【了】

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最後の王様 ━こんな日本にならないために━ 瀬尾早美 @seo_hayami

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