追放された魔導具オタクの聖女、拾ったちび虎に翻訳首輪をつけたら心の声が溺愛一色でした~精霊も聖獣も「偽物は嫌だ」と激怒して、国が滅びそうですが知りません~
第26話 7-2 脱走防止ブザーと本音の叫び
第26話 7-2 脱走防止ブザーと本音の叫び
勝手口のドアは、木製の簡素なものだが、リディアによって蝶番がスライム由来の特殊な油で整備されているため、音もなく滑らかに開いた。
隙間から、刃物のように鋭い冷気が吹き込み、ジークハルトの鼻先を打つ。
外は一面の雪景色。重く垂れ込めた灰色の空の下、白く染まった木々が墓標のように静まり返る。
彼は振り返らず、その冷気の中へと飛び出した。
ザッ。
新雪に小さな足跡が刻まれる。冷たい。体温が奪われていく。
彼は雪を掻き分け、全力で疾走した。
廃屋から十メートル、二十メートルと距離が開いていく。
これでいい。これでもう、リディアは巻き込まれない。奴らの狙いは俺だ。俺の姿さえ確認できれば、奴らは廃屋など無視して追ってくるはずだ。
そう確信し、境界線――リディアが設定した見えない防衛ライン――を越えた、その時だった。
ビーーーーーーーーーッ!!!!
静寂な森の空気を、鼓膜をつんざくような大音響が震わせた。
それは、非常ベルの音であり、鉱山の発破合図であり、不快極まりない警報音だった。
「ギャッ!?(な、なんだ!? 敵襲か!?)」
ジークハルトは驚愕のあまり、雪の中で盛大に転倒した。
音の発生源は、あろうことか自分の首元――あの深紅の『翻訳首輪』だった。
首輪の中央に埋め込まれた魔石が、真っ赤に点滅し、けたたましい警報音を周囲に撒き散らしているのだ。
「『警告! 警告! 愛玩動物(ペット)の脱走を検知しました! ご主人様、大変です! 可愛い猫ちゃんが家出しようとしています! 繰り返します、脱走です!』」
警報音の合間に、無機質な合成音声(なぜか妙に艶のある女性の声)が響き渡る。森中に響き渡る大音量で。
(な、なんだこれは!? 脱走検知だと!? ふざけるな、こんな機能いつの間に仕込んだんだ!?)
ジークハルトはパニックに陥った。隠密行動どころではない。これでは「ここにいます、殺してください」と敵に大声で教えているようなものだ。
慌てて首輪を外そうと前足でカリカリするが、リディア製の特注留め具は頑丈すぎてびくともしない。
その時。
背後の廃屋から、白い雪煙を巻き上げて飛び出してくる影があった。
作業用ベストを羽織り、片手に銀色のスパナを握りしめたリディアだ。
彼女は身体強化された脚力で雪を蹴散らし、獣のような速度で――いや、獣である自分よりも速く――雪原を疾走し、一瞬でジークハルトの元へと肉薄した。
「確保ォッ!!」
彼女は雪上に転がるジークハルトを、ラグビーボールのように小脇に抱え上げた。
同時に、首輪の裏側にある隠しスイッチを操作して、やかましい警報音を止める。
「まったく、油断も隙もないわね! この非常時にどこへ行くつもり!? 迷子になったらどうするの!」
リディアはジークハルトを抱えたまま、彼を睨みつけた。
その目は怒っていた。だが、それ以上に、その瞳の奥には深い心配の色が濃く浮かんでいた。
ジークハルトは、彼女の腕の中で脱力した。失敗だ。
カッコよく囮になって彼女を守るはずが、マヌケな「ペット脱走ブザー」と共に連れ戻されるなんて。皇子としての威厳も、誇りも、雪の中に埋没してしまった。
「……(離せ。行かせてくれ。俺がいると、お前が……)」
彼は弱々しく身じろぎした。言葉は通じないかもしれない。それでも、伝えなければならない。
だが、彼が口を開こうとした瞬間、首輪が再び機能を取り戻し、彼の心の叫びを翻訳し始めた。
切羽詰まった、悲痛な叫びとして。
「『僕を捨てないで! いや、違う! 僕と一緒にいたら君が傷つく! 僕は君を守りたいんだ! 君が死ぬくらいなら、僕が死んだ方がマシだ! だから離してよぉ!』」
リディアの動きが止まった。
彼女は驚いたように目を見開き、腕の中の白い毛玉を見下ろした。その言葉の意味を反芻するように、数秒の沈黙が流れる。
「……守りたい? あなたが、私を?」
ジークハルトは観念したように目を閉じた。どうせ変な風に翻訳されているのだろう。
しかし、リディアは笑わなかった。
彼女は彼を抱きしめる腕に、ぎゅっと力を込めた。温かい。その温もりが、冷え切った彼の体に染み込んでくる。
「馬鹿ね。誰が死ぬものですか」
リディアの声は、静かで、しかし力強かった。
彼女はジークハルトの顔を覗き込み、不敵な笑みを浮かべた。それは聖女の慈悲深い笑みではなく、困難に立ち向かう戦士の、あるいは不可能を可能にする技術者の笑みだった。
「言ったでしょう? ここは私の城だって。私の許可なく、私の所有物(あなた)に手を出そうなんて、百年早いわ」
所有物扱いには一言申したいところだが、今はその言葉が何よりも頼もしく聞こえた。
彼女は本気だ。この状況を、絶望的だとは微塵も思っていない。むしろ、自分の技術を試す絶好の機会だとでも思っているかのような、好戦的な瞳をしている。
「それに、あなたのその言葉。……嬉しかったわ」
彼女は少し照れくさそうに目を逸らし、呟いた。雪に反射した光のせいか、彼女の耳が赤く染まっているように見えた。
ジークハルトの心臓が、ドキンと大きく跳ねた。通じた。
あのふざけた翻訳機越しだが、彼の「守りたい」という意思は、確かに彼女に届いたのだ。
「さて、お喋りはここまで。お客様のお出ましよ」
リディアが視線を森の奥へと向けた。
白い木々の隙間から、黒い影たちが音もなく姿を現す。六人。
黒い外套に身を包み、顔を鉄仮面のようなマスクで覆った男たち。手には曲刀や、魔導機構を組み込んだクロスボウが握られ、その切っ先は確実にこちらを向いている。
帝国の暗殺部隊、『黒羽(シュヴァルツ・フェーダー)』。ジークハルトもよく知る、王家の汚れ仕事を担う処刑人たちだ。
先頭に立つ男が、感情のない低い声で告げた。
「……聖女リディアだな。その腕に抱いている魔獣を引き渡せ。さもなくば――」
男が言い終わる前に、リディアは左手で何かを弾くような動作をした。
パチン、という指鳴らしの音。
「お断りよ。私のペットは、好き嫌いが激しくてね。あなたたちみたいな古臭い男は消化に悪いの」
彼女の言葉と共に、廃屋の周囲に埋め込まれていた無数の魔石が、一斉に淡い光を放ち始めた。
雪の下から、青白い幾何学模様が浮かび上がり、廃屋を中心とした巨大な魔法陣を形成していく。
ジークハルトは目を見張った。いつの間に、こんな大規模な仕掛けを?
「それに、ここから先は有料エリアよ。通行料の代わりに、その命、置いていってもらうわ」
リディアはニヤリと笑い、手にしたスパナを構えた。
それは聖女の顔ではない。自分の領分を侵されたことに激怒する、誇り高き魔導具師の顔だった。
――ああ、この女は。
ジークハルトは確信した。
彼女は守られるだけの存在ではない。共に戦うべき、最強のパートナーなのだと。
彼はリディアの腕の中で体勢を整え、敵に向かって牙を剥いた。
魔力はなくとも、威嚇くらいはできる。噛み付くことくらいはできる。
一蓮托生。
奇妙な二人(一人と一匹)の、初めての共同戦線が、今まさに始まろうとしていた。
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