最適解
三角海域
最適解
人生は、選択の連続だ。
朝、何時に起きるか。ネクタイは何色にするか。どの株を買うか。誰と結婚するか。
そのすべてに「正解」を教えてくれる存在があるとしたら?
その魔法のようなアプリ『オラクル』を手に入れてから、彼の人生は劇的に好転していた。
「次は、右に曲がってください」
イヤホンから流れる無機質な合成音声に従い、彼は交差点を右折する。その直後、背後でガシャン! という激しい音が響いた。
振り返ると、たった今まで彼が歩こうとしていた左側の歩道に、建設中のビルの足場が崩落していた。
「……危なかった」
彼は胸を撫で下ろす。これで何度目だろう。
このアプリは膨大なビッグデータと未来予測AIを駆使し、ユーザーに「最も損をしない」「最も効率的な」行動を指示してくれる。
彼はもう、自分で考えることをやめていた。アプリの言う通りにしていれば、資産は増え、事故は避けられ、人間関係も円滑に進むのだから。
自分の頭で悩むなんて、時間の無駄だ。
彼はそう信じて疑わなかった。
月曜日の朝。通勤ラッシュのホームは、溢れんばかりの人でごった返していた。
到着する電車を彼が待っていると、スマートフォンが震えた。いつもの指示だ。
彼は画面を見た。
そこに表示されていたのは、信じられない一文だった。
『今すぐ、目の前の線路に飛び降りてください』
は?
線路に? 飛び降りろ?
ホームのアナウンスが、電車の接近を告げている。「まもなく、2番線に、快速電車が参ります」。遠くから走行音が迫ってくる。
誤作動だ。バグに決まっている──そう思いたかった。
だが『オラクル』は、これまで一度も間違えたことがない。
もし、ここに留まることで、もっと恐ろしい何かが起こるとしたら?
飛び降りることが、本当に「最適解」なのか?
(いや、でも……死ぬぞ?)
彼は初めてアプリに疑問を持った。
その瞬間、ドンッと背中に強い衝撃が走った。
「えっ――」
彼の体は、宙に投げ出された。
視界が反転する。悲鳴。ブレーキの金切り音。
迫りくる電車。
(僕だけに向けられた指示じゃ、なかったのか……?)
※
「きゃああっ!」
「人が! 人が落ちたぞ!」
パニックに陥る群衆の中で、一人の男がへたり込んでいた。
くたびれたグレーのスーツ。どこにでもいそうな、気弱そうな中年男だ。
全身をガタガタと震わせながら、祈るように両手でスマートフォンを握りしめていた。
この男が、彼を突き飛ばしたのだ。
殺意に満ちた悪人ではない。ただの怯えきった市民である。
ピロン、と軽快な通知音が鳴った。
『適正処置を確認』
男は引きつった笑みを浮かべる。
画面には、続きのメッセージが表示された。
『詳細:あなたの行動によりダイヤが大幅に遅延しました。結果、5km先で発生するはずだった橋梁崩落事故への当該車両の進入が回避されました』
『シミュレーション結果:推定死者数 312名 → 1名(被害の最小化に成功)』
男は、その文字を何度も何度も目でなぞった。
震える指で画面をさすり、涙をボロボロと流しながら、ただ一言だけを繰り返した。
「よかった……」
周囲の人々は、彼を“殺人犯”として遠巻きに見ていた。ヒソヒソと指をさし、軽蔑と恐怖の視線を向けている。
だが、男にはそんなものは届かない。
彼の中では、アプリが弾き出した「数字上の正義」だけが、唯一の真実であるからだ。
もし、アプリが間違っていたら? もし、ただの故障だったら?
そんなことを一瞬でも考えれば、彼の精神は罪の重さで圧死してしまうだろう。
駅員たちが駆け寄ってくる。
男は駅員には目もくれず、濡れた瞳でスマートフォンの画面に問いかけた。
「次は? 次の指示をください。僕は何をすればいいんですか?」
画面が明滅する。
そこには、いつもの無機質な明朝体で、ただ一言だけが表示された。
『待機』
男は静かに、その指示に従うことにした。
警察が来るまで、動かずに待つ。それが「最適解」なのだから。
迷うことはない。
男はもう、自分で考えることをやめてしまったから。
最適解 三角海域 @sankakukaiiki
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