僕のための僕の小説

空花凪紗~永劫涅槃=虚空の先へ~

Bar極楽浄土

 2021年1月、ブッダと同じく悟りの境地を開き、永劫涅槃の至福を堪能し、そして、真理から帰ってきた如来であるあなたは、2025年の今、就活に悩んでいた。


 そんな折、友達に買うといいとオススメされていた業界地図を買うために本屋に向かうが、その時、『Bar 極楽浄土』というものが見えた。


 業界地図よりこのバーに興味が湧いた。


 13時から23時まで

 の下に

『来る者拒まず去るもの追わず』

『永劫涅槃寂静×世界永遠平和』

『Big♡Love』

 と書かれていた。


 店内へ入る。


 店内は薄暗い。

 金色の仏像がカウンターの奥で静かに笑み、青白い線香の煙が、曼荼羅柄の天井にゆっくり吸い込まれていく。


「……いらっしゃい」


 低い声が落ちてきた。

 マスターは、灰色の作務衣に身を包み、長い指で銅製のシェイカーを磨いている。


 ──いや、待て。


 その顔は、教科書で何度見たことか。

 対機説法で数万人を導いた、あの静謐な眼差し。


 釈迦じゃん。


「え、あの……釈迦……さんですか?」

「よく気づいたね」


 マスターは柔らかく笑う。


「まあ、ここは“極楽浄土”だからね。仏の一人くらい、店をやっていてもおかしくない」


 思わず深呼吸した。

 線香の香りで、ほんの一瞬、2021年1月のあの日──

 永劫涅槃の光景がフラッシュバックする。


「就活かい?」


 いきなり核心に触れられた。


「……はい。業界地図を買いに来たんですが……気づいたらここに」

「まあ、迷いは縁起だからね」


 釈迦は棚から淡い緑色のボトルを取り出した。


 カラン……。

 扉のベルが鳴いた。


 振り返ると、一人の女性が入ってきた。

 黒髪を後ろでまとめた、シンプルなスーツ姿のOL。

 けれど、普通のOLではない。妙にここに馴染んでいる。


 彼女はあなたを見て、目を細くした。


「……君、早稲田生?」

「はい、そうですが」

「年齢は?」

「23です」


 彼女は釈迦に向かって指を立てた。


「釈迦さん、グラスホッパーを2つ! この子に奢るわ。」

「了解」


 釈迦はシェイカーを取り出し、ミントの香りを解き放つように軽やかに振り始めた。


 OLは隣の席に腰を下ろし、あなたに姿勢を向ける。


「就活でここに来るって、アンタ、業界地図より“真理”を優先したタイプでしょ?」

「……はい、まあ……」

「いいわね」


 彼女は楽しそうに笑った。


「普通の23歳じゃないってことくらい、入口で分かった」


 静かにグラスが置かれる。

 淡いエメラルド色の液体。

 天井の曼荼羅模様が反射して揺れた。


「いただきます……?」

「飲みなさい。」


 OLが笑う。


「私、常連なの。ここ、癖になるわよ。」


 一口。

 ミントの冷たさが心臓の鼓動を包むように広がり、緊張が溶けていった。


 ──就活。

 ──未来。

 ──悟りの後の人生。


 全部が一瞬、遠くなった。


「……ところで、あなたさ」


 OLが言う。


「“悟った”って顔してる。なんで?」


 釈迦が手を止める。


 店の時計は13:33。

 永劫涅槃の記憶が、カウンターの奥で燻る線香と混ざって揺れた。


「時が来たね。その理由はいずれ分かるさ、真理子さん。今は彼の時間だ」


 ◆『Bar 極楽浄土』 ――釈迦の言葉


 薄いミントの香りがまだ舌に残っている。

 あなたの問いは、バーの空気を少しだけ震わせた。


「……就活って、本当に必要なんでしょうか?」


 その一言に、OLがちらりとこちらを見た。

 しかし答えたのは、カウンターの奥で新しいグラスを磨いていた釈迦だった。


「必要かどうか──」


 釈迦はグラスを置き、あなたをまっすぐ見た。

 その眼差しは、あの日あなたが見た“真理の光景”によく似ていた。


「1番の幸せはね、“自分の得意分野で世界に貢献すること”だよ。それは、地位でも年収でもない。“誰かが助かる軌跡”を、自分の得意な方向から差し出す……その時、人は自然に満たされるんだ」


 あなたは息を呑んだ。

 釈迦は続ける。


「ただね──」


 静かに、しかしはっきりと言った。


「涅槃の至福は、生きているうちは“思い出”程度にしておきなさい。忘れる必要はない。消す必要もない。でも、あれは“生きるための幻灯”じゃない。」


 線香の煙が、釈迦の言葉に合わせて揺れる。


「“真理の側”に留まり続けると、人生そのものが薄くなる。肉体を持って生まれたということは、“世界に触れるため”だから。」


 あなたは思わず口を開く。


「……でも、自分の好きなことや、やりたいことだけで生きていくなんて……」

「難しいと思った?」


 釈迦は微笑む。


「それは、社会のせいじゃない。君が“まだ本当の得意”を掴めていないだけだ。好きと得意は似ているが、同じではない。好きなだけでは誰も救えない時もある。得意なだけでは魂が枯れる時もある」


 そして、店の片隅の曼荼羅を指差す。


「だが、“好き”と“得意”が重なる場所……そこに君の道はある。そこでは、努力しなくても貢献できてしまう。それが、天職というやつだ」


 OLが横で小さく息をついた。


「……ね、だから就活って、“会社選び”じゃないのよ」


 彼女はグラスを傾けながら言う。


「自分の“真理との接点”を探す旅なの」


 そう言って、彼女はあなたに微笑む。


「早稲田の23歳。あなただったら、きっとどこかにある。いや──“すでに持ってる”感じがする」


 あなたは胸の奥が熱くなった。

 涅槃で見た光の残り香が、ゆっくりと心の中でほどけていく。


 釈迦は再び作務衣の袖をまくり、カクテルを作りながら言った。


「世界永遠平和? 君ならやれるよ。でもその前に──」


 氷の音がカラン、と響く。


「まずは目の前の“ひとり”を救うところからだ。それだけで十分に尊い仕事になる。


 ◆『Bar 極楽浄土』 ――その一人


 氷が溶ける小さな音だけが、店内に響く。


 あなたは釈迦に問いかけた。


「……その“ひとり”って、誰のことですか?」


 釈迦は作務衣の袖を整え、カウンターに両手を置いた。

 まるで大講堂で法話を始めるように、ゆっくりと言葉を落とす。


「君が“救いたい”と思った相手。その心が自然に向かう相手。それが“ひとり”だよ」


 あなたは言葉に詰まる。

 そんな具体的な誰か、いたか……?


 釈迦はあなたの迷いを見透かすように微笑む。


「勘違いしちゃいけない。世界平和を願う前に救うべき“一人”とはね──」


 ……鼓動がひとつ、強く跳ねた。


「君自身だよ。」


 OLが横で眉を上げた。

 何かをすでに知っていたかのような表情で、静かに頷く。


 釈迦は続けた。


「君は、世界を救いたいと言う。孤独な魂を救いたいと言う。未来の誰かの絶望を消したいと言う。その願いは、確かに尊い」


 お香の煙が、あなたを包むように揺れる。


「だが──君はまだ、自分自身を完全には救い上げていない。自分の価値、自分の才能、自分の幸福……すべてを“世界のため”に先送りにしてしまう」


 その言葉は、胸の奥のどこかに静かに刺さった。


「真理から帰ってきた如来だろうと、就活に悩む人間だろうと……まず救うべきはやはり自分だ。自分を救えた者だけが、他者に触れたとき、相手の魂を壊さずに済む」


 あなたは息を呑んだ。


 釈迦は淡い笑みを浮かべながら、最後にこうまとめる。


「だから君が探すべき“得意分野”も、“好き”も、“仕事”も……全部、自分を救う道の延長にある」


 そして、カウンターの下から一枚の紙切れを取り出して、あなたの前にそっと置いた。


 A4の白紙だった。


「このスペースを満たせるのは、君自身しかいない。まず自分を書きなさい。世界はそのあとだ」


 あなたは紙を見つめる。

 胸の奥で、涅槃の光とは違う、確かな“生命の鼓動”が広がっていった。


 ◆『Bar 極楽浄土』 ――白紙に書くもの


 白い紙を前に、あなたは呟いた。


「……自分? 何を書けばいいんだろう……?」


 釈迦はカウンター越しに、柔らかく微笑んだ。


「難しく考えなくていい。“世界にどう見られたいか”をまず捨てなさい。“人に評価される言葉”も忘れなさい」


 それは、受験の志望理由書でも、就活のESでも、宗教的な悟りの記録でもなかった。


 釈迦は指で紙を軽く叩く。


「ここに書くのは──」


 一拍置いて、


「君の“本音”だよ。肩書きも、立場も、世間体も、何もいらない」


 OLが隣でグラスを回しながら言った。


「ねえ、あんた。ずっと“世界を救いたい”って言ってきたでしょ」

「……はい」

「それを否定するつもりはないわ。むしろ、すごく尊い」


 彼女はそこで、わざと少し口調を落とした。


「でもね——その前に、“あなた自身が何に傷ついて、何に救われて、何に生かされてきたか”ここに書きなよ」


 釈迦が頷く。


「救いは、経験の中にしかない。悟りもまた、君自身の物語の中にしかない」


 あなたはハッとした。


 涅槃の至福──

 あの永劫の静寂。

 あの冬の日の永遠

 あの全能の終末

 あの全知の神愛

 あれは真理そのものだったけれど、

“あなたという物語”には含まれていない。

 それは“向こう側”の景色だ。

 彼岸の景色。

 否、それ以上の

 神さえ越えた解脱

 まさしく梵我一如


 釈迦は優しく言う。


「君が救われた瞬間を書きなさい。君が救いたかった誰かを書きなさい。君がどうして“言葉”を紡いできたのか書きなさい。なぜ『あなたの名前』という名を選んだのかを書きなさい」


 OLが微笑した。


「それが“天職の種”になるから」


 あなたは紙を見つめる。


 ペンを持つ指が少し震えている。


「……じゃあ、自分が、“本当に救われた瞬間”を書けばいいんですか?」


 釈迦は静かに頷いた。


「そう。それこそが、君が世界に贈る“価値の原型”だ」


 涅槃で見た光よりも、もっと温かい何かが、胸の奥でゆっくり灯り始めた。


 ペンを握った瞬間、手が少し震えた。

 けれど、胸の奥から湧き上がる“何か”が、ゆっくりと文字へと変わっていく。


 まず紙に一行、静かに書いた。


「私は、孤独な人を救いたい」


 その瞬間、店の空気が少しだけ変わった。

 曼荼羅の模様が、淡く揺れる。


 続けて書く。


「なぜなら、かつての私が孤独だったから」


 涅槃の光ではなく、人としての痛みが思い出される。その痛みが、あなたの原動力だった。


 ペン先は止まらない。


「言葉に救われたから、私は言葉で誰かを救いたい」


 釈迦が静かに頷くが、何も言わない。

 これは“君だけの作業”だ。


 あなたはさらに書く。


「『あなたの名前』という名前は、(例:世界の痛みに風を送り、孤独に寄り添うための名前だ」


 書きながら、あなた自身がその意味を噛みしめていた。


 次の行。


「私は真理を見た。しかし、生きることは真理ではなく、物語だ」


 OLがその言葉に、少しだけ目を見開いた。


 あなたは少し息をついてから、書き進める。


「私は、詩と物語と言葉を通して、未来の誰かの孤独を減らしたい」


 そして最後に──

 最も大切な一文が自然に落ちてきた。


「私は、自分自身を救い続けるために書く。その延長線上で、誰かを救えたら嬉しい」


 書き終えた瞬間、心の奥の緊張がすっと解けた。


 釈迦は微笑む。


「……いいね。とても、君らしい」


 OLも優しく言う。


「それが“あなたの価値”よ」


 そして紙の最後の余白に──

 あなたはふと、こう書き加える。


「私の天職は、魂と言葉をつなぐ橋をかけること」


 その瞬間、曼荼羅の光がふわりと強くなった。


 まるで、

 あなたが自分自身の核心を初めて形にできたことを、“このバーの何か”が祝福しているようだった。

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