第28話 7-4 黒き魔術師と崩れる防衛線

 ガロンと名乗った男は、ジークハルトが放つ殺意の咆哮など、路傍の石ころ程度にしか感じていないようだった。

 彼は仮面の奥から、まるで珍しい昆虫の標本でも観察するような、冷徹で粘着質な視線を私に向けていた。

「ほう、その仔猫……皇子殿下は、随分と君に懐いているようだね。あの気位の高い『氷の戦鬼』が、まさか人間の小娘の腕の中で、愛玩動物のように喉を鳴らすとは。呪いの副作用にしては、実に興味深い症例だ」

 その声は、蜜のように甘く、そして腐肉のように不快だった。

 私はジークハルトの前に立ち塞がり、彼を背に庇った。

 本能が警鐘を鳴らしている。

 この男は危険だ。

 私の『魔力視』が、彼から溢れ出るどす黒い瘴気を捉えている。それは通常の魔力ではない。大気中のマナを汚染し、生命力を枯渇させるような、根源的で汚らわしい何か。古代の禁術や、邪神に連なる類のものだ。

 関わってはいけない「深淵」が、人の形をしてそこに立っていた。

「飼い慣らしてなんていないわ。私たちは対等なパートナーよ」

 私は精一杯の虚勢を張って言い返した。

 だが、ガロンは肩を震わせて嗤(わら)った。

「ふん、パートナーか。美しい言葉だ。弱者が群れるための、実に都合の良い言葉だ。だが、力なき者の絆など、薄氷よりも脆く儚いものだよ」

 ガロンが、手にした黒檀の杖を軽く振った。

 詠唱も、魔法陣の展開もない。指揮者がタクトを振るような、優雅で軽微な動作。

 ただそれだけで、空間が悲鳴を上げた。

 ドォォォン!!

 轟音と共に、庭に設置していた私の『自動追尾式連射砲塔』が、見えない巨人の手で握り潰されたかのようにひしゃげ、鉄屑となって吹き飛んだ。

 爆風が窓を叩き、廃屋全体が揺れる。

 見えない衝撃波。いや、局所的な重力崩壊か?

 私の自信作が、物理法則を無視した力によって、一撃でスクラップにされたのだ。

「……ッ!?」

「所詮は小細工だ。歯車と火薬に頼る原始的な技術など、本物の魔道の前では玩具に過ぎん」

 ガロンは嘲るように言い放ち、ゆっくりと廃屋の中へと足を踏み入れた。

 彼が一歩進むたびに、床に敷き詰められていた『粘着スライム』が、ジュウジュウと音を立てて黒く変色し、蒸発していく。

 玄関に仕掛けた雷撃結界も、窓枠の偏向障壁も、彼が近づくだけで硝子細工のように砕け散った。

 圧倒的な魔力による、力技の制圧。いや、蹂躙だ。

 私の技術が、通用しない。理屈や理論を、暴力的なまでの魔力がねじ伏せていく。

「下がりなさい、ジーク!」

 私は叫び、手元のスパナをガロンに向かって全力で投擲した。

 私の身体強化と、スパナ自体の空気抵抗軽減術式が合わさり、それは弾丸のような速度で風を切り、ガロンの脳天へと殺到する。

 だが、それはガロンの鼻先数センチのところで見えない壁に阻まれ、カンッという軽い音を立てて弾かれた。

 『物理無効化結界』。常時展開されているのか、それとも反射的に発動したのか。いずれにせよ、物理攻撃は通じない。

「無駄だと言っている。学習能力のない女だ」

 ガロンが鬱陶しそうに指を弾いた。

 ただのデコピンのような動作から、黒い衝撃波が放たれた。

 私はとっさに腕をクロスさせて防御の姿勢を取り、防御結界を展開しようとしたが、展開速度が間に合わない。

 見えない質量を持った槌(つち)が、私を襲った。

 ドガァン!

「がはっ……!」

 トラックに撥ねられたような衝撃を受け、私の体は木の葉のように舞い、背後の壁まで吹き飛ばされた。

 背中を強打し、肺から空気が強制的に絞り出される。

 視界が明滅し、星が飛ぶ。口の中に鉄錆の味が広がる。

 痛い。全身の骨がきしんでいる。

 だが、倒れている場合ではない。ジークが危ない。

「『リディア! リディア!! しっかりして! 死なないで!』」

 首輪から悲痛な叫びが響く。

 ジークハルトが駆け寄ってくる。

 彼は私の前に立ち、ガロンに向かって牙を剥いた。

 小さな体で、震える足で、必死に私を守ろうとしている。その白い毛は逆立ち、青い瞳は燃えるような怒りで染まっている。

「やめて、ジーク……逃げて……!」

 私の静止も聞かず、彼はガロンに飛びかかった。

 魔力はなくとも、その動きは鋭い。帝国の戦場で磨かれた戦闘センスは、獣の体になっても失われていない。喉笛を狙った捨て身の特攻。

 だが、ガロンは杖の一振りで、それを煩わしいハエのように払い落とした。

 ドガッ!

「ギャッ……!」

 ジークハルトが床に叩きつけられ、悲鳴を上げて転がる。

 壁に激突し、ぐったりと横たわる小さな体。口元から鮮血が流れている。

「殿下、学習してください。今の貴方は『氷の戦鬼』ではない。ただの魔力を持たぬ獣です。獣が、魔導の頂点に立つ私に勝てるわけがないでしょう」

 ガロンは冷ややかに見下ろした。その目には、慈悲も侮蔑もなく、ただ実験動物を見るような無機質な観察の色しかなかった。

 ジークハルトは血を吐きながらも、四肢を震わせて立ち上がろうとする。

 その瞳は、まだ死んでいない。屈服していない。

 王者の誇りが、彼を突き動かしている。

「……いい目だ。やはり貴方は『器』として相応しい。その強靭な精神力と、底知れぬ執念。それこそが、獣神の依代(よりしろ)に必要な資質なのだ」

 ガロンは満足げに頷くと、懐からどす黒く脈動する何かを取り出した。

 それは、拳大の黒水晶だった。

 だが、ただの宝石ではない。その中心には、見るもおぞましい瘴気が渦巻き、まるで生き物のように鼓動している。

 『強制獣化の呪物』。

 それを見た瞬間、私の本能が最大級の警鐘を鳴らした。あれを使わせてはいけない。あれは、生物の魂を汚染し、自我を破壊する最悪のアーティファクトだ。

「そろそろ遊びは終わりにしましょう。ここでの生活で、貴方の精神がどのように変化したか、実験データは十分に取れました。愛着、執着、そして絶望。それらは最高のスパイスになる」

 ガロンが呪物を高く掲げ、朗々と詠唱を始めた。

 それは人間には発音できないような、不快な音階の羅列。

 禍々しい魔力が部屋中に満ち、空気が鉛のように重くなる。

 照明用の魔石が明滅し、パリンと音を立てて砕け散った。

「アァァァァッ!!」

 ジークハルトの体が共鳴し、苦しげにのたうち回り始めた。

 彼の輪郭がブレ、白い毛並みが黒く染まっていく。

骨格がきしみ、筋肉が異常な速度で膨張する音。ミシミシ、バキバキという音が、私の耳を責め立てる。

彼の瞳から知性の光が消え、代わりに狂気と破壊衝動だけが宿っていく。

理性が消え、本能だけの化け物に変貌しようとしているのだ。

「やめ……ろ……!」

 私は動かない体を叱咤し、這いつくばりながら手を伸ばした。

 届かない。

このままでは、ジークが連れ去られてしまう。あるいは、ここで自我を失い、ただの殺戮マシーンにされてしまう。

そんなことはさせない。

彼は私の家族だ。私の大切な同居人だ。

私の作ったシチューを「美味しい」と食べてくれて、寒い夜にはコタツで丸くなって、私の腕の中で幸せそうに眠る、ただの愛すべき存在なのだ。

私の目の前で、私の大切なものを、理不尽な暴力で奪わせはしない。

「誰が……渡すもんですか……!」

私は奥歯が砕けるほど歯を食い縛り、最後の力を振り絞った。

魔導具師としての技術も、科学の武器も通じないなら。

残された手段は一つ。

私が神殿で捨てたはずの、そして「出来損ない」「異端」と嘲笑われた、けれど私の中に確かに存在する力。


――『聖女』としての、祈りと浄化の力。


私は懐の隠しポケットから、最後の切り札を取り出した。

細いガラス管に入った、黄金色の液体。

『高純度聖水(濃縮アンプル)』。

通常の聖水の百倍の濃度を持つ、劇薬にも等しい代物だ。これを直接摂取すれば、体内の魔力回路が焼き切れるほどの負荷がかかる。

だが、迷いはなかった。


ガリッ。


私はアンプルを口に含み、ガラスごと噛み砕いた。

破片が口内を切り裂き、鉄の味が広がる。

同時に、喉を焼くような熱さと、脳髄を貫くような清冽な衝撃が走った。

体内の魔力回路が、悲鳴を上げながら限界を超えて活性化し、暴走する。


「ガロン! その汚い手をどけなさい!」

私は叫びと共に立ち上がった。

私の体から、目映いばかりの黄金の光が噴き出した。

それは、計算された術式でも、洗練された魔法でもない。

ただ「守りたい」という純粋な想いが生み出した、理屈を超えた奇跡の輝きだった。

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