第7話 境界

 道の駅のベンチに並んで座ると、智絵は水筒のお茶を一口飲んだ。風が頬を撫で、遠くでツバメが弧を描いている。観光客の笑い声が遠くに響くが、二人の周囲だけが不思議な静けさに包まれていた。


 彼女は水筒の蓋を閉めながら、その重みを両手で感じていた。前回までの張り詰めた緊張とは違い、今日は心地よい疲労感と、ある種の解放感が漂っていた。


 隆志は、スマートフォンで走行記録を確認していたが、ふと手を止めて言った。


「今日の走行、記録しておきますね。次回は、もう少し複雑な交差点を……」


 その言葉に、智絵は小さく頷いた。だが、次の瞬間、彼女はぽつりと口を開いた。


「先生……ご存知かと思いますが、私、薬剤師だったんです。以前は。あ、今も薬剤師の資格はあるのですが」


 隆志は、スマートフォンをバッグにしまった。姿勢を正し、彼女に意識を向けた。


「ええ」


 智絵は、彼が自分を責めないこと、ましてや身体を値踏みするような視線を向けないことに、深い安堵を感じていた。その安堵が、長年閉ざしていた心の扉を叩いた。


「でも、調剤ミスをしてしまって。患者さんに渡してしまい、大騒ぎになりました。幸い、患者さんもまだ服用していなかったので、事なきを得ましたが……それ以来、自信をなくしていまい、事務職に回ることになって。もう、現場には戻れないのかと」


 隆志は、何も言わずに聞いていた。その静かな受け止め方が、智絵にさらなる勇気を与えた。智絵は、視線を遠くに向けたまま、言葉を続けた。


「それでも、薬の勉強は続けてるんです。誰にも言ってないけど……」

「それは、立派なことです」


 隆志の言葉は、感傷的ではなく、客観的な評価だった。それが、智絵には何よりも心強かった。


「……先生に、運転を見てもらって、思ったんです。私、失敗を怖れてばかりで、何も『見よう』としてなかった。薬のことも、人のことも」


 隆志は、少しだけ微笑んだ。


「都筑さん。あなたは、もう『見ている』人です。だから、次に進める。薬の勉強だって続けている。その行為こそが、あなたの“意志”が健在である動かぬ証拠です」


 智絵は、胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。思わず背筋が伸びる。涙が滲みそうになったが、彼の前で堪えた。

(先生は、私の“今”を見てくれている)


 憧れではない。尊敬でもない。それは、もっと静かで、もっと深い感情だった。


 隆志が、少し間を置いて言った。

「ところで、都筑さん。今のお話からすると、調剤の現場に戻りたいと思っているようですね」

「はい。でも今のところじゃ、ちょっとそれも言い出しにくくて。いずれにしろ、もう少し時間が必要です」

「そうですか。もう一つ。あの大学で私の講義を聞く人は限られています。都筑さんは何か理由がおありでした?単位が足らないから、という理由にはとても思えませんが」


 智絵は、少しだけ笑みを浮かべた。


「あ、それは、中学の時、先生のお話を聞いて、科学の世界に興味を持ちました。その時の印象がとても強かったので、大学で先生のお名前を拝見した時に、是非、また講義を受けたいと思ったのです」


「そうなのですね。私の講義で科学に興味をもってくれたのなら、とても嬉しいです。で、やっぱり環境科学の分野に進まなかったのは、地味だからです?」


 隆志は笑いながら言った。智絵は慌てて首を振った。


「いえ、あの、決してそんな。高校の時にちょっと入院をしたのです。その時の薬剤師さんにとても親身になってもらったから、というのがその理由です」


「なるほど。それは素晴らしい理由ですね。納得しました」


 隆志は、智絵の横顔を見ながら、静かに頷いた。

(この人は、誰かのために動ける人だ。他者への貢献を志している。やはり、その才能を埋もれさせてはいけない)


 智絵は、隆志の「納得しました」という言葉に、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

(話してよかった……)


 道の駅のベンチには、昼下がりの光が差し込んでいた。観光客の笑い声が遠くに聞こえる。けれど、二人の間には、初めて私的な領域に踏み込んだ、静かな時間が流れていた。


「先生、私……もう少しだけ、薬の勉強を続けてみようと思います。誰かに必要とされる日が来るかもしれないから」


 隆志は、ゆっくりと頷いた。

「それは、とても良いことです。誰かに必要とされる日を待つのではなく、あなたが“いつ必要とされてもいい人”であり続けることが大切なのですよ。つまり、常に準備をしておくということです」


 その言葉に、智絵の心の奥で、ひそやかな火がともった。道の駅のざわめきが、一瞬遠ざかったように感じられた。

(先生は、私を未来の結果ではなく、今の覚悟で見てくれている)


 その「覚悟」こそが、彼女の知性と意志を証明するものだと、彼は教えてくれていた。二人は、ベンチから立ち上がった。隆志は、スマートフォンを取り出しながら言った。


「では、次回の指導は予定通りで。また連絡します」

「はい。ありがとうございました」


 智絵は、ハスラーに乗り込み、エンジンをかけた。隆志が歩いて立ち去るのを、バックミラー越しに見つめる。

(憧れじゃない。これはいったい….)


 それは、凍りついていた知性を解放してくれた人への、抑えがたい敬愛だった。そして、その敬愛の奥には、静かに芽生え始めた女性としての関心が、複雑に絡み合っていた。


 ハスラーは、ゆっくりと駐車場を出た。智絵の視線は、前を向いていた。その目は、もう“見よう”としていた。過去の恐怖ではなく、未来の景色を探すために。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る