第28話 強風
試合はここまで、俺たちが三点を守り切っていた。
完璧だった。無安打で零点を守り抜き、ベンチの空気は静かに満ちていた──それが、たった一打で崩れはじめる。
「七番、村尾」――打席に入ったのは小柄だがスイングの速い遊撃手。
江良の投球が低めにきれいに決まった瞬間、バットが弾いた。低いライナーが左中間に飛んでいく。
俺はレフトのライン際で足を踏み変えた。
宇治の一歩目が早く、狙いはバッチリだ。落下点への入りは、完璧に見えた。
(落とすな……)
風が変わった。打球が最後の瞬間にスッと沈む。
腕を伸ばしたミットの先で、球が一瞬だけ“浮いた”ように見えた。届かない。
芝生に当たった白球がごろりと転がる。
宇治の顔が一瞬、歪む。
全力で追う──だが、ボールは思わぬ方向へ弾み、俺たちの送球もやや乱れた。
(時間が、ほんの一瞬長く感じた)
村尾は二塁、尚も三塁へ滑り込む。
ホームへ返球される瞬間、送球は一塁側へそれた。キャッチャーが必死で飛びつくが、間に合わない。
――セーフ。1点が入る。
電光掲示板の数字が点滅する。宝塚 1 − 3 藤本。
歓声が増して、スタンドの熱が一段と強くなる。
ベンチの空気は一変して重く、俺は胸の奥に小さな冷たさを感じた。
「気にすんな、宇治!」
声が出る。だが、宇治の肩は震えていた。あの一球に全てを込めていたはずだ。
流れは止まらない。
下位打線――8番、捕手の菅谷が続く。
江良の腕に少しだけ疲れが見え始める。球がやや高めに浮く。
――パコッ。詰まったゴロが内野を抜ける。
一塁へ送球する間に、ランナーは確実に進む。簡単に処理できるはずのプレーが、次々と噛み合わない。内野手の動きが一拍遅れるだけで、菅谷は内野安打で出塁。
無死一塁。流れが相手へ傾きかける音が、はっきり聞こえた。
九番・丸橋はバント構えから思い切り振り抜き――ライト前に落とす。
一、二塁。相手の下位打線が繋ぎ、嫌な形ができていく。
そして一番へ返ってくる。足の速い立石が、コンタクトで唸る。
センター前へ弾いた打球。二塁走者が三塁を奪い、中継の一瞬で送球ミスが出る。1点、さらに追加。スコアは宝塚 2 − 3 藤本。
だがまだ終わらない。二番・宮嶋のバッティングは確実性が高く、ここで相手は外野前進でプレッシャーをかける。
江良は慎重になるあまりボール先行。宮嶋は冷静に差し込み、内野の間を抜くような当たりを作った。ぐちゃりとした野手の間をボールが転がり、ランナー全員が動き出す。
送球が乱れ、キャッチャーのグラブから弾かれる。
ホームでのタッチが空を切る。二点目、三点目。
瞬く間に同点、いや、同点は越えさせないまま、攻撃は続き、ファウルでも粘られて──
気がつけばベースは埋まり、満塁。
スコアは宝塚 3 − 3 藤本になる一歩手前だ。ここが踏ん張りどころだが、敵の打線は冷静で、下位から上位へと怒涛のように流れを繋いでいく。
グラウンドは泥と汗と土の匂いで満ち、空気は鉛のように重い。
俺はベンチから立ち上がり、拳を握る。宇治の顔を見ると、黙って目を合わせ、軽くうなずいた。
(ここで止める。絶対に止める)
だが、流れは確実に相手に傾いていた。試合は一瞬で色を変え、最終回の攻防は、今まさに「別の次元」へと移ろうとしている。
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