第2話 Sランクボスが出たので、「手ブレ補正」で物理的に殴ることにした
カイトたちが去り、完全な静寂が戻った鍾乳洞。俺は大きく息を吐き出し、その空気を肺いっぱいに満たした。
「……ふぅ。やっと行ったか」
普通の人間なら、この状況で吐く息は絶望の色を帯びているだろう。Sランクダンジョンの最深部『魔哭の回廊』。ここは、地上で言うところの「災害指定区域」と同義だ。一歩外に出れば、戦車の装甲すら紙切れのように引き裂く魔物がうろつき、空気中には致死濃度の魔素が漂っている。武器も、仲間も、帰還手段すら奪われた非戦闘員。それが今の俺だ。
だが、俺が感じていたのは、恐怖ではなく圧倒的な「解放感」だった。
「あいつらがいると、いちいち『キメ顔』が入るまで待たなきゃいけなかったからなぁ。攻撃の瞬間も、『顔が隠れるから』って派手なエフェクトを要求されるし……これでようやく、俺のペースで撮影ができる」
俺は鼻歌交じりに準備を始めた。ダッフルバッグのジッパーを開き、黒塗りの鉄塊を取り出す。俺の相棒、超重量三脚『アトラス・ポッド』だ。
俺はそれを片手で持ち上げ、地面に向かって垂直に突き立てた。
ガキンッ!!
硬質な重低音が洞窟内に響き渡り、鋼鉄よりも硬い岩盤に、三脚の先端が豆腐のように深く食い込んだ。重量2トン。超高密度金属ヒヒイロカネ製の特注品。展開すればあらゆる物理衝撃・魔法干渉を吸収する「絶対防御の盾」になり、畳めばドラゴンの頭蓋骨すら粉砕する「対戦車質量兵器」になる。俺のスキルによる筋力補正がなければ、持ち上げることすら不可能な、カメラマンの魂(物理)だ。
「三脚の設置よし。水平器、センター合わせ。……うん、完璧だ」
俺は愛機『ヴェリタス・ゼロ』を雲台にセットし、ファインダーを覗き込む。
「ISO感度は……この暗さなら少し上げて、粒状感を残すか。シャッタースピードは1/8000秒。ホワイトバランスは……少し青を強めにして、深層特有の絶望的な冷たさを演出してみよう」
カチャカチャとダイヤルを回す音が、心地よく響く。トオルは「AI補正が最強」と言っていたが、わかっていない。AIが作るのは「平均的な正解」だ。だが、人の心を動かすのは、撮影者の意図と狂気が込められた「偏った一枚」なのだ。
設定を終えた、その時だった。
洞窟の奥、闇の向こう側から、生温かい風が吹き荒れた。それはただの風ではない。肌が粟立つほどの濃密な魔力と、生物としての格の違いを見せつけるような、圧倒的な殺気を孕んだ「死の予兆」だ。
ピリピリと、肌を刺すようなプレッシャー。だが、俺の口元は自然と三日月形に吊り上がっていた。
「……来るな。この階層のヌシが」
俺はファインダーから目を離さず、重心を低く構えた。逃げる? 隠れる? まさか。最高の被写体が向こうから来てくれるのに、カメラマンが背中を向けるわけがないだろう?
ズズズズズ……ッ!!
地面が激しく揺れ、鍾乳石がバラバラと崩れ落ちる。洞窟の闇そのものが凝縮されたような巨体が、重厚な足音と共に姿を現した。
全長50メートル。光を吸い込むような、艶やかな漆黒の鱗(うろこ)。その隙間からは、溶岩のように赤く脈打つ血管が透けて見える。頭部には王冠のようにねじれた二本の角が生え、背中にはボロボロになりながらも強靭さを失っていない皮膜の翼。
伝説級モンスター『深淵のドラゴン(アビス・ドラゴン)』。Sランク冒険者パーティーですら、遭遇すれば全滅必至のエリアボス。その圧倒的な存在感は、まさに「災害」そのものだ。カイトたちなら、姿を見た瞬間に腰を抜かして失禁していただろう。
「グォォォォォォオオオッ!!!」
鼓膜を破るような咆哮が轟く。大気が震え、衝撃波だけで吹き飛ばされそうになる。普通の人間なら、このプレッシャーだけで心臓が止まりかねない。
だが、俺の網膜には、恐怖ではなく「解析情報(アナライズ)」が表示されていた。これは俺のユニークスキル『真・撮影』の常時発動効果だ。
《 被写体深度:良好 》 《 構図:黄金比率(フィボナッチ) 》 《 光源:環境光のみ(不足) 》 《 敵対性:Sランク(撮影許可:下ります) 》
「――いいね。素晴らしい威圧感だ。トオルのドローンじゃ、この黒の階調(グラデーション)は黒潰れして映らないだろうな」
俺は恍惚とした表情でシャッターを切る。パシャッ、パシャッ。静寂な死地に、小気味良いシャッター音だけが響く。
「もっと顎(あご)を引いて! そう、その角度! 鱗のテクスチャが最高に映える!」
ドラゴンが困惑したように一瞬動きを止めた。「なんだこの人間は? なぜ怯えない? なぜ命乞いをしない?」とでも言いたげだ。だが、すぐに王者のプライドが刺激されたのだろう。「生意気な虫ケラめ」とばかりに激昂し、大きく口を開けた。
ゴォォォォォォ……ッ!
周囲の空気が一瞬で熱せられ、蜃気楼が揺らぐ。ドラゴンの喉の奥が、まばゆいばかりの赤色に発光し始めた。口腔内に圧縮されていく、極大の黒炎。ドラゴンブレス。直撃すれば、このセーフティゾーンごと俺を灰すら残さず消滅させる威力だ。
「来るか……!」
俺は逃げない。一歩も引かない。なぜなら、ブレスを吐く瞬間、口腔内の発光が自身の顔を下から照らす「レンブラント・ライト」のような効果を生む。その一瞬こそが、ドラゴンの最も美しく、最も凶悪な表情を捉えられる「決定的瞬間(シャッターチャンス)」だからだ。
《 警告:致死レベルの光量および物理衝撃を検知 》 《 対策:手ブレ補正(スタビライザー)を展開します 》
俺はカメラを構えたまま、まるで証明写真を撮る時のような事務的な口調で告げた。
「あ、動かないでくださいねー。今、ピント合わせるんで」
【空間固定(ロック)・絶対手ブレ補正】
キィィィィィィン……!!
俺がスキルを発動した瞬間、周囲の空間が写真のように「硬直」した。物理法則が強制的に書き換わる。俺を中心とした半径3メートル以内は、いかなる衝撃も、熱量も、魔力干渉も、すべて撮影を阻害する「手ブレ(ノイズ)」として処理され、世界から切り離される。
ゴァァァァァァッ!!
ドラゴンが吐き出した地獄の業火が、俺に直撃する――寸前。俺の目の前にある「見えない壁」に衝突した。炎は左右に割れ、まるで滝が岩を避けるように俺の後方へと流れ去っていく。轟々と燃え盛る炎のトンネルの中で、俺はただ一人、悠然とファインダーを覗き続けている。
熱くない。眩しくもない。ただ、最高の被写体がそこにいるだけだ。
「なっ……!?」
ドラゴンの爬虫類特有の縦に割れた瞳が、驚愕で見開かれるのが、望遠レンズ越しにハッキリと見えた。自分の最強の攻撃が、ただの人間一人に通じない。その事実に理解が追いついていないようだ。髪の毛一本焦げていない俺の姿は、さぞかしドラマチックに映っていることだろう。
パシャリ。俺は、ドラゴンが驚愕に目を見開いた、そのマヌケで愛らしい表情を一枚収めた。
「よし、ブレスの閃光(フレア)は撮れた。次はアクションだ」
ブレスを吐ききった直後、ドラゴンには大きな隙ができる。肺の空気を入れ替える、ほんの数秒の硬直時間。俺はその瞬間を見逃さない。
俺は地面から、2トンの相棒(三脚)を引き抜いた。ズガガガッ! 岩盤を削り取る音と共に、黒い鉄塊が持ち上がる。遠心力が腕に食い込むが、心地よい重みだ。これくらいの重量がないと、Sランクモンスターの「質量」には対抗できない。
「照明の邪魔だ。退(ど)いてくれ」
俺は重心を低くし、ゴルフのフルスイングのように、三脚を横なぎに振り抜いた。
【三脚打法・一脚入魂(ヘビー・インパクト)】
狙うはドラゴンの鼻先。神経が集中する急所であり、被写体として一番前に出っ張っている「邪魔な部分」だ。
うなりを上げて迫るヒヒイロカネの塊。ドラゴンが回避しようと首を縮めるが、遅い。俺のシャッター速度(攻撃速度)は、すでに音速を超えている。
ドッッッッゴォォォォォォォンッ!!
洞窟内に、生々しい破砕音が響き渡る。鋼鉄よりも硬いはずのドラゴンの鱗が、粉々に砕け散った。そして、50メートルの巨体が、まるでピンボールのように真横へ弾け飛ぶ。
重力の法則を無視したような光景。
ズシィィィン!!
巨体はそのまま洞窟の壁面に叩きつけられ、凄まじい地響きと共に崩れ落ちた。 パラパラと岩石が降る中、ドラゴンは白目を剥き、舌をだらりと出して沈黙した。 完全なるノックアウトだ。
「……ふぅ」
俺は三脚を肩に担ぎ直し、残心(フォロースルー)を行いながら、カメラのプレビュー画面を確認する。
「いい画が撮れた」
画面には、ブレスの瞬間の火の粉、砕け散る鱗の輝き、そして吹き飛ぶドラゴンの躍動感が、奇跡的なバランスで収められていた。露出、構図、ピント。すべてが完璧だ。
「よし。ブレイブ・ストリームにいた頃は、こんなダイナミックな構図は撮らせてもらえなかったからな。『カイトが小さく映るからダメだ』とか言われて」
俺は満足して頷き、愛機を愛おしそうに撫でた。
まさか、この一部始終が。俺がカイトたちへの不満を漏らす独り言も、伝説のドラゴンを三脚で撲殺する映像も。「配信切り忘れ」によって、全世界にリアルタイムで流れているとは、夢にも思わずに。
俺の知らないところで、コメント欄はすでに爆発的な速度で流れ始めていた。
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