母のパスワードから僕の名前が消えた
千代田 白緋
未来のお前へ
ある日、母のパスワードから、お前の名前が消えた。
何を言っているんだと思うだろう。
何のパスワードだったかは忘れたが、分かりやすく表すなら、凛子という娘と昭二という息子がいた時に、母親がパスワードを「rinkosyouji1234」にした場合、「syouji」部分が消えて「rinko1234」だけになったということだ。
お前自身、母が新しくパスワードを決めている画面を見た時に初めて、自分の名前がパスワードから消えるという事象における感情というものを観測した。当時のお前も混乱していた。だから今のお前がこの感情、事象を理解するのに時間がかかるのは仕方がない。まずは事実だけ受け止めることだ。
さて、この瞬間の感情は何と言うか、母の中で自分の存在の優先順位が下がった悲しみに似た感情、そして所詮、パスワードごときに気持ちが揺らんだ己の幼稚さに呆れる感情が完全に混ぜ切られることなく中途半端に渦を巻いてるようだった。土砂降りの雨がガラス窓に激しく当たった時にしたたる水滴の色とアメリカンな量産型お菓子缶に使われているような主張の激しい人工色の赤が混ざったような色の渦だ。
そして厄介なのは、中途半端に渦を巻いているものだから、この感情を起点として何か行動や言葉を紡ぐことが難しかったということだ。分かりやすく、母がお前の存在を軽蔑したり、自分自身がその幼稚さに苛立ったりすることがあれば、端的で明快な言動になり得る。だがそうはならなかった。現にお前は沈黙を選んだ。つまり、母のパスワードを見る前と見た後で他人から見たら、この世界の風景に様子に変化はないわけだ。唯一痕跡を残したのは、お前の心の中、心象風景の渦だけだった。この渦。一度、混ざり始めたものの、途中で混ざるのをやめた。これは「これ以上考えるな」「この渦が混ざりきり、感情に完全な名前がついてしまったらどうする」という危機感で止まった。故に、当時のお前が取れる選択肢はないに等しかった。このまま渦を飼い続けるのか、完全に名前をつけて心外に排出するのか。一度、渦が巻いてしまったものをまた別々にすることは難しい。どれだけ心象風景とはいえ、物理法則に反する。
正直、どうして母のパスワードから自分が消えたのか、それを聞き出すことは無意味だ。なぜなら、母が特別な感情でそういうことをした訳では無いと推測しているからだ。お前は望まれていないのにも関わらず、他人の心を推測する癖があるからな。
ただ、きっと、母に理由はない。お前が聞いても「あ、ほんまや。あんたの名前も入れておく?」と逆に聞かれるのが関の山だ。無自覚に、自然と、流れるようにお前の名前は消えた。渦にカミソリの刃を入れるのは勝手な自傷行為、考えすぎの産物だ。ただ、お前は入れた。
母はいつだってそうだったではないか。学校の人間関係で気持ちが沈み、何も考えられない状態になったお前に「京都の絶景特選」という動画サイトに投稿された映像を見せたときだって、何も考えていなかった。お前は映像をしばらく見て、母に伝えたな。「悲しい」と。美しいものを美しいと思える心の余裕がない自分を明らかにされて呟いた言葉にも理解は得られなかった。
さあ、ここで傷を浅くする甘い一般論を述べよう。今回の件、お前の名前が消えたのではなく、姉の存在を少しでも現世に形として残したい、さもなければ忘れてしまうという没後7年という時間的危機感の結果、姉の名前が強く意識されたという視点だ。きっとそうに違いない。「片時も忘れないように」、そう考えるのは妥当だし、正しい。そういう点では、お前は生きている以上、何もしなくても現世に存在は残り続ける。ただ、時々思うよな。亡くなった人の方が、日々想われ、意識される。言い換えれば、大事にされる。そこに微塵も、もやもやを抱くなってのは世知辛いよな。お前だって、母から想われたい。ただこう思うのもお前がまだ’’母の子供’’だからだ。お前が今後、所帯を持ち、それこそ自分の子供ができたら、この渦はどこかに消えるだろう。在ったことさえ、忘れる。ならば、この渦を記録に残しておこう。そう思い、母にお前が結婚して何年か経ったら、この手紙を渡してくれと預けた。
最後に、お前、俺自身よ。子供がいるかどうかは知らないが、パスワードに子供の名前を使うのはおすすめしない。子供は結構、見てないようで、親のことを注意深く見ている。些細なことでも、渦は巻く。渦が巻けば、螺旋の先で傷つくかもしれない。それだけは覚えておいてくれ。
母のパスワードから僕の名前が消えた 千代田 白緋 @shirohi
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