孤独は加速する
柊 呉仁
孤独は加速する
金曜、十九時。
オフィスを支配していた規律という透明な檻。
それが、週末の解放という卑俗な開放感へと溶け出す刻限だ。
蛍光灯の白濁した光の下で、私は強張った表情筋を、一つずつ慎重に弛緩させる。
舞台袖で化粧を直す道化の、密やかで滑稽な儀式。
「お疲れ様。これ、よかったら」
斜向かいの席から、サトウさんが個包装のチョコレートを差し出してくる。彼女は常に完璧だ。その屈託のなさは、私の内奥にある薄暗い湿地帯を無遠慮に照らし出す。暴力的なまでの善意。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
口角を数ミリ吊り上げ、声帯を調整する。「感謝」という記号を空中に放つために。過剰であってはならず、欠落も許されない。私が構築した笑顔は、精巧な蝋細工のように無難で、徹底的に偽物だった。
サトウさんは満足げに豊満な頬を緩め、隣のスズキくんにも声をかける。
彼はモニターという電子の海から視線を引き剥がすことなく、短く礼を言った。
頑迷な無関心。他者の視線という毒矢をものともせぬ、城壁のごとき自意識。
私には、その城壁がない。私の皮膚はあまりに薄く、他人の評価という風に触れるだけで裂け、血を流す。だから私は道化の仮面を被り続ける。本当の私が、醜悪で臆病な肉塊であることを隠し通すために。
「お先に失礼します」
定時を三十分過ぎたところで、私は席を立った。それは逃走に似ていた。
「お疲れー、よい週末を」
サトウさんの声が、背中に温かな粘着質を残す。
エレベーターという鋼鉄の箱で、私は肺底に溜まった鉛色の息を吐き出す。今日もまた世界を欺いた。誰にも嫌われず、誰の記憶にも爪痕を残さず、ただの風景として存在し続けた。その安堵は甘美であり、同時に腐敗の臭いを孕んでいた。私は自らの影と共に、重力に従って一階へと沈んでいった。
六畳一間のアパートに帰り着くと、私はすぐにスーツという名の拘束具を脱ぎ捨てた。部屋を満たすのは、澱んだ沈黙と、私が一日留守にしていた間に蓄積された埃の匂いである。
ここには誰の視線もない。
誰の評価もない。
だがそれは自由というよりは、世界から切り離された独房の安らぎに似ていた。
コンビニで購入したパスタを電子レンジに放り込む。回転する皿の上で、人工的な色彩を帯びた麺が温められていく様を、私は虚ろな目で見つめていた。チン、という軽薄な電子音が、孤独な
味などどうでもいい。それは単なる有機物の摂取。明日もまた道化を演じるためのエネルギー補給に過ぎない。
私はフォークで機械的にパスタを巻き取り、口へと運ぶ。
その時だった。
テーブルの端で、スマートフォンが青白い燐光を放ったのは。
それは外界からの呼び声ではなく、単なる通知の明滅だったが、現代の病弊に侵された私は、パブロフの犬のように条件反射で手を伸ばしていた。指先が滑らかに画面を撫で、SNSのアプリを起動する。他者の幸福を陳列する、華やかで、かつ残酷なショーケース。
スクロールする指が、ふと止まった。
数分前に投稿されたばかりの一枚の写真。
そこに写っていたのは、見慣れた居酒屋の照明の下で、赤ら顔を寄せ合う男女の群れ。中央で白い歯を見せて笑っているのはサトウさんだ。その隣には、いつも無表情なスズキくんが、珍しく口元を緩めてグラスを掲げている。他にも二、三人の同僚の顔が見える。『今週もお疲れ様!急遽決まったお疲れ様会、最高!』という躍るような文字。
咀嚼が止まる。口の中のパスタは、瞬時に無機質な砂利へと変貌した。写真の中の彼らは、あまりにも楽しげで、あまりにも完結している。
そこには一つの調和があり、円環があった。そしてその円環は、私の不在によって初めて完成されているかのように見えた。
私の席はない。声もかからなかった。サトウさんのあの笑顔。スズキくんのあの態度。数時間前、オフィスで交わした言葉の数々が、瞬時にして意味を反転させ、私の脳裏で不協和音を奏で始めた。
――『お疲れ様』。
あの言葉は、私をオフィスから追い出すための合図だったのか。
――『どうも』。
あの沈黙は、私をこの宴から排除することへの無言の同意だったのか。
胸の奥底に、冷ややかな風穴が開いた。それは寂しさではない。もっと鋭利で、知的な絶望だった。私は画面を拡大し、彼らの瞳の奥に、私に対する嘲笑の影を探し始めた。私の内側で、孤独という怪物が加速装置のレバーを引いた。
月曜の朝。一週間の懲役を告げる、忌まわしいファンファーレ。だが、今日の私にとって、オフィスの自動ドアは単なる入口ではなく、私を裁く法廷への重厚な扉のように思われた。週末の四十八時間、私はあの写真を網膜に焼き付くほど凝視し、彼らの笑顔の裏に潜む暗号を解読しようと試みていたのだ。
「おはようございます」
私は意識して声を低く抑え、足早に自席へと向かった。
もはや道化の仮面を被る余力すらない。
周囲の視線が、私の皮膚をじりじりと焼くような幻覚に襲われていた。
「あ、おはよう!今朝は冷えるねえ」サトウの声が飛んできた。
金曜日までと同じ、あの屈託のない、春の日差しのような声音。しかし、今の私にはその明るさが、巧妙に研磨された刃物のように感じられた。
――彼女は知っているのだ。私が週末、誰とも会わず、独房のような部屋で膝を抱えていたことを。
その上で、あえてこの明るさを演じているのだ。それは「私たちはあんなに楽しかったけれど、あなたは?」という、無言の優越の誇示ではないのか?それとも、「仲間外れにしたことなんて、気にしてないわよね?」という、残酷な踏み絵か。
「……そうですね。寒いです」
私は目を合わせず、短く答えるのが精一杯だった。私の拒絶を含んだ態度に、サトウが一瞬、訝しげに眉を寄せた気配がした。見ろ。やはりそうだ。彼女は私の動揺を探っている。私が怒っているのか、傷ついているのか、その反応を楽しもうとしているのだ。
隣の席では、スズキがすでに仕事に取り掛かっていた。彼は私に対して挨拶すら返さなかった。キーボードを叩く音だけが、冷徹なリズムで私の耳を打ち続ける。かつては「集中しているだけだ」と解釈していたその沈黙が、今は明白な「軽蔑」として翻訳される。『お前のような、場の空気を読めない人間と話す価値はない』彼の背中が、雄弁にそう語っていた。
私は自席に座り、パソコンを立ち上げる。画面に映る無機質なデスクトップ。だが、私の意識は仕事には向かない。耳は異様に鋭敏になり、背後で交わされる囁き声、遠くで響く笑い声、そのすべてを拾い上げていた。
――笑っている。
彼らはきっと、私のこの強張った背中を見て笑っているのだ。
――『あいつ、やっぱり気づいてないよ』
――『誘わなくて正解だったね』
被害妄想という名の遠心分離機が、私の脳内で高速回転を始める。事実と虚構の境界線が曖昧になり、ありもしない悪意が、比重の重い真実として沈殿していく。私はチャットツールを開いた。業務連絡を確認するためではない。私を除外した彼らの「裏の会話」の痕跡を、化膿した傷口をあえて弄るような、倒錯した執念をもって掘り返すために。孤独はもはや感傷ではなく、私を突き動かす強迫的なエネルギーへと変質していた。
検索窓に自分の名前を打ち込む勇気はない。
代わりに、日付を指定してログを遡る。
あった。
金曜の午後四時。飲み会の直前の時間帯だ。サトウさんからスズキくんへの短いメッセージ。『あの件、どうする?やっぱり声かけたほうがいいかな?』スズキくんの返信。『いや、やめておこう。気を使わせるだけだし』
全身の血液が逆流する。業務上の会話であるという微かな希望は、灼熱した鉄板の上の水滴のごとく蒸発した。網膜に焼き付いた文字列が、私への死刑宣告へと変貌する。『気を使わせるだけ』その数文字が、鋭利なアイスピックとなって私の脳髄を貫いた。私は彼らにとって、共に楽しむ「他者」ですらない。切除されるべき、ただの腫れ物だったのだ。
「ねえ、今日のお昼なんだけど……」正午。
サトウさんが私のデスクに近づいてきた。いつものように、罪深いほど無邪気に。私は反射的に椅子を引いた。彼女のその光が、今は放射能のように恐ろしかった。
「……いりません」
私の口から漏れたのは、自分でも驚くほど冷たく、乾いた拒絶の言葉だった。
「え?」
「体調が悪いんです。放っておいてください」
サトウさんの表情が凍りつくのを、私はサディスティックな快感と共に眺めた。
そうだ、これでいい。嫌われるなら、中途半端な憐れみよりも、明確な敵意の方が幾分か潔癖だ。
私は逃げるように席を立った。午後一時のオフィスに戻ることは、もはや不可能だった。上司に「急な発熱」という稚拙な嘘を告げ、私は早退の手続きをとった。それは撤退ではなく、敗走だった。
帰りの電車の中、私は震える指でスマートフォンの画面を操作した。インスタグラム、X、LINE。私を世界と繋ぎ止めていた、細く頼りない糸たち。『アカウントを削除しますか?』警告のポップアップが出るたびに、私は『はい』を連打した。
削除。
削除。
削除。
私のデジタルな分身たちが、次々と虚無の淵へと突き落とされ、殺されていく。指先一つで断ち切れる関係など、所詮はその程度のものだったのだ。私はそう自分に言い聞かせた。
最後のアプリが消え、画面が初期状態のアイコンだけになった時、私は奇妙な全能感に包まれていた。これで、誰も私を傷つけることはできない。私は自らの手で、私という存在を世界から抹消したのだから。孤独はここで頂点に達し、そして静止した。
デジタルな分身たちを処刑し、社会という巨大な血管からの一脱を果たした翌日から、私の部屋は時間という概念を喪失した。カーテンの隙間から差し込む陽光が、床の上を這う黄金の蟲のように移動していく様だけが、外界における物理法則の残滓であった。
万年床の泥沼に沈み込み、天井のシミを凝視し続けた。最初の二十四時間は、甘美な陶酔が支配していた。それは、自らの喉笛を食い破られる恐怖から解放された草食動物が、暗い巣穴で味わう安堵に似ていた。誰も私を見ない。誰も私を裁かない。スマートフォンは黒い板となり、机の上で沈黙している。かつては私の神経系と直結し、絶え間なく電気信号を送り込んでいたそのデバイスは、今や単なるプラスチックの死骸に過ぎなかった。
だが、静寂とは、音がない状態を指すのではない。それは、自らの内臓が奏でる不快なノイズが、増幅装置を通したかのように響き渡る状態を指すのだ。三日目の午後、私は自らの肉体が発する腐臭に気づいた。それは衛生的な意味での悪臭ではない。魂が澱み、循環を止めたことによる、形而上学的な腐敗の臭気であった。
私はふらりと立ち上がり、洗面所の鏡の前に立った。そこに映っていたのは、名前を持たない一匹の未確認生物であった。無精髭に覆われた頬、窪んだ
これが私か?否。精巧な仮面を剥ぎ取られた後に残った、惨めな分泌物だ。
サトウさんへの媚び、スズキくんへの劣等感、それらで構成されていた外殻が溶け落ち、あとには脊椎動物としての尊厳さえ持たぬ、白くてブヨブヨとした「中身」だけが、恥ずかしげもなく脈打っていた。
私は鏡の中の像に向かって、笑ってみようと試みた。頬の筋肉を吊り上げる。しかし、それは笑顔にはならなかった。ひび割れた土壁が崩落するような、醜怪な歪みが顔面に走っただけであった。観客を失った道化は、笑い方すら忘却していたのである。
その瞬間、強烈な吐き気がこみ上げた。孤独とは、自由ではない。それは、自己という存在の輪郭線が溶解し、世界という虚無の中に拡散していく、緩慢なる自殺であったのだ。私はサトウさんの笑顔を幻視した。あの、暴力的かつ健康的な笑顔。かつては憎悪の対象であったその光が、今では、私が人間としての輪郭を保つために不可欠な照明であったことを、肉体が理解し始めていた。
私は、私であることを証明するために、他者を必要としていたのだ。その他者を、私は自らの手で殺してしまった。部屋の空気が、鉛のように重くのしかかる。窒息する。このままでは、私はこの部屋のホコリの一部となり、無意味な原子の配列へと還元されてしまうだろう。
私はドアノブに手をかけていた。
この『自由』という名の牢獄から逃げ出す、ただそれだけのために。
ドアを蹴破るようにして、私は夜の街へと飛び出した。
肺を焼くような冷気。
アスファルトを叩く靴底の衝撃だけが、私がまだ肉体という
どこへ行くつもりもない。ただ、あの澱んだ部屋の引力から、物理的な速度で逃れる必要があった。
駅前のロータリー。
繁華街の雑踏。
あるいは、光の中に紛れ込むことで、影としての自分を消滅させたかったのかもしれない。
だが、世界は残酷なほどに物理的だった。
すれ違う人々の肩。笑い声。車のヘッドライト。
そのすべてが、硬質な質量を持って私を弾き返す。
私は水と油のように、この世界の風景から遊離していた。
誰の視線とも絡み合わない。私は透明人間ですらない。
そこに存在する異物、世界という美しい絵画に付着した、拭い去られるべきシミ。
足が止まったのは、街を見下ろす高架橋の上だった。眼下に広がるのは、無数の光の粒子。
ビルの窓明かり、テールランプの奔流。そこには数百万の生活があり、数百万の「つながり」があった。
███さんの笑顔も、███くんの沈黙も、あの光の渦の中に溶け込んでいる。
「……綺麗だな」口から漏れたのは、あまりに陳腐な言葉だった。
だが、その陳腐さこそが真実だった。あの光の輪の中に、私の席だけが用意されていない。その事実を理解した瞬間、恐怖は消えた。代わりに訪れたのは、絶対零度の静寂だった。孤独はここに至り、純粋な結晶へと昇華されたのだ。
私は手すりに手をかけた。
鉄の冷たさが、火照った掌に心地よい。
加速装置は、今や臨界点を超えようとしている。
もう、道化の仮面はいらない。誰かに怯える必要もない。
私はフェンスの向こう側にある、広大な闇を見つめた。
そこには重力だけがあった。
私を差別せず、ただ平等に引き寄せてくれる、唯一の確かな法則。
身体がふわりと傾く。
視界の端で、街の灯りが流星のように尾を引いていく。
重力に抱擁される時間は一瞬、いや、永遠の刹那。
父よ、母よ、さようなら――
孤独は加速する 柊 呉仁 @hiiragi_kurehito
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