第36話 9-4 消えた囚人と仮面の好々爺
城内の環境改善計画が一段落し、私の技術顧問としての地位が確立されつつあった頃。
私はジークハルトに呼び出され、城の地下深くに存在する『特別封印牢獄』へと向かっていた。
螺旋階段を降りるにつれて、空気は冷たく、重苦しくなっていく。
壁に設置された魔導灯の明かりも心なしか暗く、湿った石の匂いが鼻を突く。
隣を歩くジークハルトの表情は、いつになく険しい。
彼は今、皇族としての正装――黒地に銀の刺繍が入った軍服――を身に纏っている。その姿は息を呑むほど凛々しいが、纏う空気は氷河のように冷徹だ。
「リディア、君に見てもらいたいものがある」
彼が案内したのは、最も厳重に封印された独房の前だった。
扉には三重の魔法陣が施され、物理的にも魔術的にも絶対の堅牢さを誇る。
そこには、私たちが森の廃屋で捕らえ、氷漬けにして連行したはずの男――宮廷魔術師長ガロンが収容されているはずだった。
衛兵が重い扉を開ける。
私は中を覗き込み、絶句した。
「……これは」
鉄格子の向こう。石造りの床の上。
そこには、ガロンはいなかった。
代わりに転がっていたのは、ドロドロに溶けた黒い泥と、砕け散った陶器の欠片のようなものだけ。
人の形をした残骸。
まるで、最初から人間など存在しなかったかのような、不気味な痕跡。
「昨夜、尋問を行おうとした直前だ。奴の体が突然崩れ落ち、泥に変わった」
ジークハルトが悔しげに拳を握りしめる。
彼の氷魔法は完璧だったはずだ。解凍された形跡もない。なのに、中身が変質した。
「影武者……いえ、『自動人形(オートマタ)』の一種ね」
私は即座に『自動地図作成眼鏡』の解析モードを起動し、残骸を観察した。
泥の中には、微細な魔導回路の残骸と、動力源となっていたであろう魔石の粉末が混じっている。
極めて精巧な作りだ。遠隔操作で自我を持たせ、高度な魔法まで行使させるなんて、現代の(といってもこの世界の)技術水準を遥かに超えている。
古代の失われた技術か、あるいは禁忌とされる生体錬成か。
「七章で戦ったあの強さ……あれがただの人形だったというの?」
背筋が寒くなった。
私たちを追い詰め、ジークハルトを魔獣に変えかけたあの圧倒的な力が、本人のコピーに過ぎなかったとしたら。
本物のガロンは、一体どれほどの力を持っているのか。そして今、どこに潜んでいるのか。
「城内は完全に封鎖し、『魔力探知』で捜索を行っている。だが、本物のガロンの反応はない。……あるいは、最初から城内にはいなかったのかもしれん」
ジークハルトの声には、底知れぬ闇への警戒心が滲んでいた。
私たちは勝ったつもりでいたが、敵の手のひらの上で踊らされていただけなのかもしれない。
見えない敵の視線が、暗闇の中から私たちを嘲笑っている気がした。
「リディア、君の身が危ない。奴は君の『聖女の力』と『技術』に執着していた。必ずまた接触してくるはずだ」
彼は私の両肩を掴み、真剣な眼差しで訴えた。
その瞳には、二度と私を失いたくないという強い意志が宿っていた。
「ええ、分かっているわ。……でも、逃げたりはしない」
私はジークハルトの手を握り返した。
彼の手は冷たかったが、その奥にある熱を感じた。
私たちはもう、一人ではない。互いに背中を預けられるパートナーだ。
その後、私は気分転換も兼ねて、城内の大図書室へと足を運んだ。
今後の対策を練るため、古代の魔導具や自動人形に関する文献を調べようと思ったのだ。敵を知るには、まず知識から。それが技術者の流儀だ。
大図書室は、城の東棟にあった。
高い天井まで届く巨大な書架が迷路のように並び、数万冊の蔵書が眠る静寂の空間。
独特の古書の匂い――紙とインク、そして革表紙の匂い――に包まれながら、私は目当ての本を探して梯子に登っていた。
「おや、おや。熱心なことですね」
不意に、背後から声をかけられた。
驚いて振り返ると、梯子の下に一人の老人が立っていた。
白髪を上品に撫で付け、丸眼鏡をかけた小柄な老人。深緑色のローブを纏い、手には数冊の分厚い本を抱えている。
目尻には笑い皺があり、どこからどう見ても、温厚な好々爺といった風情だ。
「あ、驚かせてすみません。私はこの図書室の管理を任されている、司書のアルベルトと申します」
老人は人懐っこい笑みを浮かべて、恭しくお辞儀をした。
「あなたは……噂の技術顧問殿ですね? 城内を暖かくしてくださった。私のような老骨には、あの暖かさが何よりの薬です。感謝しておりますよ」
「いえ、そんな……。リディアです。よろしくお願いします」
私は梯子を降り、挨拶を返した。
彼はとても親切だった。私が探している「古代自動人形論」や「魂の器に関する考察」といったマニアックな文献の場所を的確に教えてくれ、さらに帝国の歴史や魔術に関する興味深い知識を披露してくれた。
話が弾み、私たちは閲覧机を挟んでしばらく話し込んだ。
「それにしても、素晴らしい発想力だ。魔力を使わずに熱を循環させるなど、我々旧来の魔術師には思いもつかない」
アルベルトは私の描いた設計図の写しを見ながら、感心しきりだった。
その目は好奇心に輝いており、純粋な学者のように見える。
だが。
ふとした瞬間。
彼がページをめくる指先を見た時、私は微かな違和感を覚えた。
その指の動き。
滑らかすぎる。
人間特有の、関節の微細な「溜め」や「震え」が一切ない。まるで精密機械のように、正確無比で、無機質な動き。
そして、彼から漂う微かな匂い。
古書のインクとカビの匂いに混じって、どこか甘く、そして腐りかけた果実のような臭気。
それは、あの廃屋で、ガロンと対峙した時に感じた瘴気と、不気味なほどよく似ていた。
(……まさか)
心臓がドキンと跳ねる。
私の『魔力視』が、彼の周囲に揺らぐ不自然な影を捉えた。
それは巧妙に隠蔽されているが、確かに存在する「闇」の気配。
私は悟られないよう、笑顔を保ったまま、さりげなく椅子を引いて距離を取った。
心臓の鼓動が早くなるのを、深呼吸で抑え込む。
「あの、アルベルトさん。……宮廷魔術師長のガロン様とは、親しいのですか?」
鎌をかけてみた。
アルベルトは、ピタリと指を止めた。
丸眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ、爬虫類のように細められた気がした。
その瞬間の、凍りつくような沈黙。
「ガロン様、ですか。ええ、よく存じておりますよ。彼は……とても研究熱心な方でしたからね」
彼は顔を上げ、ニッコリと笑った。
その笑顔は完璧だった。目尻の皺の寄り方まで計算され尽くしたかのような、完璧すぎる好々爺の仮面。
「またお話ししましょう、リディア様。貴女の知識は、実に『美味』だ」
彼はそう言い残し、本を抱えて書架の奥へと消えていった。
足音はしなかった。
闇に溶けるように、その姿が見えなくなる。
残された私は、震えが止まらなかった。
『美味』。
それは知識に対する形容詞だろうか。それとも、捕食者が獲物を品定めする時の言葉だろうか。
城の中に、敵がいる。
それも、日常に溶け込み、笑顔で近づいてくる怪物が、すぐそばに。
私は自分の腕を抱いた。
快適になったはずの氷狼城の空気が、急に冷たく、重く感じられた。
ここは楽園ではない。巨大な檻なのだ。
見えない敵との知恵比べは、まだ始まったばかりだった。
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