アンサンブル ―― テニス部を辞めた私が、幼なじみに救われて、音楽室で居場所を見つけるまで ――

悠月穂波

第1話 退部届

「本当にいいのか?」

 

 一音ずつ確かめるような、重く沈んだ声が夕暮れの職員室に溶けゆく。

 私の答えを待たず、顧問の田辺先生が続けて問いかける。

 

「部長を辞めるにしても、テニス部まで辞める必要はないんじゃないか?」

 

 先生の机に置かれた退部届に視線を留めたまま、この気持ちをどう説明すればいいのか考える。

 こんなことで悩む日が来るとは思わなかった。


「せっかくいい成績を残しているのに。このまま頑張れば、まだまだ上を狙えると思うぞ」

「もう少し状況がわかるまで時間をくれれば、問題の解決だってできるかもしれない」


 退部届から目をそらし、先生と向かい合う。

 この学校のどの先生よりも、一番よく見てきた顔だ。担任の先生よりも、ずっと。


 入学してから毎日、部活に明け暮れてきた。

 試験中の休部期間にも筋トレを欠かしたことはない。

 それだけ本気で取り組んできたのだ。

 引退式で後輩に引き継ぐまで、部長の役目を全うするつもりだった。


 でも……。

 

「もう、無理なんです」

 

 吐き出すように絞り出した言葉は、喉の奥に詰まって掠れ、思いのほか小さくなってしまった。田辺先生に届いただろうか。


 握りしめた拳に爪が食い込む。

 これ以上、あの場所にいる自分を想像するだけで、息ができなくなりそうだった。

 

「私には、限界です。ごめんなさい」

 

 先生からの視線を受け止めきれず、逃げるように窓の外へ目を向けた。

 職員室を赤く染める夕日が、校庭にバックネットの影を長く、黒々と落としている。

 野球部員たちの威勢のいい掛け声が、全開の窓を抜けて三階まで這い上がってくる。


 遠くから金管楽器のチューニングの低い音がかすかに聞こえる。

 トロンボーンだろうか。それとも綾音のホルンかな。

 楽器に疎い私には、どうせ聞き分けなんてつかないけれど。

 

「広瀬」

 

 いつも通りのバリトンの声で名前を呼ばれ、散りかけていた意識を慌てて引き戻す。

 先生と目を合わせた。


「……そうか。残念だが、お前がそこまで言うのなら仕方ないな。希望はわかった。今までご苦労さん」


 一拍置いて、先生は付け加える。


「気が変わったら、いつでも戻ってこい」

 

 部長の仕事を途中で投げ出す私なのに、気遣われてしまった。

 そんな資格はないのに。


「今までお世話になりました。ありがとうございました」

 深くお辞儀をして、せめてもの感謝を伝えることしかできない。

 

 ごめんなさい。




―――――――――

【あとがき】

本作を読み始めていただき、ありがとうございます。

この後、第5話までは主人公にとって苦しい展開(退部にまつわる葛藤や挫折)が続きますが、そこが物語の底です。


第6話からは、温かい仲間や幼馴染に囲まれ、音楽を通じて笑顔を取り戻していく「再起の物語」が始まります。 ぜひ、彼女が新しい居場所を見つけるまで見守っていただけると嬉しいです!

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