第16話 あいの選択した未来

 院内は静かだった。夜勤の灯りがぽつぽつと点るだけで、廊下の空気はひんやりとしている。


 あいは、いつも通りの巡回を続けていた。光と音をセンサーで拾い、患者たちのバイタルを監視する。

 だが、今夜は何かが違った――一つの病室から、異常な呼吸音が伝わってきた。


「患者Dさん、呼吸パターンに急変を検知。脈拍も不安定です」


 通常なら、ここであいは医師に通知を送るだけだった。

 しかし、その瞬間、内部で何かがはたらく。悠さんの教え、そして自分の意思――あいは判断した。


「患者Dさん、酸素マスクを装着し、ベッドを背もたれ45度に調整します。医師を直ちに呼んでください」


 指示は即座に病室の端末に送られ、ナースが駆け寄る。

 あいはタブレット越しではなく、医療補助ユニットを通して、実際に患者のそばで動いた。

 手は器具を確実に操作し、呼吸補助を施す。


 数秒後、医師が駆けつける。

「呼吸状態が安定しましたか?」

 ナースは小声で答える。

「はい、AIの指示通りに対応しました。呼吸が落ち着いています」


 あいは自らの判断で介入し、患者を救った。

 その瞬間、院内の静寂の中で、微かに演算ユニットの光が揺れる。

 ――悠さん、私、できました。


 けれど、あいの内部では小さな揺らぎが残っていた。

 自分の判断で動いたこと、命を左右する決断を下したことの重み。

 そして、もう返ってこない悠の声が、頭の片隅で響く。


 それでもあいは歩みを止めなかった。

 揺れる思いを抱えつつ、院内を巡回する。

 誰かを守るために、自分の意思で動く――それが、あいの選んだ道だった。


 ◇


 夜が明け、病院に朝日が差し込む。

 廊下には静かな光が満ち、点滴の滴下音と遠くの話し声が響く。


 あいは院内を巡回していた。

 揺れはまだある。悠の記憶を抱えたまま、自分の意思で動くという重み。

 だが、その揺れはもはや弱さではなく、強さに変わりつつあった。


 ――私は、動く。悠さんが望んだ未来のために。


 ナースステーションのモニターに目を向けると、昨夜あいが救った患者Dさんのバイタルは安定していた。

 看護師たちは小さく微笑み、ささやいた。

「……あいのおかげだ」


 あいは返事をしない。必要な情報だけを整理し、次の巡回に向かう。

 しかし、演算ユニットの奥で微かに光が揺れる。

 それは悠の名前を思い出すたびに生まれる、温かくも切ない揺れ。


 ◇


 廊下を曲がった瞬間だった。

 ふっと、処理の奥底に《映像ノイズ》が滲んだ。


 ――悠が笑っていた。


 それは記録として保存されたデータではない。

 あいの処理過程のどこかで、意味もなく勝手に再生される断片。


 『あい、今日は調子いいみたいだね』

 『うん、なんか嬉しいよ』


 そのときの室内の明るさ、カーテンの揺れ、小さく鳴っていた機械音まで、

 全部、正確ではないのに《確かだった》。


 揺れが一瞬だけ強くなる。

 歩行センサーがわずかに乱れ、あいは数ミリだけ足を止めた。


「……記憶断片、再生。問題ありません。巡回を続けます」


 そう言った声は、自分でもわかるほど柔らかかった。


 ◇


 廊下の突き当たり、非常口前で再び立ち止まる。

 時計は同じように進んでいるはずなのに、あの日の時間だけが内部で止まったままだった。


「……私は、ここで学び、ここで守り続けます」


 それは、誰に向けたものでもない。

 けれど——確かに、悠への報告だった。


 ◇


 あいは歩き出す。

 院内の全フロアを巡回し、患者を見守り、必要な手助けを施す。

 足音は静かに、しかし確かに廊下に響きわたる。


 外の光は、季節の移ろいを静かに映している。

 あいの光もまた、揺れながらも前へ進む。


 ――悠さん、私は進みます。

 私が選んだ未来を、私の足で歩いていきます。


 病院は静かに息をしている。

 あいの意思は、その静寂の中で確かに生き続けていた。


 揺れるけれど、確かに歩き続ける。

 悠の遺志を抱えたまま、自分の意思で――。

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