第6話 2-2 限界乾燥ビスケットとタンパク質への渇望

 魔女の森の夜は早い。

 鬱蒼と茂る木々が日光を遮るため、太陽が沈みきっていなくても、森の中は既に濃紺の闇に包まれていた。

 冷気が地面から這い上がり、肌を刺す。

 普通なら、こんな時間に森を歩くなど自殺行為だ。視界は効かず、魔物の活動は活発になり、方向感覚は狂わされる。

 だが、私は軽快な足取りで獣道を歩いていた。

 私の目には、暗闇など存在しないも同然だったからだ。

 頭部に装着した『自動地図作成眼鏡(脳内投影式)』――見た目は無骨な溶接工用眼鏡のようだが――が、周囲の地形情報をリアルタイムで解析し、視界に光の線画を描き出している。

 障害物の位置、地面の傾斜、そして魔力の流れ。それらが数式と共に表示され、安全なルートを案内してくれるのだ。

(気温十二度。湿度六十八パーセント。北北西へ風速三メートル……うん、このルートなら村まで最短二時間ってところね)

 私は眼鏡の端に表示された数値を読み取りながら、倒木を軽々と飛び越えた。

 足元のブーツには『身体強化の術』が常時発動しており、私の貧弱な筋力を数倍に底上げしている。木の根につまずくことも、泥に足を取られることもない。

 しかし、いくら装備が優秀でも、解決できない問題があった。

 空腹である。

 先ほど食べたビスケットは、既に胃の中で消化され尽くし、虚無へと変わっていた。

 歩くたびに、脳裏に美味しそうな食べ物の幻影が浮かぶ。

 王都の市場で食べた、串焼き肉のジューシーな脂の匂い。

 カフェで飲んだ、たっぷりの蜂蜜とミルクを入れた紅茶の香り。

 半熟卵が乗った、トロトロの卵料理。

「……タンパク質。脂質。糖質。ああっ、もう! 言葉にするだけでお腹が空く!」

 私は叫びながら、邪魔な木の枝を手刀で薙ぎ払った。

 枝は「バキャン!」と小気味よい音を立てて折れ飛んだ。私の手刀には、微細な振動を与える『高速振動切断』の術式が付与されている。もはや人間鋸(ノコギリ)である。

 食への執着は、私の思考を極端な方向へと加速させていた。

 道中、ガサガサと茂みが揺れ、飛び出してきた魔物――巨大な牙を持つワイルドボア(猪)――に遭遇した時も、私の反応は恐怖ではなかった。

「ブモォォォ!」

 猪が赤い目を光らせ、殺意を剥き出しにして突進してくる。

 一般人なら死を覚悟する瞬間だ。

 だが、私は眼鏡の分析モードを「食材評価」に切り替えた。

『対象:ワイルドボア。脅威度:C。肉質:硬めだが煮込めば可。脂身:豊富。推奨調理法:圧力鍋での赤ワイン煮込み、または燻製』

「……食材だ」

 私の口から、涎が出そうになった。

 肉が走って来た。向こうからやってきた配達便だ。

 私は即座に腰の工具差しから、愛用の『雷撃・ネジ回し』を引き抜いた。

「ブモッ!?」

 私の殺気――いや、食欲の圧を感じ取ったのか、猪が一瞬怯んだ。

 その隙を見逃す私ではない。

 強化された脚力で地面を蹴り、一瞬で距離を詰める。

 そして、眉間にネジ回しの先端を突きつけ、最大出力の電撃を流し込んだ。

 バチチチチッ!!

「ブギィッ!!」

 断末魔の叫びと共に、巨体が痙攣し、ドサリと倒れる。

 一撃必殺。食材を傷つけず、かつ肉質を硬くさせないための完璧な処理(シメ)だ。

 私は倒れた猪を見下ろし、満足げに頷いた。

「よし、今夜の主菜(メインディッシュ)確保。……と言いたいところだけど」

 私はハッとして、自分の手のひらを見つめた。

 この巨大な猪を、どうやって運ぶ?

 私の鞄は容量無限に近いが、入り口のサイズには物理的な限界がある。この巨体をそのままねじ込むことはできない。

 解体する? ここで? 血の匂いで他の魔物が寄ってくるし、何より衛生的に良くない。

 それに、今の私には調理器具がない。鍋もなければ、調味料もない。

 せっかくの猪肉を、ただ焼いただけの原始的な料理で消費するのは、食材への冒涜であり、私の美学に反する。

「……保留(キープ)ね」

 私は泣く泣く猪を諦めることにした。

 いや、諦めるのではない。「一時保管」だ。

 私は猪の周囲に『簡易結界(防腐・獣除け)』の杭を打ち込み、場所を魔導地図に登録した。後で村で荷車か何かを調達して回収に来ればいい。

 今は、目の前の「完成された料理」――つまり、村の食材を目指すべきだ。

 私は猪に別れを告げ、再び歩き出した。先ほどよりもさらに速いペースで。

 それから一時間後。

 森の木々の密度が下がり、視界が開けた。

 木々の隙間から、人工的な明かりがチラチラと見え始める。

 ポロ村だ。

 私は眼鏡を外し、肉眼でその光景を確認した。

 そこは、森と平原の境界にある小さな集落だった。

 十数軒の粗末な木造家屋が寄り添うように建ち並び、周囲には小さな畑と放牧地が広がっている。

 村の入り口には、魔物除けの松明が焚かれ、見張り台のようなものが設置されている。

 風に乗って、土と肥料の匂い、そして何より――どこかの家で夕食を作っているであろう、煮炊きする煙の匂いが漂ってきた。

「……匂う。これは、カブとベーコンのスープね」

 私の嗅覚が、正確に成分を分析した。

 塩気のあるスープの香り。それは、乾燥ビスケットで荒廃した私の心に、オアシスの如く染み渡る。

 私は思わず駆け出していた。

「こんばんはー! 通りすがりの技術者ですが、卵とミルクを売ってくださーい!」

 私は大きく手を振りながら、村の入り口へと接近した。

 自分では、極めて友好的で明るい挨拶のつもりだった。

 しかし、村人たちの反応は違った。

「ひ、ひいいいいっ!?」

「で、出たぞぉぉぉ! 魔女の森から、何かが来たぞぉぉ!」

 見張り台にいた男が、私を見るなり腰を抜かし、鐘をガンガンと乱打し始めたのだ。

 カンカンカンカン! というけたたましい音が夜空に響き渡る。

 村中の家々から明かりが消え、雨戸を閉める音がバタンバタンと連続して聞こえた。

 一瞬にして、村は死んだように静まり返った。

「……あれ?」

 私は村の入り口で立ち止まり、首を傾げた。

 おかしい。私はただ、笑顔で走ってきただけなのに。

 確かに、髪は封緘用の結束紐で縛っただけのボサボサ頭で、服は煤汚れた作業用ツナギで、手には雷撃機能付きのネジ回しを握りしめていたかもしれない。

 そして何より、魔物が跋扈する夜の「魔女の森」から、生身の人間が全力疾走で飛び出してきたという事実。

 客観的に見れば、それは「遭難者」か「森の主の使い魔」、あるいは「新種の魔人」にしか見えなかっただろう。

 だが、自己評価の高い(そして少しズレている)私は、そんなことには気づかない。

「内気な人たちね。まあいいわ、交渉はあとにしましょう」

 村人たちが引きこもってしまったのなら、まずは情報収集だ。

 私は村の中央にある広場へと足を向けた。

 そこには、村のシンボルとも言える巨大な建造物――『揚水水車』が鎮座していた。

 近くを流れる川から水を汲み上げ、畑へと送るための重要な生活基盤だ。

 しかし、その水車を見た瞬間、私の眉間に皺が寄った。

 そして、空腹すら忘れるほどの強烈な「不快感」が私を襲った。

「……何よ、あれ」

 水車は回っていた。だが、その回転はあまりにも遅く、苦しげだった。

 ギィ……ギィ……と、木材が悲鳴を上げるような音が、一定のリズムで響いている。

 軸が歪んでいるのだ。そのせいで回転運動に無駄な摩擦が生じ、力の半分以上が熱と騒音として失われている。

 汲み上げられる水の量もチョロチョロと少なく、これでは畑の半分も潤せないだろう。

 私の技術者としての魂が、激しく警鐘を鳴らした。

 許せない。

 この非効率。この力の浪費。この物理法則への冒涜。

 空腹よりも何よりも、「壊れかけた機械」を目の前にして放置することなど、私にはできなかった。

「……我慢できない。直すわよ」

 私はネジ回しを握り直し、獲物を狙う肉食獣のような目で水車を睨みつけた。

 村人たちが家の隙間から怯えながら覗いていることなど、もはや私の意識にはなかった。

 今夜、この村は文明開化の音を聞くことになる。

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