拝啓、山田方谷さま(3400文字 / カクヨムコン11)♯5

柊野有@ひいらぎ

◆山田方谷ものがたり

◆みどり◆ 

 城下町は、雨上がりの朝の澄み切った空気に包まれる。白く薄い雲海が町を覆い尽くし、遠くの山々と川面が溶け合う光景が広がる。この城下の一角で、私は夫である漢学者、山田方谷ほうこく殿と暮らしている。


 今日は、猟師が猪を仕留めて丸ごと持ってきた。鉄砲で撃ったあとのわさわさと興奮した空間、けものの皮の匂い、血の匂い。意気揚々と捌いた肉の塊を渡された。犬たちが吠えまわり、なんとまあ賑やかなことだったろう。


 夫は、有終館学頭(校長)であり、城下御前町に邸を構えていたが、数年前ふたりで西方村長瀬の一軒家に移り住んだ。その庭にそれなりの広さの庵を置き、夫は大量の書物を詰め込んだ。


「みどり、ここは無量寿庵とするぞ」にこにこと笑い、それは多くの人々が訪れる草庵となった。数日出てこないこともあり、引き戸を開け、三和土より声をかける。

「もうし。安五郎さま、晩ごはんじゃ。温かいうちに食べんさい」

「これを終わってから食べるけん」

「また冷とうなるがん。一緒に食べよ――おむすび持ってきたんよ」

「じゃあ、いただこうかの」


 文久元年(1861年)。2月、前藩主勝職かつつね殿のあとに藩主となった板倉勝静いたくら かつきよ殿が、寺社奉行に就任した。かねてより藩主には目をかけられ財政を任せられたほどだ。共に江戸に上り、勝静殿の相談役となった。勝静殿は十五歳だった。


 桜が散る頃、夫は湯治のため松山へ戻ってきた。もとより偉丈夫であり堂々としていたが、すっかり頬がこけていた。

 数人で美作国の湯原温泉を訪れた。夜、小さな宿で温かい汁を啜った。


 夫からは、熱の甘く苦い匂いがしていた。

 夜にむくりと起き、私を抱き上げようとする。

瑳奇さきや。おおきゅうなるのを見たかった。えらかったなあ」と大粒の涙を流し、すっと布団に戻り寝てしまう。それを三晩繰り返した。

「しばらく休まれたらよろしい」とつきそいの方が言う。

 朝、方谷殿は、いつもの穏やかな夫に戻っていた。


 老中の板倉勝静いたくら かつきよ殿は、はかなくなられた娘の瑳奇殿と同じお年で十八歳だった。桜田門外にて強硬派の井伊直弼いいなおすけが討たれたと、瞬く間に松山にも伝わった。旅の僧に扮した間者の書簡を見て、夫はそわそわしはじめた。


          ••✼••


 今は、松山に戻り学問を伝えている。私は穏やかなこの城下で彼の帰りを待ち、家をととのえ、ささやかな食事をする。夫が整えた松山藩の財政のおかげで、今では農民も米を献上してくれる。

 ありがたいことだ。

 秋の夜長にはつくろいものをし、手紙をしたためる。



◆第一通

拝啓 安五郎 殿


朝夕の冷え込みが身に染みる頃となりました。松山の空は今日も高く澄み、城下の町は紅葉で赤く色づいております。廃藩置県で、城下町も岡山県高梁市と名を変えました。ざわついていたこの地区もようやく落ち着きました。


近頃は、趣深い節約歌舞伎衣装うでくらべにて、握り飯と大根の汁がふるまわれます。この催しは、この地の人々に新たな希望を灯します。あなたが始められたと聞きました。こんな面白おかしい行列を考えられたとは、呆れるやら驚くやら。尻尾をつけ、たぬきやウサギのような耳が生えた、なんとも不思議な格好の行列でした。

松山の人々も、あなたを慕っております。お勤めは続き、疲れの色が濃く見えますが、どうか無理をなさらず、お身体を労わってくださいませ。

少しでもあなたの心に安らぎが訪れますように。


妻 みどり


          ••✼••


 母屋の隣の蔵を片づけていて、片隅に置かれた箱を見つけた。そっと開いてのぞくと、何通もの書簡が丁寧に畳まれていた。

 それは、前藩主勝職かつつね殿のあとに藩主となった板倉勝静いたくら かつきよ殿、番頭ばんがしらの熊田あたか殿、そして夫である方谷殿の往復書簡だった。そこに綴られた言葉は、ただの藩政の議論ではなく、己の命をかけて松山藩の未来を守ろうとする、切なる覚悟と深い憂いが込められていた。


山だしいなか者の儒者に、元締めの務まるものか――」書簡の一節に、私はどきりとした。 すでに去った時間とはいえ、松山藩の藩士たちが方谷殿のことを蔑んでいた言葉だ。そのように、熊田恰殿より届いた書簡に書いてあった。どう返したのか知れずとも、方谷殿は、こうして熊田恰殿と交流を始めた。

 方谷殿暗殺の噂までもが飛び交うなか、着々と調査し、松山藩の借金が十万両を超えていたという事実を暴いた。藩はその事実をひた隠しにしていたという。そのとき板倉勝静殿より『方谷の言葉は余の言葉と思うなり、また今後の改革に反対する物は厳罰に処す』との藩政改革の大号令が発令された。あとは、私でも知っているような大きな手が次々と打たれ、松山藩の経済を待ち直させたのだった。

 方谷殿は、その後も人々のために奔走し続けた。彼は江戸に遊学し、そこで長州藩の吉田寅次郎(吉田松陰)殿らと交流を持ち、黒船についての打診さえあったという。


 松山藩主の板倉勝静いたくらかつきよ殿が江戸に就任してまもなく、時の老中阿部正弘殿が若くして亡くなった。開国か鎖国に揺れる大混乱の時代、勝静殿は幕府老中に大抜擢された。方谷殿は辞職をと諌めたが、時代の渦に巻き込まれていった。


 ある手紙には、熊田殿の覚悟が綴られていた。

「この土地の武士、百五十人の命を守らんがため、我身を捧げる覚悟にて候。我が身散り候とも、藩の民が安寧にあり候ことを願い、心底よりこの決断を致し候」

 方谷殿の名を呼び、嘆き悲しみ、しかしそれは藩を守るために必要なことだと受け止めていた。

 そして、その書簡の中に、方谷殿の書き損じの手紙も見つけた。

「己が命を惜しまず藩のために立つは我が志にて候。貴殿が幾度となく悩み苦しみ給うこと、痛み入る次第に候。されど他に打つ手なく、まことに遺憾に存じ奉り候」

 文字の乱れた文面は、友を失う彼の心中の憂いを如実に物語っていた。


          ••✼••


◆第二通

拝啓 安五郎 殿


先日、蔵で見つけた古い書簡を拝読しました。藩の未来を思い、自らの身を賭して戦う決意と、深い悲しみが記されておりました。私には到底計り知れぬ苦難であったと、想像いたします。

どうかあなた自身の健康を最優先に、少しでも身体を労わってくださいませ。


妻 みどり


          ••✼••


 夏が過ぎ、日の当たる時間が少なくなるにつれ、私の胸にはひんやりとした不安が落ちてくる。この国の未来のため、小阪部塾を開設、子弟教育にあたる夫は、私の知らぬところで多くの苦悩と闘っているのだろう。

 しかしながら、彼が戻る夜は遅く、私は、ただ静かにその帰りを待つのみ。


          ••✼••


◆第三通

拝啓 安五郎 殿


戦乱の傷も徐々に癒え、岡山に穏やかなときが訪れました。

百姓一揆もおさまったようで何よりでございます。

ご自身のお身体も労っていただければと願っております。


妻 みどり


          ••✼••


 書簡のなかには、藩の激動の時代に生きた夫とその仲間たちの覚悟と苦悩が重ねられていた。そのすべてを胸に刻み、私は今日も松山の静かな城下町で、夫の帰りを待ち続けている。


「みどり。まっとったんか? 遅うなるゆうとったじゃろう。さあ、なかに入ろう。寒かったじゃろう」


 ゆっくりと振り返ると夫がにこにこしながら、家のまえの道を歩いてくるところだった。庭先には、小さな行燈あんどんを持って出ていた。

 ひとりで、かい巻きに入るのも侘しいものだ。

 

 夫が早く帰ってきてくれてよかった。


 あたたかな汁物を食べていただこう。

 いつも他の人のことばかりを考えている夫に。


          ••✼••


 夜食を終え、囲炉裏の火が落ちる頃、夫は語り出した。それは、この小さな庵から、世界の果てを見据えるような、壮大な言葉だった。


「簡単に死んだらおえんよ。

これからも二十代三十代の若者たちが活躍していく時代。

日の本は何度も壊れて立ち上がっていく。外つ国は大きな船を作る力を持っとる。それに対抗するためには学ぼうとする力、日本の船を建てるための言葉が必要なんじゃ。

皆バラバラじゃおえんのんじゃ。


いずれさま変わりし、農民も知識で戦う時代になる。武士の力は裏に沈む。学問は常に更新されるんじゃ。面白いのう。

黒船の力の前に、日本を戦えるようにしておかにゃあいけんのじゃ。そしてまた、武士の教えが必要な時代が来る。

世界は何度も繰り返す。地球を丸いというのを唱えたものは消されたが、今や地球は丸いんじゃ。その地球の中で、日の本の人々もあまねく広がっていく。地球だけじゃないぞ。

自分たちが、どこで生まれたかを知って、血を繋いでいくんじゃ」


 この男は、この穏やかな城下で、何を見ていたのだろうか。その熱は、私にも伝わるようだった。



 了

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