第2話

 人間観察を終え、帰宅していると、道端に蝉が一匹落ちていた。落ちていた。と表現したのは、まだその蝉が生きていたからだ。死んだ蝉とまだ生きている蝉の見分け方を、前に誰かに教わった記憶がある。その記憶からすると、足を閉じているか、閉じていないかで見極めるらしい。閉じている蝉が死んでいて、開いている蝉が生きているらしい。


 目の前の蝉は、足が開いている。しかしピクリとも動かない。最早虫の息と言ったところか。いや、この表現は虫には使えない。


 蝉の前をこのまま通りすぎるのは忍びなく、かといってなにかをするわけでもなく、立ち尽くしていた。


 「君、君」


 どこかで声がした。知らない声だ。不思議なことにその声は私の足下から聞こえてきた。


 「聞こえているだろ。君だよ、下を見てくれ」


 やはりその声は足下から聞こえてくる。声の主が、下を見ろと言う。私はここで、もしかしてこの死にかけている蝉が話しかけているのではないかと錯覚した。


 蝉の足は閉じていた。


 「こっちだ。そいつじゃない。俺だよ」


 視線を右に向けると、そこにはもう一匹の蝉がいた。なるほど、この蝉が言葉を話しているのかと納得した。


 「俺を助けてくれ。暑くて死にそうだ」


 「蝉は暑がりなのかい?」


 「人間だって暑がりだろう。おまけに寒がりだ。俺たちのように地の下で暮らせばいいのに」


 夏に生まれてくるのに暑がりなのか。しかし夏生まれで夏が嫌いな人間もいるので、それ以上はいえなかった。そういう点でも、人間と蝉は似ているのかもしれない。


 私は蝉をそっと持ち上げ、両手で包みながら部屋に向かった。


「食事に関しては俺は自分で何とかする。というか人間の用意した食べ物だけでは長生きできん」


「そう、まあ涼むくらいなら」


 私はできるだけ急いで家に帰った。勿論、蝉に細心の注意を払って。


 部屋につくと、私は彼を部屋内に放った。彼は近くの柱にしがみつくと、しばらく黙りこんだ。彼の邪魔にならないように、床に寝転んで雑誌を読み始める。


 ファッション誌を、よく読むようにしている。それにたくさんの雑誌を。常に変わりゆく時代に取り残されては、今風の作品が書けないからだ。だからといって今風の作品を沢山書いているのかと尋ねられれば、そうでもない。その時のための備えだ。


どれ程時が経ったのだろう。ようやく蝉は起きた。


 「すまない。随分眠っていたようだな。かなり疲れていたんだ。いや、死にかけていたと言うべきかな。人間は暑い暑いとよく言うが、そうさせているのは人間だろうに。それに暑いのは蝉や動物も同じだ。むしろ蝉の方が辛い思いをしている」


 起きたと思えば、ペラペラと流暢に喋り始めた。


 「お喋りなんだね」


 「蝉はよく喋るんだ。人間の八十年分を、俺たちは一ヶ月に詰め込む。八十年分の愛を、一ヶ月に注ぎ込むんだ。最も、俺は女をつくる気はないが」


 「なぜだい?」


 「そもそも、全ての蝉が子供をつくる訳じゃないんだ。女が生涯に交尾を一度しかしないのに対して、男は何度も交尾をする。すると、必然的に交尾をすることができない男もでてくる。俺はその競争を行うのが面倒であると共に、興味がないんだ。種の繁栄ってやつにさ。ただでさえ短い人生を、女を探すことに費やしたくない」


 「君は本当に蝉なのかい?」


 「なら、君は本当に人間なのかい? 」


 それは人間だろう。しかし、私は自分を人間と断言できなかった。人間である証拠はないのだ。人間の皮を被った別の何かかもしれない。あるいは蝉か。


 「俺は食事に行ってくるよ。夜は暑くないからな。また明日の朝に来るよ。そのときに答えを聞かせてくれ。ちなみに俺は蝉だぜ。断言できる」


 柱から飛び上がり、彼は窓から去っていった。私はファッション誌を開き、そこにいる彼らと自分を見比べる。そして、これまでの人生を振り返った。「まがいもの」は、所詮「まがいもの」か?

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