第42話 違法奴隷オークション
ノワレ司書長と秘密の会談を終えた翌日、いつもの日課を繰り返す。
ランニングをして、すれ違う人々と挨拶を交わす。
最初の頃は、相手が聖女だと分かると、どこか遠慮がちな態度だった。
だが二回、三回と顔を合わせるうちに、その距離は少しずつ縮まり、今では近所の人と話すような感覚になっている。
やがて、その輪は自然と大きくなった。
私とリュミエルを含めると、十人以上でミレニア大聖堂の外周を走るのが当たり前になる。
それを眺めていた暇を持て余した聖職者や、好奇心旺盛な貴族たちも、ちらほらと走り始めた。
ソルフィーユのグループに入りたそうに、付かず離れずの距離を保って走る――そんな光景が、いつの間にか日常になっていた。
その穏やかな日常とは別に、聖女としての顔もある。
聖衣を纏い、聖典を読む日々。
週に三度行われるミレニア大聖堂での聖典朗読には、復帰した聖女を一目見ようと、毎回多くの人々が詰めかけていた。
時間やタイミングが合えば、聖女と会話ができる。さらには治療も受けられる。
一時期は人が押し寄せ、混乱も起きたが、それも私の一言で収まった。
――巡回診察。
先日も大聖都ミレニア各地の教会を訪れ、多くの怪我人や病人を治療した。
その噂は瞬く間に広がり、聖女ソルフィーユの評価は、静かに、しかし確実に高まっていく。
そんなことを、私は特別なことだとは思っていなかった。
聖女ソルフィーユがやりたかったこと。
弱者を救うこと。
治療を受けたくても受けられない人の、支えになること。
その意思を汲み取り、サイファが苦とも思わず治療を続けた。ただ、それだけの結果だ。
「ふう……人のために何かをするなんて、前世では考えられませんでしたが」
小さく息を吐く。
「こうしてやってみると、達成感はありますね」
「それは良かったです」
リュミエルは微笑みながら頷いた。
「最近は、町中でソルフィーユ様のお名前をよく耳にします。とても人気ですよ」
承認欲求と言われれば、そうなのかもしれない。だが、それは決して悪いことではない。
聖女として、職務を全うする。
ただ、それだけのことだ。
「……リュミエル」
「はい」
私は足を止め、静かに告げる。
「今夜、違法奴隷オークションを壊滅させます」
「はい!」
即答だった。
「準備は整っています。最善を尽くしましょう」
穏やかな日常は、ここまでだ。
▽
夜の帳が大聖都ミレニアを覆い始めた頃、私とリュミエルは表通りから外れた路地を進んでいた。
今の私は、聖女ソルフィーユではない。
仮の名は、ローラ=エクスリプス=デ=ベルサール。辺境に領地を持つ小貴族の令嬢という設定だ。
深い色合いのドレスは動きやすさを重視した作りで、装飾は控えめだが、質の良さだけは隠せない。
顔には例のマスク。認識阻害の魔縫いが、私という存在の輪郭を曖昧にしている。
隣を歩くリュミエルも、いつもの聖騎士の装いではない。
濃い色の外套に身を包み、紅に染まった髪が夜の灯りを反射している。
「……大丈夫そうですね」
小声で確認すると、リュミエルはわずかに頷いた。
「はい。聖女様……いえ、ローラ様」
呼び方を切り替えるのも、今夜の約束だ。
目的地は、古い商館を改装した建物。
昼間は放置されているように見えるが、夜になると別の顔を見せる。
入口の前には、目立たないが隙のない配置で立つ男たち。
武装は控えめだが、素人ではない。
「招待状を」
「こちらで問題はないかしら?」
私は淡々と告げ、リュミエルが招待状を渡す。
中身を確認した男の目が、一瞬だけ変わった。
「……どうぞ」
重い扉が静かに開かれる。
中に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
甘い香の中に混じる、鉄と汗の匂い。
囁き声、低い笑い声、金属が触れ合う音。
薄暗い広間には、身なりの良い貴族や商人、そして明らかに裏の人間と分かる者たちが入り混じっている。
誰もが品のある仮面を被りながら、その目だけは獲物を見る光を宿していた。
「……酷い場所ですね」
リュミエルが、かすかに息を呑む。
「ええ。でも、顔に出さないで」
私は小さく答える。
たとえマスクで素顔を隠したとしても、筋肉の僅かな動きで相手の感情を読み取る人間もいるのだ。
ここでは、嫌悪も怒りも価値がない。
あるのは金と欲望だけだ。
会場の中央には、簡易的な壇が設けられ、その奥には檻が並んでいる。
まだ中身は見えないが、視線の集まり方で分かる。
ここが、始まりの場所だ。
「落ち着いて。合図があるまで動かないで」
「承知しました、ローラ様」
リュミエルの声は完璧に役を演じていた。
私はゆっくりと周囲を見渡す。
――この場にいる全員が、罪を自覚していない。
だからこそ、今夜壊す価値がある。
仮面の内側で、私は静かに息を整えた。
招待状に記されていた番号は、どうやら座席の番号だった。
案内されたのは、会場下手の最後列。二段ほど高くなっており、場内全体を見渡せる位置だ。
さらに背後は壁。後ろから近づかれる心配もなく、余計な神経を使わずに済む。
悪くない席だ。
「ローラ様」
リュミエルが、顔を伏せたまま小声で告げる。
「顔を隠していますが……何人か、見覚えのある貴族がいます」
この国の、腐った部分の象徴だろう。
どさくさに紛れて始末するのは簡単だが、それでは意味がない。
彼らには、自分の口で罪を語らせ、罰を受けさせる必要がある。
「……誰ですか?」
「領地は持っていませんが、ゼノン子爵。それから南方に鉱山を保有している、バードリー男爵だと思われます」
「覚えておきましょう」
視線を向けず、名前だけを刻む。
やがて、場内の照明が一斉に落ちた。
ざわめきが低くなり、正面の壇だけに強い光が当たる。
麻袋に二つの穴を開けただけの、ふざけた仮面を被った男が、軽やかな足取りで壇に上がった。
そして、場違いなほど陽気な声を張り上げる。
「――諸君! 世界屈指の奴隷が集まる、今宵のパーティーへようこそ!」
笑い声と拍手が起こる。
「本日は、最高の“商品”と、“魔物”をご用意しております! どうか最後まで、存分にお楽しみください!」
その声を合図に、この夜の地獄が、幕を開けた。
「最初の賞品は皆様、きっと驚かれることでしょう」
舞台袖から、ひとりの男が引き出される。
全身を筋肉の鎧で覆ったような体躯。
無数の古傷が刻まれ、そのどれもが死線を潜り抜けてきた証だった。
「この者は――ファルト王国、元Aランク冒険者!」
司会の声が、一段高くなる。
「雷光のバルバトス=ジークフリードぉぉぉ!」
「「おおおおっ!」」
会場がどよめき、歓声が湧き上がる。
ファルト王国。
北西に位置する、いくつかある王国の一つだったはずだ。
ただ、私は冒険者事情に詳しくない。
なぜ、これほどまでに会場が沸くのか、正直よく分からなかった。
「開始価格は――聖銀貨一枚から!」
一斉に、客たちが手を上げる。
指の形、本数、わずかな仕草で金額を示しているらしい。
値段が人の価値を上書きしていく。
「……元Aランク冒険者とは、それほど価値があるのですか?」
小声で尋ねると、リュミエルが頷いた。
「ローラ様はご存じないのですね。簡単にご説明します」
彼女は視線を舞台から外さずに続ける。
「冒険者にはAからFまでのランクがあります。Aは最上位。国家級の戦力と見なされる存在です」
「なるほど……」
「なぜそのような者が奴隷に落ちたのかは分かりませんが、雷光のバルバトス=ジークフリードは、名の知れた冒険者でした」
私は、ガルドとその仲間――『月下の牙』しか知らない。ランク制度も、正直初耳だ。
「聖銀貨百七十枚! 他にいらっしゃいませんか!」
司会の声が響く。
「……それでは、十八番のお客様が落札です!」
歓声と拍手。
安堵とも興奮ともつかない、歪んだ音。
人ひとりが数で区切られ、終わった。
「……悪趣味ですね」
思わず、そう零していた。
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