第8話 2-4 供物と互恵関係
水車の調整を終え、心地よい疲労感に包まれていると、広場の隅から恐る恐る近づいてくる人影があった。
腰の曲がった老人だ。手には杖を持ち、震えながらこちらを見ている。
服装からして、この村の村長だろうか。
「あ……あぁ……」
老人は私の数メートル手前で立ち止まると、そのまま崩れ落ちるように地面に膝をつき、平伏した。
「お、お許しくだされ……魔女様……! 我らが何をしたというのですか……どうか、どうか村だけはお見逃しを……!」
彼の声は恐怖で裏返っていた。
私は首を傾げた。
なぜ謝られているのだろう? 私はただ、見るに耐えないポンコツ水車を最新鋭の『複合式魔導水車』に改良してあげただけなのに。
これが王都の技術博覧会なら、総立ちの拍手で迎えられる場面だぞ。
「あの、村長さん? 私は魔女じゃなくて、ただの通りすがりの――」
私が一歩近づくと、老人は「ヒィッ!」と悲鳴を上げて後ずさった。
どうやら会話が通じる精神状態ではないらしい。
まあいい。肩書きなんてどうでもいいのだ。
私には、もっと重要な用件がある。
「ええと、細かいことは置いておきましょう。見ての通り、水車は直しました。以前より三倍は効率よく水が回るはずです。水路の強度が心配なら、後で補強用セメントの配合を教えてあげます」
「な……直した……?」
老人は恐る恐る顔を上げ、爆走する水車を見た。
確かに、水は溢れんばかりに流れている。畑の方からは、乾いた土が水を吸う音が聞こえてきそうだ。
老人の目に、恐怖に混じって困惑と、微かな希望の光が宿る。
「こ、これは……奇跡……? いや、しかし……」
「で、ですね」
私はここで、一番重要な切り出しを行った。
商談の話だ。
技術を提供した以上、対価を受け取るのは当然の権利である。私は慈善事業でやっているわけではない。
私はツナギのポケットから手帳を取り出し、サラサラと用件を書き殴った。
それを破り取り、村長の前に差し出す。
「これ、請求書です」
「せ、せいきゅう……?」
村長は震える手で紙片を受け取り、月明かりでそれを読んだ。
そこには、私の欲望が赤裸々に綴られていた。
『技術提供費として、以下の物資を要求する。
・新鮮な卵(有精卵なら尚良し)
・搾りたてのミルク
・ベーコンまたはハムの塊
・ジャガイモ、タマネギ、ニンジンなどの根菜類
・もしあれば、小麦粉とバター
支払期限:今すぐ(※空腹のため)』
村長は紙片を読み終えると、再び私を見上げた。
その目は、先ほどまでの恐怖とは違う、畏怖と崇拝の色を帯びていた。
「……なんと。金銀財宝ではなく、これほどささやかな供物を所望されるとは……」
「ささやか? とんでもない! 今の私にとってはダイヤモンドより価値があります!」
私は力説した。空腹の技術者にとって、タンパク質と糖質は何物にも代えがたい至宝なのだ。
村長は深く頷き、涙ぐんだ。
どうやら私の切実な訴えを、「欲深くない高潔な魔女様の慈悲」と解釈したらしい。
彼は震える声で叫んだ。
「者ども! 聞け! 魔女様は我らの命を奪いに来たのではない! 豊穣をもたらす神の使いであらせられる! 直ちに供物を持て! 村一番の上等な品を献上するのじゃ!」
村長の声を聞いて、雨戸の隙間から様子を伺っていた村人たちが、わらわらと出てきた。
彼らは水車の復活と、魔女様(私)が危害を加えないことを知ると、慌てて家に戻り、食料を抱えて戻ってきた。
ある者は籠いっぱいの卵を。ある者は巨大なミルク缶を。ある者は燻製肉の塊を。
次々と私の足元に置かれていく食材の山。
「おお……素晴らしい……!」
私は感動に打ち震えた。
茶色い殻の卵は、見るからに濃厚そうだ。ミルクからは甘い匂いがする。泥付きの野菜は生命力に溢れている。
ビスケット地獄からの生還。文明的な食事への入り口。
「ありがとうございます! これで研究が捗ります!」
私は満面の笑みで礼を言った。
村人たちは「ありがたや、ありがたや」と拝んでいる。
少々大袈裟だが、まあ、持ちつ持たれつの関係と言えるだろう。
「あ、そうだ。今後についてですが」
私は鞄に食材を詰め込みながら(卵は割れないよう空間固定魔法をかけて)、提案した。
毎回こうやって村人全員に出てこられるのも面倒だし、彼らも私の顔を見るたびに怯えるのは負担だろう。
効率的な取引の仕組みが必要だ。
「今後も、私が何か道具を修理したり、便利な魔導具を作ってあげたりするかもしれません。その時は、代金として食料をいただきます」
「は、はい! 喜んで!」
「でも、いちいち会うのは手間でしょう? なので……」
私は村の入り口付近にある、大きな切り株を指差した。
先ほど私が通りがかった時、ちょうど良い台座になりそうだと思っていた場所だ。
「あそこを『無人販売所』兼『納品箱』にしましょう。私が修理して欲しいものや、注文書をあそこに置いておきます。皆さんは、完了した品を受け取る代わりに、指定された食料を置いていく。顔を合わせずに取引完了。どうです? 合理的でしょう?」
村長はポカンとしていたが、やがて「なるほど、神域への供物台というわけですな」と納得したように頷いた。
少しニュアンスが違う気もするが、システムさえ機能すれば解釈はどうでもいい。
「では、契約成立ですね!」
私は鞄を抱え直し、村人たちに手を振った。
彼らは地面に額を擦り付けんばかりに平伏して見送ってくれた。
帰り道。
私の足取りは、来る時よりもさらに軽やかだった。
背中の鞄には、明日への希望(食材)が詰まっている。
途中で「一時保管」しておいた猪も、この調子なら笑顔で担いで帰れる――いや、実際には浮遊魔法で運ぶのだが――気分だった。
「卵……ミルク……ベーコン……ふふふ」
不気味な鼻歌を歌いながら、私は夜の森へと消えていった。
こうして、魔女の森の廃屋とポロ村の間に、奇妙な互助関係――後に『森の万屋(よろずや)伝説』として語り継がれることになるシステムが確立されたのだった。
家に帰ったら、まずは特大のオムレツを作ろう。
トロトロの半熟で、バターをたっぷり使って。
その幸せな想像だけで、私は森の暗闇さえも黄金色に見えるような気がした。
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