短編・連作小説 川嶋夏希の日常シリーズ

凪月 桐

短編・連作小説 第1話 カモミールティー

今日も疲れたな。


だけどそれを誰かに言うでもなく、口の中で何度か転がして、飲み込んだ。


職場を出て、電車に揺られ、最寄りの駅に着くころには、ぐったりしている。


帰り道のコンビニには寄らなかった。余計な甘いものを買うと、明日の自分が怒るから。


部屋に帰ってまずするのは、エアコンのスイッチを入れること。


夏の夜は湿気がまとわりつくから。


スイッチ一つで世界が少しやわらかくなるのは、本当にありがたい。


冷蔵庫に残っていた白ごはんと、昨夜の味噌汁。


卵を落として、冷凍しておいた小松菜としめじも入れたら、それなりに見える。


ご飯を食べると、体の中にエネルギーが戻ってきた感じがする。


次にお風呂。


湯船に浸かるほどの余力はなかったから、今日はシャワーだけ。


それでも、ぬるめのお湯を肩に当てたら疲れが取れる気がした。


髪を乾かし、化粧水、乳液をつける。


無心で他のルーティンもこなすうちに、少しずつ思考が整っていく。


そして――


ここからが、いつもの「ご褒美」の時間。


キッチンの隅に置いた小さな袋。

白地に淡い草花が描かれたラベル。


これは、先日ハーブティー専門店で買ったカモミールのブレンド。


あの日、お店で試飲したとき、あまりの美味しさに購入したものだ。

まるで誰かに「お疲れ様」と言われたような、そんな安心感があった。


ポットでお湯を沸かす。

その間に、缶を開けてティーバッグを取り出す。


乾いた花の香りが、ふんわりと鼻に届く。

甘くてやさしい、どこか懐かしいような香り。


沸騰したお湯をカップにゆっくりと注ぐ。

カップを温めたら一度お湯を捨て、もう一度お湯を入れ、ティーバッグも入れる。


まるで花が咲くような香りがふわりと広がっていく。


蒸らし時間は約3分。

そのあいだに、照明を間接灯に切り替える。

部屋の空気が少し静まる。

テレビもスマホもオフ。

そして私の好きなBGMをかける。


この時間だけは、情報も誰かの声もいらない。


カモミールには、不安を和らげたり、眠りを助ける作用がある。


それを知っていたわけじゃないけれど、試飲した時、私は自然とこの空間を欲していたのかもしれない。


湯気の立つティーカップを持つ。

指先から伝わる温かさに、ようやく「今日も終わったんだな」と実感する。


ひとくち、そっと口に含む。

口当たりはやわらかく、じんわりと広がる甘さ。


今日あった職場での出来事が、少しずつ遠ざかる。


疲れたな。


でも今この瞬間は、手のひらの温もりと、この一杯だけを感じていればいい。


“ご褒美”って言葉は、少し照れくさいけど、

今の私にはこれが一番いいのかもと思ってる。


素の自分に戻るための、時間と香りと、やさしさ。

至福のひととき。


カモミールの香りが、ゆっくりと私を包む。

目を閉じると、深く呼吸ができる。


もう少しこのまま起きていたいけれど、眠くなってきた。


明日のことは、また明日考える。


今夜は、この静かなご褒美の中で、眠りにつこう。


いい夢見られるといいな。




ーあとがきー


カモミールは、昔から「眠りのハーブ」と呼ばれてきたそうです。

心を落ち着かせて、眠りを手伝ってくれる、そんな作用があるんだとか。


不安や緊張をやわらげたい夜にも、そっと寄り添ってくれる香りです。


ちなみに、カモミールティーはノンカフェインなので、寝る前にも安心。

ほんのり甘くてやさしい香りが、ふうっと気持ちをゆるめてくれるような気がします。


自分をいたわる時間に、ちょうどいい一杯かもしれませんね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る