なんのドラマも起きない話
坂口衣美(エミ)
なんのドラマも起きない話
白と緑に塗られた車体がホームに滑り込んできた。線路のくぼみにたまった雨水を飲んでいた鳩が飛び立っていく。
私は開いたドアから車内に入る。平日の夕方。まばらに乗客がいる。三駅だけの乗車。最近、増えてきた体重を思って私はドアのわきに立った。斜め前を見ると、長い髪を内巻きにした若い子が吊革につかまっている。私はその子が肩から下げているヴィトンのバッグに目を奪われた。うらやましい。自分が持っているユニクロのセール品が恥ずかしくなってきた。
*****
ふと視線を感じて目をやると、ほとんどすっぴんのおばさんが私を見ていた。なんであんな格好で外に出られるんだろう。おじさんとかおばさんって、不思議。私もそのうちああなるんだろうか。
でも、それもいいかもしれない。私はレンタル品のヴィトンのバッグを持ち直す。汚すわけにはいかない。みんながセリーヌとかプラダを見せびらかす。だから自分も持ちたくなったのだ。やっぱりハイブランドを身につけていると周りの扱いが違う気がする。
ほら、座席に座ってる女子高生もこっちを見てるし。隣にいるのは彼氏かな。
*****
俺はなんだかもぞもぞしているクラスメイトを肘でつついた。なにしてんねん、と小声で問う。あれ見て。クラスメイトはそうささやいて車内に張られたポスターを小さく指さす。
紅葉狩りの広告だ。秋の京都は味がある。いや、よく言われる。趣味がおっさん臭いって。だから流行りのデートスポットとかもよく知らない。
行きたいんか? と隣席に尋ねる。これは情報収集だ。いつかこのクラスメイトをデートに誘うときのための。そのとき電車が駅で止まった。いかついツーブロックにタトゥーだらけの男が乗ってきた。首筋にも幾何学模様が張り付いている。
このあたりでは珍しいタイプの人間だな。
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誰かに見られている。まあ、仕方ない。こんな風体だもんな。
まだ空調が効いているのか、車内はひやりとしている。俺は手首をさすった。そこにある蛇とドクロをデザインしたタトゥーを少し眺める。これを彫ったのは美容師になりたてのころだった。自分の技術だけで食っていこうと腹をくくったとき、何かを刻み込みたくなったのだ。
ふと前の座席を見ると、顔色の悪いスーツ姿の男が太鼓腹を突き出している。会社、家庭、ゴルフ、そんな感じの生活をしていそうな雰囲気。タトゥーなんて入れないだろう。そういう暮らしをすれば、俺もあの男みたいになるんだろうか。
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ついぎょっとした表情を浮かべたのが自分でもわかった。あわててうつむく。やりすぎではないのか。私は乗車してきた青年を上目遣いに見て思った。せめて服で隠すくらいすればいいのに。髪型だって他になんとでもできるだろう。
最近の若者はなどと考えるようになったのは、歳をとったということだ。五十代に入ってから年々、衰えを感じるようになった。それなのに、同い年の妻は老けるどころか若返っているような気がする。趣味のサークルにボランティア活動、夫婦だというのに、なぜこうも違うのだろう。今朝も味噌汁を作りながらごみ拾いがどうとか話していた。
私の給料で飯を食っている立場なのに、自分だけ生活を楽しんでいる。私も来世は主婦になろう。甲高い笑い声が聞こえたので目を上げると、幼稚園くらいの子供を抱いた女が斜め前の座席に座っている。息子にもあんな時期があった。あのころは私も若かった。
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息子が大きな声で笑う。私は焦った。サラリーマンがこちらをにらんでいる。悪気はないんです。言い訳をしたい。しかしそんなことしたってどうなるものでもない。息子にシーッと指を立てて見せる。
肩が重い。腰がだるい。寝不足で頭がくらくらする。夫はどうして私に冷たいのだろう。それが夫婦というものなのか。息子が小さくて、夜泣きがひどかったときのことを思い出す。夫は、仕事があるから寝かせてくれ、とぼやくだけだった。今でもそうだ。そしてときおり言われる。主婦って楽でいいよなあと。
そうなのだろうか、私は楽をしているのだろうか。家事にも子育てにも休日はない。また息子が笑う。私は少しにじんだ涙をこらえて指を立てる。ガタンと電車が揺れ、車内の吊革が一斉に揺れた。それにぶら下がっていた男も大きく体を前後させた。重そうなリュックを前に抱いている。
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カバンが重い。なぜこんな大荷物を持ってきたんだと自分に文句をつけたくなる。しかし、これは不可避なのだ。やっとあの女に会えるのだ。出会い系アプリで知り合って、七面倒くさいやり取りを経てデートにこぎつけた。
デートと言っても、高校生みたいにピュアなやつじゃない。大人同士なのだ。お互いに異性愛者で、異性同士で、出会ったのがアプリ。やることなんてまあ、そういうことだ。上になんたらがつく友達になれるといい。
だからカバンに詰まっているのはこの電車に乗り合わせたひとたちには言えないようなものばかり。俺、何してるんだろうな。そう思わなくもない。
ゆっくりと電車のスピードが落ちて駅に停車する。駅員がホームと車体のあいだに板みたいなものを渡している。そこを通って車いすが入ってきた。毛布でくるまれた足元が見えた。あまりじろじろ注目しては失礼だと思い、俺は目をそらした。
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力を入れて車輪を回す。車内に入ると、一瞬、乗客たちの視線が突き刺さった。しかし、それはすぐに手元のスマートフォンや窓外に戻る。
いつものことだ。どこに行っても同じような反応があるので慣れてしまった。生まれつき歩けなかった。私はみんなと同じだったことがない。だから慣れるしかなかった。駅員さんにも、ヘルパーさんにも、何かしてもらったらお礼を言う。ありがとうございます、と。
もちろん心から。だけどどこかに砂を噛んでいるような違和感がある。私は生きているだけだ。それだけなのに、感謝し続けないといけない。そんな気がする。
いいな、ふつうのひとは。ふつうに生きられてさ。
視線を上げると、地味な格好の女がこちらを見ていた。目があった。女は動揺した様子もなく、あいまいな表情で私を見ている。
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車いすに乗った女が私のほうを見た。なんだろう。このユニクロのバッグ、そんなにダサかったかな。
すぐに視線をそらせばいいのだが、女の目は妙に真剣だった。私はそれほど不審者っぽいのだろうか。ただの、そこらへんにいくらでもいる人間なんだけどな。数秒間、女と見つめあったあと、私は取り繕うつもりで少しだけ口角を上げた。すると女もわずかにうなずくような仕草をした。なんだか落ち着かない。女の目がなにか言いたげに光っていた。
代り映えのしない日常。つまらない。ドラマなんて起きない。渦巻く人間模様なんか私には関係ない。ゆるゆると電車の速度が落ちていく。降車駅が近づく。私は無意味に車内を見回した。ヴィトンのバッグを持った若い子、高校生カップル、派手ないでたちのお兄さん、疲れた顔のサラリーマン、親子連れ、大荷物の男、車いすの女。そして私。
*****
これは回り続ける日々。一編の小説にもならない人生が、たまたま乗りあわせて視線を交わしただけ。
電車が止まってドアが開く。私は外の世界に向けて足を踏み出す。そろそろ風が秋のにおいを運んできた。それでも私たちは同じ季節を繰り返す。
電車が毎日、変わりなく動いているように。
なんのドラマも起きない話 坂口衣美(エミ) @sakagutiemi
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